30/10/2024

2024.10.30(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記28章12節
主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章58節
私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
非常に私事で恐縮ですが、今日のローズンゲンに示された新約聖書・コリントの信徒への手紙15章58節は、私が最も愛する聖句のひとつです。この言葉に励まされながら今まで歩んできた、つまり私の指針とする聖句なのです。
 
苦労は決して無駄にならない。このひと言に私は大きな慰めを受け続けてきました。クリスチャンになったからと言って、苦労が無くなったわけではありません。それどころか、クリスチャンとして生きることにはかなりの苦労がともなうと私は思うのです。しかし、にもかかわらず、その苦労は決して無駄にならない。無駄にならないどころか、イエスによる勝利を見ることができるのだとパウロは述べているのです。
 
ただし、そのためにパウロはひとつの「条件」を読み手に知らせます。それは「主にあって」のひと言です。主にあってというのは、主に結ばれている状態、救い主イエス・キリストにつながれている状態のことであると言えるでしょう。つまり、私たちが味わう苦労が苦労でありながらも、その苦労は、イエスが私たちのためにご自分の十字架に縛り付けてともに磔(はりつけ)にしてくださった。だからこそ、苦しみのなかに大きな慰めがあり、その苦しみを通して、私たちは主イエスに「あって」希望を抱くことができるのだと。その希望は、イエスが勝利者として私たちとともにいてくださることによる希望なのだと、私は受け止めたいのです。
 
そういうことを考えると、苦労は主イエスを知るための道標のようなものなのかもしれません。それは、顔に汗をしてパンを食べつつ、土を耕さなければならないような状況のなかにあっても、神は必ず天の扉を開いて私たちのために恵みの雨を降らせてくださるという、今日の旧約聖書の言葉に相通じるのではないかと思ったのです。そういえば、申命記が書かれたのも、流浪の神の民が約40年の苦労の最後に聴いた言葉でした。
 
そんな言葉に励まされながら、今日の一日を過ごしていくことができますように。お祈りします。

29/10/2024

2024.10.29(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言2章6節
主が知恵を授け
主の口から知識と英知が出る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11章25節
イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された新約聖書のことばは、イエスによる招きの言葉として知られる「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)の前段として語られたものです。イエスはご自分のところにそのような方々を招くにあたって、招かれる人とはどういう人物なのかについて語られています。
 
それが「幼子のような者」であるとイエスは言われました。そして、ご自分のそのような知恵は、いわゆる知恵ある者や賢い者へは「隠される」というのです。そういう人たちにこそイエスの知恵があふれるというのではないのです。幼子が素直に欲しいものを求め、自らの命の助けとするように、イエスの知識に込められた「命」を求めたいと心から願う者たちに対して、イエスは両手をひろげて、人々を招かれるのです。
 
さて、私は考えました。そのようなイエスの与える知識を、私が神から与えられた命をもって今日も生きるために、幼子のように欲しているだろうかと。単なる知識吸収のために、教養だけを手にするためだけに、また、なんとなく理由も根拠もなく、イエスによる招きに与りたいとは思うけれど、招かれたら招かれたで、イエスの思いなんていうものをないがしろにして、自分のしたいことだけを謳歌しようとしていないだろうか。そんなことを考えさせられたのです。
 
イエスの与える知恵というものは、本当にそれを知りたいと心から願う者たちに示されるというこのひと言が、今日を生きるピリリとした刺激のあるものとして、私の命を活かしていくのだ。そのように思わされたのです。なにも甘いものだけではない、ときにイエスの持っているピリッとした感覚によって、身をただされることも大切なのだと。
 
どうぞ今日の一日が、皆さんにとってもイエスの知識を求める幸いというものを感じ取ることができますように。お祈りします。

28/10/2024

2024.10.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編16編10節
あなたは私の魂を陰府に捨て置かない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書11章25〜26節
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
昨日は、そろそろ教会や集会、またはオンラインを通して、主の日を祝われたのではないかと思います。私の働く仙台宮城野教会では、年に一度の特別礼拝として、アシュラムセンターの榎本恵牧師をお迎えして、礼拝と集会のひと時を持つことができました。朝早くから準備がありましたので、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。今日も東京で会議がありますので、新幹線のなかで黙想をして、今スマホから書き綴っているところです。とても便利だなあと思いながら、今朝も御言葉が与えられたことに感謝したいと思います。
 
陰府(よみ)という言葉があります。生きていることが「陽」だとすれば、その対極にあるのは「陰」であり、生の対極にあるのは死であると理解できます。つまり陰府とは、命から捨て置かれた状態のことであり、命の与え主である神から遠く離されている、まるで関係性が断絶した状態であるとも言えるでしょう。
 
そのような場から、詩人は叫びます。私を陰府に捨て置かないでくださいと。これが文字通りの死を指すのかどうかは分かりませんが、神との関係性が断ち切られてしまうことがあってはならないのだ。そんな詩人の切なる思いというものが聞こえてくるような気がします。
 
しかし、この詩人は同時に、私を陰府へと誘導しない方がおられる。それこそ、私の神なのだという確信を抱いているのも、この文章から聴くことのできるメッセージなのだと思わされるのです。
 
この詩人の確信は、やがてイエスによって語られた「道・真理・命」という、自信を表す宣言の言葉によって明らかにされます。私はいのちである。生命の授け主である神の目に見えるかたちとして、イエスが私とともに立ってくださるのだと。決して遠くない。いや、近くにおられる神が、今日も皆さんを捨て置かれないのだと私は信じながら、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。
 
どうか皆さんの新しい一日にも、復活の主が臨んでくださいますように。お祈りします。

26/10/2024

2024.10.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編23編1節
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章11節
私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今週も最終日を迎えました。この一週間を振り返りつつ、新しい週の備えとすることができますように。その振り返りの前に、今日のローズンゲンに示された御言葉に触れたいと思います。
 
今日の聖書の言葉は、旧約も新約聖書も大変よく知られた有名な聖句であると思います。そしてその両方に共通するのは「羊飼い」というワードです。群れていないと簡単に害獣に狙われてしまう弱い動物である羊を守るために、常にその世話をする羊飼いの役割とは何か。それは、私たちが羊飼いである主なる神、そして今日の新約聖書にもあるように、私は良い羊飼いであると言われたイエスが、どのような役割をもって私たちに触れられたかを知ることによって明らかにされます。
 
イエスは言いました。良い羊飼いは羊のために命を捨てると。そうです。羊を守るために自ら命を捨ててまでその務めを行う羊飼いの役割というものがイエスによって語られました。つまり、良い羊飼いであると自分を表現したイエスは、その羊を守るために命を犠牲にすることすらいとわない。そのような御方であることを明らかにしているのです。
 
そのようなイエスを、私たちは「十字架と復活を通してなされた救い主」としていただき、その救い主であるイエスが、ご自分の命をもって今もなお、私たちにご自分の言葉と行いを示され、聖霊の助けをもって私たちの内に外にそのことを気づかせてくださるというのです。私たちは自分を犠牲にしてまで人の命を守ったりすることはなかなかできない存在です。だからこそ、イエスはその無理難題を一手に引き受けてくださった。実にダビデが神に向かって、私にはあなたが羊飼いであることで、何ら乏しさを感じることはないのだと告白することができたのでした。
 
今日もそのような神が、救い主イエスがともにいてくださる。そのことを私たちに気付かせてくださるのは、聖霊の働きに他なりません。どうか、現実の過酷な状況があったとしても、いや、あるからこそ、私たちを養ってくださる方が今日一日の祝福を注いでくださいますように。お祈りします。

24/10/2024

2024.10.24(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編36編10節
命の泉はあなたのもとにあり
あなたの光によって、私たちは光を見ます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章4節
それは命であった。この命は人の光であった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「光」です。皆さんもご存知のように、聖書において「光」は、もっとも重要な言葉のひとつと言えるでしょう。神が聖書において一番最初に登場する言葉は「光あれ」というものでした。この言葉とともに、天地万物の創造が始まりました。
 
闇を照らす光。その闇は心の闇、実際の暗闇、暗闇を感じさせる世の中の出来事、もろもろあるでしょう。そこに光が投じられるとき、私たちはそのまばゆさゆえに驚き、恐れおののくことがあるかもしれませんが、すべてが明らかにされるその先駆けとして差し込む光によって、私たちは希望や喜びを見い出すきっかけとなるのだと。これが、神の民がその折々において望んできたことでした。
 
今日の旧約聖書のことばである詩編の一節は、その光こそ「命の泉」であると歌っています。喉の渇きをいやし、命を支えるために無くてはならない水の存在。これもまた、天地創造の際に、神の声によって混沌とした世界に整理が付けられて、やがて地面の部分と海の部分に分かれた。つまり、光とは物事を整理し、時には分離や結合をすることによって、それ自体が明らかになることをも意味しているのだと私は思いました。
 
つまり、私たちが生きていく際に必要な「判断と決断」というものは、神が投じてくださる光があってこそ、私たちの判断が豊かにされていき、神の御心に沿った決断をするためのなくてはならない助けになるのだと思うのです。この光がないと、私たちのそのような判断や決断というものが、いつしか独り善がりなものに変容してしまうことによって、その光りかたは屈折してしまうのだと。
 
今日の新約聖書のことばで、人の光としての「言(ことば)」の存在が描かれています。このことばこそ、救い主イエスであると私たちは信仰の言葉として受け取り続けてきたのです。イエスが与えてくださる命の光。この光に支えられつつ、今日の一日も、生きてまいりたいと思います。皆さんの一切に、神の光による喜びと望みがありますように。お祈りします。

23/10/2024

2024.10.23(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編71編9節
年老いた時、私を見捨てず
私が力衰えても、捨て去らないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書21章18節
よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
年を取ればとるほど、若い頃に得た自由が利かなくなり、身体的にも、精神的にも、物理的にも不自由になる。
 
今日の新約聖書の言葉で、イエスが一番弟子ペトロに語られた言葉を、別な言い方にすればこんな風に表現できるかもしれません。私たちの世界では誰もが実感することをイエスは語られたのは、何を意図してのことだったのでしょうか。
 
神を信じて生きるということには、必ずしも自分自身の思うような自由を謳歌することはできないということを、いかに私たちは受け止めることができるか。そんなことを私はあらためて思わされました。新約聖書には「真理はあなたがたを自由にする」(ローマの信徒への手紙)と書かれています。真理の実体であるイエス・キリストは私たちを自由にすると書かれているわけですが、しかし、その自由は私たちの願望通りにことが成せるという意味での自由では決してありません。そのような自由はやがて不自由に成り代わってしまうのです。
 
イエスが与える自由。それは実際には不自由であったとしても、イエスは決してその人を見捨てることなく、私たちとともにいて、究極的な安心を与えてくださるという意味での自由であることを私たちに伝えています。かつて、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、詩人が「私を見捨てないでください」と祈り願ったことに対する、イエスの答えがここにあるのだと私は思います。
 
現に、イエスがペトロに語られた言葉は、のちにペトロがイエスがキリストであることを宣教した結果、彼は両手を縛られて処刑されてしまいましたが、しかし、彼はキリストとともにいるがゆえに、宣教者としての生涯を終えることができた。そして、永遠なる平安のむしろへとキリストによって招かれて、彼はイエスとともにある自由を味わうことができたのでした。
 
この自由があることを、今日の御言葉を通して味わいたい。そんなことを黙想させられました。どうか今日の一日も、たとえ不自由なことが私たちを襲おうとしても、イエスの与える自由がともにありますように。お祈りします。

22/10/2024

2024.10.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章10節
あなたがたは私の証人――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録1章8節
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
昨日は黙想をお届けすることができず、楽しみにしてくださっている皆さまへは、申し訳ありませんでした。そんな思いとともに、今朝あらためてローズンゲンによって与えられた御言葉に心を傾けたいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書の両方に共通することばは「私の証人」です。旧約聖書イザヤ書では、私とは父なる神のことを指し、新約聖書使徒言行録では、私とは救い主イエスのことを指します。父なる神の思いをすべて体現されて、私たちに見えるかたちで示されたイエスの言行を、どのような時代にあっても、人々はことばで知らせ、また自分たちの言動で示し、限界あるところには聖霊の助けをもって救い主イエスがおられることを証しし、明らかにしてきたのでした。
 
私たちには限界があります。イエスのように「完璧」に神の御心というものに従うことができず、体現することもできないでしょう。だからと言って、自分ができないことを盾にして、開き直って神の御心にあえて粋がって反抗するようなことは、証し人としての生き方とはならないことを、私たちはあらためて「私の証人」という言葉から認識したいのです。
 
私たちがイエス、そしてイエスを遣わされた父なる神の証人として生きるために無くてはならないもの。それが「聖霊の降臨」に他なりません。イエスは現に、弟子たちに対して聖霊降臨の結果、私たちが証し人として生きることができるのだということを断言しています。では、聖霊はどのように、私たちの心に届いていくのでしょうか。
 
聖霊はすでに、私たちの心に注がれています。しかし、私たちはそれに気づかないことが多いのです。あえて粋がってみたり、開き直ったりするところには、どんなに聖霊が注がれても、それが私自身の心に浸みわたることはないでしょう。ですから、私たちはいかに神が日々与えてくださる聖書の言葉を、自分自身にあててじっくりと黙想し、この言葉を通して神が何を語りかけてくださるのだろうかということを、探り求めようとするならば、必ず聖霊がその理解を助けてくださることを、私たちは実感することができるのです。聖霊降臨とは、聖書の言葉とセットなって、神が私自身に働きかけてくださる出来事なのだと、私は受け止めたいのです。
 
この聖霊降臨の出来事があって、聖霊が私たちをことばにおいて、行動において、神の、そしてイエス・キリストの証し人としてくださる。今日もです。私たちは、そんな思いを胸に抱きながら、今日も神が私たちを整え、世の中へと遣わしてくださることを心から信じつつ、歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日に、神が親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。

20/10/2024

2024.10.20(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書1章9節
主は言われた。
「さあ、私はあなたの口に私の言葉を授けた」。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一2章3~5節
私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
新しい一週間が始まりました。その先駆けの出来事として、今日も世界のあらゆる場所で、主の日の祝祭が礼拝をもって行われます。神がともにおられることを祝し、祭りをおこなう世界中の教会や集会の一切に、神の喜びがともにありますように。
 
神の喜びがある一方で、私たち人間の不安や恐れというものがつきまとう。今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、そのことを私たちに如実に知らせています。今日の新約聖書・コリントの信徒への手紙をつづった伝道者パウロは、この手紙を宛てたコリントの街へ初めて訪れたときの心境というものを手紙の文面に込めています。
 
私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。
パウロはコリントを訪れる前に、ギリシア最大の街であるアテネを訪問していました。哲学の香りがするこの街で、キリストによる救いを伝えようとしました。哲人たちが集まるアレオパゴスの丘で、パウロは雄弁に語ります。しかし、この場所でパウロが得た感触は、実に空を打つようなもの、暖簾に腕押し、糠に釘といったような、とても空しいものでした。
 
雄弁なパウロをしても、キリストを語ることの空しさをここで感じたのでした。自分自身が語るキリストが人に受け入れてもらえない様を実感し、パウロは不安や恐怖にさいなまれました。これは、どんなに知識にたけ、さまざまな能力があったとしても、人間ならば誰でも経験するのが「不安や恐れ」というものです。どんなに神がともにおられることを信じていたとしてもです。
 
しかし、このような不安や恐れに囚われながらも、パウロは自分自身がどのような状況にあることが幸いなのかを、祈りつつ模索しました。そのような不安を通して、自分自身の力ではどうでもならないことがあるからこそ、神の力が私には必要なのだと悟ることができました。自分の能力ではなく、究極的には聖霊様を通して働く神の力と権能に、自分自身は徹底的に頼ることができるのだし、神御自身の力が私を助け、私を用いて働いてくださるのだと彼は謙虚にそのことを悟ることができたのでした。
 
それは、国家が不安定な時に神の言葉を預かる使命を神から与えられた、預言者エレミヤもそうでした。エレミヤが預言者として神から任命されたときに、エレミヤの職務というものは決して胸躍るものではありませんでした。人々は神の言葉を聞くことを拒むのは十分に想定できたからです。
 
しかし、神はエレミヤに告げます。あなたの口が叫ぶのではなく、私があなたの口に言葉を授けたのだと。神の言葉を告げるのはあなたの能力ではなく、私の力によってなのだと。あらゆる不安がエレミヤを襲おうとも、神が必ず助け、ご自分の言葉でエレミヤを強めてくださるのだと。神のエレミヤに対する揺るぎない姿勢というものをうかがうことのできる場面、これが今日の旧約聖書の言葉なのです。
 
私たちにも今、神の言葉が礼拝を通して、また今日の日々の聖句を通して語られ、授けられます。このことにより、新たな一週間のスタートを切ることができますように。皆さんの、そして私自身の歩みのために、祈りたいと思います。

19/10/2024

2024.10.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編71編18節
神よ、私が老いて白髪になっても
どうか捨て去らないでください
あなたの腕の業を、力強い業を
来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章36,37~38節
アンナという女預言者がいた。彼女はやもめになり、八十四歳になっていた。そして神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどその時、彼女も近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを語った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今週も最終日となりました。最後の一日を、今週あった日々の出来事を振り返りながら、どんな時にも神が私たちとともにいてくださったことを想い起こし、指折り数えることができますように。そんな祈りとともに、今日のローズンゲンに示された御言葉いただきたいと思いました。
 
今日のローズンゲンに示された御言葉は、旧約聖書・新約聖書のどちらとも「老」という言葉がキーワードになっていると私は受け止めました。人は老いれば老いるほど、かつての健康や行動が失われていく。もちろん元気な方も大勢いらっしゃるわけですが、いわゆる青年層のような瑞々しさや、中年のようなバリバリと働けるような状況と何ら変わらないというわけにもいかないでしょう。そんななかで、老という言葉がとてもネガティヴに受け止めらえる印象がどうしてもぬぐえない。それは昔も今も一緒だったのでしょう。
 
しかし、神の目から見れば、老若というところにいわゆる「差」をつけていないことは明らかです。老いたら老いたなりの与えられる立場と役割というものを神は与えてくださる神がおられる。神に祈りをささげた詩編の歌い手も、救い主が生まれることを祈り続けていたひとりの老女が、生まれたばかりのイエスに相まみえる幸いを味わったりと、聖書には決して老いることを蔑んだり、ないがしろにしていない神の思いをみることができるのだと思うのです。
 
私たちが老いを、また若さというものを軽んじることなく、お互いに持たされているからこそそのことを神の目線で尊び合うことのできるように祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、そのような神の守りと祝福が豊かにありますことをお祈りします。

18/10/2024

2024.10.18(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章3節
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
痛みの人で、病を知っていた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章32~33節
人の子は異邦人に引き渡されて、嘲られ、侮辱され、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された旧約聖書、イザヤ書53章は「苦難の僕」と呼ばれる、私たちのために救い主となってくださる方についての預言として、大変よく知られている箇所の一節です。私たちへの救いをなしてくださる方は、決してきらびやかな姿をもって私たちの前に現れるわけではない。むしろ、私たちのために傷つき、苦しみ、痛みをもって私たち一人ひとりに臨んでくださるのだ。そんなことを思わせる聖書の言葉が昔に、そして今に語り継がれていることを思います。
 
自分自身が痛みというものを知っているからこそ、人々の痛み苦しみというものを感じ取ることができるのだと。これが苦難の僕の預言を通して、神が私たちに伝えんとしていることなのだと私は受け止めました。
 
幼い頃から傷ついたひとりの青年がいました。暴力的な教育を受け続けることによって、暴力こそ人をねじ伏せることが出来ることをその青年は体得していったのです。しかし、内心は違いました。暴力など簡単におこなうことができないのです。だから、暴力こそ力であるという側面と、暴力できないはざまで、その青年は苦しみ続けました。
 
暴力的な態度をとれば、人はその青年から一人、またひとりと離れていきます。心許せる人などいない。彼は傷つきました。痛みました。苦しみました。しかし、その苦しみをどうやって解決して良いか分からぬまま、その青年は年を重ね、ついには老人となってしまったのです。彼は人に依存します。しかし、彼の暴力的な態度に辟易した人は、やはりそこから離れていきます。彼のなかに残るのは「裏切られた」という感覚だけでした。そして、さらに彼は傷ついたのです。
 
その姿を見る周囲は、彼の得た深い傷、そして、その傷のうめきから来る暴力的な叫びを抑えることはもはや難しく、解放されて欲しいと願いつつも、どうすることもできないのです。さて、こういう方に私たちはどうしたら良いのだろうか。社会的な制度も、カウンセリング的なアプローチも難しいと思えるなかにあっても、私たちにはたったひとつの究極的な望みがあるのだ。それこそ「苦難の僕」が私たちの救い主となってくださったという事実を、その人がではなく、まず私自身が受け止めることなのだと。
 
私は思うのです。すべての痛み苦しみをご存知である苦難の僕、そしてそれを預言の成就として成してくださったイエス・キリストが必ず、その人の心の傷を癒してくださる時が来るのだと。私たちには具体的かつ現実的な助けをたとえ差し伸べることができなかったとしても、とりなしの祈りをただただその人のために救い主イエスにささげることだけは、何物にも妨げられずに出来るのだということを、私は苦難の僕という預言を通して感じ取ったのでした。
 
私たちの幸いのために、苦しみをすべてご存知な方が今日もともにおられます。私たちの一日が、そのような方の守りのなかにあることを胸にして、今日も歩むことができますように。お祈りします。

17/10/2024

2024.10.17(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記4章31節
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすことも、ないからである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章14節
何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
何事も「神の御心に適うなら」神は聞いてくださる。
今日のローズンゲンに示された、新約聖書の言葉です。そしてこのことが、神を信じる根拠(確信)であると、この手紙で告げられているのです。私たちはなぜ神を信じることができるのか。私の思いや願いが「神の御心」に適うものであるならば、必ず神はその願いを聞き入れてくださるということなのです。
 
私たちが願い、また祈ることはたくさんあるでしょう。しかし、その願いというものが、本当に「神の御心」に適うものなのかどうか。私たちはこのことを心から意識することが必要なのだと思わされます。祈りが聞かれない、どうしてこんなに祈っているのに、神は私の願いを聞いてくださらないのか。私たちはそんな思いを抱くことがあるでしょう。神に見捨てられているのではないだろうかという感覚すら、疑念とともに私たちは抱いてしまうのです。
 
しかし、それは決して神に見捨てられているということではないのです。はるか大昔、エジプトから脱出して約束の土地へと旅立った指導者モーセとイスラエルの民たち。しかし、歩けど歩けどその土地にはたどり着くことがありません。まるであてのない旅を続けているように、イスラエルの民たちは音を上げてしまいます。神は本当に私たちを導いてくれているのだろうか。そんな民たちの疑念が沸き起こるなかで、モーセを通して「神の御心」が語られました。それが、今日の旧約聖書の言葉です。あなたを見捨てることも滅ぼすこともないのだと、民たちに語りました。
 
願いが叶わないとすれば、それは神が私たちを見捨てた結果ではなく、神と私たちのチャンネルが合っていないということなのでしょう。神のご計画は、私たちが考えるようなプランとは別な道で、もしくは別なタイミングで働いているということなのだと。だからこそ、私たちは神のご計画に秘められた「御心」を、尋ね求めることが求められているのだと思うのです。
 
そのために、私たちに与えられているのが神の言葉である聖書と、聖霊の助け、そして見えるかたちでの信仰共同体である神の民の群れである教会や集会での交わりなのでしょう。そういうところから私たちが「神の御心」を知るときに、私たちもまた神とチャンネルを合わせるべく、神が発しておられる電波というものをキャッチできるのだと私は受け止めました。
 
どうか今日の一日も、神が発しておられる御心に、私たちひとりひとりが接続することができますように。そのように働いてくださる神とともに歩む幸いを想いつつ。皆さんの一日に、神の助けと幸いを心から祈ります。

16/10/2024

2024.10.16(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言15章17節
野菜を食べて愛し合うのは
肥えた牛を食べて憎み合うことにまさる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書21章2~4節
イエスは、一人の生活の苦しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れ、最初に思ったのが「これらふたつの言葉に何の関連性があるのだろうか」ということでした。どちらの聖句もそれぞれ理解できるのです。しかし、ローズンゲンを編集したヘルンフート兄弟団の意図がどこにあるのか。どうしてくじで選ばれた旧約聖書の言葉から、この新約聖書が兄弟団によって選ばれたのだろうか。そんなことを考えていました。
 
今日の旧約聖書の言葉は箴言の一節です。脂身の入った牛肉を焼いたら、それはおいしそうなステーキができるだろうと想像するのです。肉を食べるというのは元気が出るし、何となく力が湧いてくるようなイメージがあります。実際に肉食は「薬食い」と言われていたようですし、エネルギーがみなぎってくるのでしょう。
 
しかし、どんなに強くなったとしても、その強さを誇示した結果、互いが争うような結果となってしまうくらいだったら、そんなに力にならないかもしれない野菜を食べて平和に暮らした方がまだ良いのだ。そんな賢人のことわざの意図が読み取れます。実際に「強さ」とはいったい何かを考えさせられる言葉であると私は受け止めました。強さは相手と比較し、優劣を定めるためにあるのではない。強さを誇示し合うことで人と人との関係が壊れてしまうことは、やはり神が望まれていることではないのだと、この箴言の言葉から想わされるのです。
 
そのことを踏まえて、今日の新約聖書の言葉に触れると、ああ、なるほど。と思わされるのです。大変有名な「やもめの献金」のエピソードです。裕福な財産のなかから有り余った分を神にささげる献金と、貧しいなかでほんの少額の献金だったとしても、心が神に十分に向けられた献金。どちらのほうが献金としてふさわしい姿勢なのか。そんなことを問うイエスの言葉がここにあります。
 
大切なのは額の多少ではなく、いかに自分自身の心が神に向けられていて、かつ誠実に心のこもった思いがささげられるかというところに、この物語の伝えようとしている肝があります。神は私たちの心をご覧になる方ですから、私たちが見た目で賞賛されるようなことをいいくらしても、力強い姿がアピールされても、やはり重要なのは心に他ならないのだと。肉を食べて争うくらいならば、野菜を食べて平和でいた方がいいという箴言のメッセージはここにつながるのだと納得することができたのです。
 
強さばかりを誇示する世の中で、たとえ弱く見られたとしても心が健全であること。その弱さに開き直ることなく、神が願っておられるその本質というものを大切に受け止めながら、今日という一日を生きることができますように。皆さんの一日を神が守り、平和を与えてくださいますように。お祈りします。

15/10/2024

2024.10.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ネヘミヤ記2章20節
天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。その僕である私たちが立ち上がって再建する。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二2章16〜17節
私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。三連休はいかがお過ごしでしたでしょうか。いつもと変わらない日々を過ごされた方もおられるでしょうし、休日を満喫された方もおられるかもしれません。いずれにせよ、今日という日をまた迎えることができたことを想いつつ、今日のローズンゲンに示された神の御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書であるネヘミヤ記に記されている一節に「成功」という言葉が登場します。神が私たちを「成功」させ、再建させてくださるというのです。ここで言う「再建」とは、神の民が長年にわたる捕虜生活から解放されて、祖国イスラエルへ戻った後に、その中心となるエルサレム神殿が再建されることを意味しています。神を礼拝する場所の回復が、今や神を神とする民たちによってなされていくのですが、その背後に、いや、その中心に立たれる方がおられる。それが神なのだということを、ネヘミヤは民たちに語っている場面です。
 
成功という言葉を聞く時に、そこには物事が良いものに進んでいくようなイメージというものを私たちは抱くでしょう。それは間違いないと思います。しかし、私は思うのですが、成功するというのは「いわゆる失敗のない世界」のことを言っているのではないのではないか。そのように思えてならないのです。
 
ある人は言います。物事がうまくいかないならば、それは「失敗」であり、成功へと導く神を信仰していない結果なのだと。今日のネヘミヤ記の言葉も、読み方によってはそのように読めなくもない一節かもしれません。しかし、成功という言葉、もしくは失敗という言葉はそういうことを言うために用いられるものなのでしょうか。誤解を恐れず申し上げるならば、私はそうだとは思いません。
 
ネヘミヤがこの言葉を語った時代、人々は自分たちが失敗したことを実感していただろうと思うのです。神をないがしろにして生きていた自分たちを悔い、そんななかでも神が救いの手を差し伸べてくださったからこそ、こうして祖国に戻ることができた。そのことを通して、自分たちの失敗をも、人生の道を歩むための大切な要素としてくださる。それが私たちの神なのだと。つまり、成功のためには失敗は欠かせない大切なものなのだと私は思えてならないのです。
 
失敗のない世界は、私たちの世界には存在しません。しかし、神は失敗を用いて、私たちに再建の道を与えてくださる方なのだと。そして、神とともに歩む幸いというものを、今日も私たちに希望として与えてくださるのだと。過ぎた一日を置いて、また新たな一日に再建の道を指し示してくださる神に感謝し、今日という日を歩んできたい。そのように願います。
 
どうか、失敗こそ成功への第一歩であることを心に刻みつつ、神の守りと平安によって生きることが出来ますように。お祈りします。

14/10/2024

2024.10.14(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編150編6節
息あるものはこぞって
 主を賛美せよ。
ハレルヤ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ユダの手紙25節
私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように、アーメン。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、150編にもわたる詩編のトリを飾る一番最後の節です。歌い手は力の限り、神をほめたたえます。ほめたたえるのは、自分だけではありません。息あるものはこぞって、神である主を賛美せよと歌っているのです。神によってつくられ、いのちの息吹を吹き込まれたものどもは、この世の中にどんなに憎まれ、人々に避けられようとも、神が与えた命のなかで生かされている。この事実を思い起こすことができるからこそ、神によって委ねられた業というものをも、私たちは神を賛美しながら営むことが許されているのだと。これこそ、私たちの生きている意味なのだろうと思い、また心から願いたいのです。
 
昨日、仙台宮城野教会は朗子牧師が御言葉の取り次ぎをしました。キリストの権能について、そもそも権能とは一体何なのか。朗子牧師は「イエスは神から『愛の権能』を授かっているのだ」ということを、御言葉の取り次ぎとしました。権能といえば、力強いリーダーシップのようなものを想像することができるかもしれませんか、イエスがそのような力強さをもって神の国を治めようとするときに、やはりその根底にある、そして、本質たるもの、これこそ、アガペーの愛なのだと。父なる神がご自分のつくられたものに対して、いのちの息吹を注がれるまでに深く関心を抱かれ、そして愛されるように、イエスもまた、ご自分に授けられた権能をもって私たちを愛する。この主権があってこそ、世の中が平和になっていくことを心から願いたいのです。
 
世の中は三連休の最終日です。どうぞこのひと日も、神が私たちに和らぎと喜びを授けてくださっていることを受け止めつつ、私たち一人ひとりの時が祝福されますように。心からお祈りします。

13/10/2024

2024.10.13(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記50章20節
あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変えられたのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章28節
あなたがたを呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
仕返ししたくなる感情というものが、時折思いをかすめることがあるというのは、私だけかもしれませんし、共感を覚えてくださる方もおられるかもしれません。自分のちっぽけなプライドが傷つけられた時はまだしても、侵しては決してならない尊厳が妨げられ、傷つけられた時に、自分自身の悲しみや怒りというもののやり場を、どこにぶつけて良いか分からないことがあります。
 
そして、人は仕返しされることを過剰に恐れることがあります。エジプトの宰相にまでなったヨセフをかつて嫉妬し、生意気だと言って殺そうとまでした兄弟たちは恐れていました。自分たちがしたことを、今や弟のヨセフに報復される、仕返しされるのではないかという恐れの感情です。それだけ、仕返ししたくなる感情、仕返しされることへの恐れというものは、人間関係にゆがみを与えるものなのだと思えてなりません。
 
そのような感情が自分自身のなかで抗しがたいものとなるなかで、それを解消することができるのは、神に他ならないのだ。ヨセフにどのような報復を受けるか分からないとおびえていた兄弟たちに、ヨセフが語った言葉。これが今日のローズンゲンに示された「神は悪を善に変えた」というひと言だったのです。ヨセフが自分の兄弟たちの悪事を最終的に許すわけですが、ヨセフは分かっていたのです。ゆるすのは究極的には私ではない。神が赦されるからこそ、神の赦しに私も同意するのだと。こうして神は、善というものを私たちに与え、ゆるし許される関係性というものを、私たちのあいだに芽生えさせてくださるのだと。
 
なぜイエスは、自分を呪い、侮辱する者のために祈りなさいと言われたのか。ここにこそ、私がこの事態をなんとかしようとあくせく働くのではなく、まず神がこの関係性の真ん中に立たれるを大切にしたいからこそ、まず神に祈りなさいと告げられたのだと私は受け止めたいと思います。無理やり人間同士が手打ちをするのではなく、一方が険悪なムードに耐えられなくて頭を下げとけばよいかと落ち着かせるのでもなく、神がこの状態に善を与えてくださるのだということを信じて、新しい週の初日を迎えたいと思います。
 
皆さんの新しい一週間の日々に、今日の歩みに、神が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。

12/10/2024

2024.10.12(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
レビ記10章3節
「私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す」と主が言われたのは、このことであった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章1節
私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
一週間も最終日を迎えました。これまでの日々、皆さんはどのような時を過ごされましたでしょうか。その日々は、決して良いことばかりではなかったかもしれません。私がそうでした。もちろん、充実した出来事もあったのですが、迫り来るトラブルのために対処したり、苦慮しなければならないこともいくつかありました。いつも波風立つことなく暮らせたら、どれだけ幸せだろうか。そんなことも思ったりします。しかし、だからこそ、私には神がいてくださることが慰めであり、励みとなり、生きる希望になっていく。そんなことを実感させられながら、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に向き合うことができているのだろうと思います。
 
神に近づくということ。私たちは神に向かって歩まなければ神と相まみえることができないということも事実なのだと思います。しかし、神に近づこうとして歩むその旅路は、決してあてのない路程ではなく、明確にそこには神がいてくださるという確信があるからこそ、その道のりを歩むことができるのだと。神がそのような路程を私たちに備えていてくださる。ご自分の言葉を通して、それをさやかに示し続けてくださっているのだと。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神が定められた「近づきかた」に沿おうとしなかったふたりの祭司が、結果として神に近づくことができなかった時に、モーセによって語られた言葉です。私たちには近づく動機というものが求められます。自分の利益や願望だけを追い求めて、神の思いを尋ねる前に、自分自身の欲求だけを果たそうとしても、結果として神に近づくことはできないのだと。神が私たちの人生に道を備え、神が私たちの人生を祝福へと導かれることを私たちが自分の生き方とするならば、神は私たちをご自分のもとに十分に引き寄せてくださる。誰を主体とするかということが、私たちの近づきかたというものを変えるのだと、今日のレビ記に記された言葉は、私たちに告げようとしているのだと。
 
そのことがさらに具体化されて、私たちが近づくことのできる確証を与えられたのが、救い主イエスでした。ご自分が示された言葉と行いが「信仰の実体」となって、私たちにイエスとともに歩む道をしっかりとつくられた。それがイエスの私たちに対する大きな働きに他なりません。私たちはそういうイエスが私のもとにいらっしゃいと手招きして、私たちが近づくのを迎え入れてくださる。そういうところにこそ、どんなに苦難が現実の世の中で起きたとしても、それに翻弄されるような出来事が私たちを襲ったとしても、そこにはイエス・キリストが与える「平和」があることを想起することができるのです。
 
私は一週間を振り返りつつ、今週もまた神に近づく機会というものを、神が、キリストが与えてくださったことをかみしめたい。そして感謝したい。そして、来週の日々へと歩んでいきたいと願いたいのです。そんなことを、今日の御言葉は私たちに告げているのだと受け止めました。
 
どうか、一週間を振り返る時が、また新しい週への備えの時が、神によって祝福されますように。心からお祈りします。

11/10/2024

2024.10.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編130編4節
赦しはあなたのもとにあります。
あなたが畏れられるために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書23章34節
その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通することばは「赦し」です。旧約聖書でも新約聖書でも「赦す」権限を持つのは、父なる神であることを前提にして、赦しを祈り求めていることが分かります。
 
さて、聖書で「ゆるす」という言葉が取り上げられるときに、日本語の「許す」という文字は用いられていません。あえて「赦す」という言葉が用いられています。許すという言葉が、誰かが犯した過ちを許すという意味のほかにも、許可するといった意味合いでも用いられる広い範囲を網羅するものであるのに対して、赦すという言葉には許可するといった意味は込められていません。あくまで罪や過ちをゆるすという意味だけに用いられています。つまり、ゆるすという行為が、誰かが許可して成り立つようなものとは一線を画するということを示しています。
 
私たちには誰でも、許すことが推奨されていたとしても、どうしてもゆるすことができないという感情を抱くことが往々にしてあります。特に尊厳を傷つけられた、自分が嫌がることをされた時などは、どうしても傷つけた相手をゆるすことを難しくさせます。許せないという感情が、自分自身を満たすことすらあるのです。そんなときに、ゆるしに関する神の言葉に触れると、どうしてもゆるすことのできない自分自身の姿が神の思いに逆らっているように思うこともあるでしょうし、そもそもそんな感覚を通り越して、ゆるせない思いに満たされている自分自身に、何かを入り込ませるような余地がないくらいになっていることすら気づかないこともあるでしょう。怒りや悲しみに燃え続けるか、ゆるせない自分自身に罪責感を抱いて、自己肯定感を失わせてしまうのです。
 
私は、聖書に「許す」という言葉をあえて用いていないところにこそ、ゆるしの真髄というものがあるのではないかと思うのです。つまり、許すとか許さないという行動の主体である私たちのそれには、やはり限界があるのだと思います。そして、私たちの限界というものを神は十分にご存知なうえで、私たちに「赦し」という言葉をもって、神の存在というものを改めて示しているのではないかと思うのです。
 
許しは人間のもの。しかし、赦しは神のものである。つまり、私たちの過ちや罪というものを究極的に赦すことができるのは、神の他に誰もいないということなのでしょう。そして、その神は今日の新約聖書の言葉から読み取れるメッセージとして、今や十字架に付けられているイエスの命をもって、その赦しを全世界に向けて実行されようとしておられる。私たちがどうしても許すことのできない出来事すら、神を主体にすることによって神が赦してくださる。たとえ、私たちが決して許すことができなかったにしてもです。そういう神がおられることを目の前にして、さて、私たちは許せない感情を抱きながらどのように神に自分自身の視線を向けることができるのだろうか、ということを考えずにはいられないのです。
 
人に向いて無理やり許せなくてもいいのだと私は思います。そうやって実行した許しは、必ずしこりやゆがみを残します。しかし、人に向く前に、私たちはそういう神に自分自身を向けることができるのです。いや、すでに神は赦しということをもって、私たちにその御顔を向けてくださっているのだと。だから、私の視線をちょっと変えるだけで、私たちは神から決してあせったり無理することのない、神の赦しというものをじっくりとながめながら、自分自身を整えることができるのかもしれません。
 
そんな一日が今日も与えられていることに思いを寄せつつ、その時を過ごしてまいりたいと思いました。許せないという感覚を持ちながらも、神と見つめ合う時も大いに許されている。そんな思いを抱いて、歩むことができますように。皆さんの一日の、神による守りと平安をお祈りします。

10/10/2024

2024.10.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書37章11~12節
主は私に言われた。「彼らは、『我々の骨は枯れ、我々の望みはうせ、我々は滅びる』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。私の民よ、私はあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げる」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章42,44節
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して語られているテーマは「復活」です。それも枯れている、朽ちてしまったものが、神の御手によって活き活きとした、みずみずしいかたちへと復活することが約束されています。
 
復活する対象は、私たち人間です。それは死者の復活のみならず、死んだようになってしまった私たちが、神の御手によって再生の機会をいただくということをも含めた、命の復活のことを示しています。
 
命の復活が神によって提示されれば、その提示を目の前にして、そんなことがあるはずないとあきらめ、あらがう人々の心が露呈されるのも、聖書が物語るところです。今日の旧約聖書・エゼキエル書に書かれたことばのなかには、人々のあきらめの姿が描かれています。時は、強国バビロニアによって捕虜状態となっていた時代のことです。本当に祖国に帰ることができるのだろうかと、人々は自分に置かれた状況のなかで、希望を抱くことができない状況でした。
 
そして、新約聖書のことばであるコリント書には、イエスが復活のからだをもって人々にその希望を表したのにもかかわらず、人間の命の復活などありえないという人々の気持ちが、コリント教会を支配しようとしていたことが手紙につづられています。つまり、いつの時代にも、復活ということに対する人々の願いや思いというものが脆弱に働いてしまうということを、私たちは聖書の言葉から読み取ることができるのだと私は思うのです。
 
しかし、そのような人間の惑いや疑いに対して、神の言葉が働くというのが、今日の御言葉の伝えんとしているところなのかもしれません。枯れたところ、朽ちているところから、必ず神は私たちを引き上げてくださり、みずみずしさをお与えになると約束されておられます。この約束に、私たちひとりひとりが与ることができるのだというのです。現に、バビロン捕囚の身にあった神の民たちは、間違いなくエルサレムに帰還することができました。いつになるかはわからない。しかし、神はベストと定められたその時に、必ずご自分の告げた約束を果たされるというのが、私たちの希望へと直結するのです。
 
今日もそのような時が私たちの目の前に提示されています。そのことに希望を寄せつつ、今日の一日を生きることが出来ますように。お祈りします。

09/10/2024

2024.10.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編73節
御手が私を造り、堅く立ててくださいました。
私に悟らせ、あなたの戒めを学ばせてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二2章15節
しっかり立って、私たちが言葉や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。

神が私をこの地に立たせてくださるから、私は生きることができるのだ。私の命を喜ぶことができるために、神よ、そのことを私に教え諭してください。
 
そんな詩人の息づかいを感じることができる、今日のローズンゲンに示された旧約聖書のことばです。私たちは、座っていても、寝込んでいても、うなだれていたとしても、生きることができるでしょう。そのようななかで、あえて「立つ」という言葉が用いられていることに、私は心を寄せたいと思いました。立つとはなにか。それは単に二足で立ち上がるという、物理的なことを言っているのではないのではと思ったのです。
 
良い意味で自立して、良い意味で依存する。私は自立と依存の関係性について、信仰という観点から最近しばしば考えることがあります。自立というと、誰の助けも借りずに、別の言い方をすれば依存しないで生きるということなのだと耳にすることがあります。確かに人に依存する、また共依存のような関係性がしまざまな問題を生むこともあるでしょう。しかし、私たちは孤独に生きているわけではありませんから、日々人間関係のなかで生活している以上、人と人との関わりというものを無視することはできないのです。
 
人はなんらかの依存をしないと生きていくことはできません。ただ、その依存が不完全なものとならないように、健全な依存とは何かを理解する必要があると思います。私は依存して憚らない相手が神であると思っています。神が私たちの心を立たせてくださるお方です。私たちに必要なことがあるとしたら、そういう神がおられる。今日も私とともに歩んでくださるのだということを、私たちが今日生きるための希望とすることなのだと、私は思います。
 
そのために、私たちには聖書のことばが与えられていますし、聖霊様の導きと助けがあるのだと思います。神に依存するところにこそ、私たちの自立があるのだ。自立し合う者たちが互いに神を中心として健全な依存関係が生み出される。そんなことを、今日の聖句から感じたのでした。
 
今日も神にあって素敵な一日でありますようありますように。心からお祈りします。

08/10/2024

2024.10.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章14節
今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。神々を取り除き、主に仕えなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章8~9節
神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々の奴隷となっていました。だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして、再び奴隷になることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
日曜日・月曜日と二日間、ローズンゲン黙想をお休みしていましたが(ブログアップする時間を確保することができませんでした。申し訳ありません)、今日からまた再開します。いつもご愛読くださりありがとうございます。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は「神々に仕える空しさ」というメッセージを伝えていると私は受け止めました。この言葉は、長い歴史の中で「偶像礼拝を禁止する」ために用いられてきた聖句として、私たちに与えられてきたものかもしれません。確かに、聖書を読めば、神は私たちに偶像に頼ることなく神である主に仕えなさいと命じられているわけですから、その流れでこのような聖句を受け止めることが出来るのだと思います。
 
ただ、今日の聖句を目の前にしてじっくりと黙想していますと「神が禁じられているから偶像礼拝をしないんだ」という視点でこの聖書の言葉を読むのではなく、「偶像礼拝というものがいかに空しいことなのか」という視点で、これらの聖句を読むことの大切さというものを教えられているような気がしてならないのです。つまり、ダメだからしないという消極的な根拠ではなく、空しいと分かって自分から避けようとする積極的な根拠で、この聖句を捕らえていきたいと思ったのです。
 
私がかつて牧師をしていた教会で、ともに礼拝をしていたある信徒さんのことを思い出しました。その方は大工さんでした。大工と言えば、地鎮祭にしても棟上式にしても、いわゆることあるごとに「神事」を行います。そのような神事を行う理由は「その土地にいる神の怒りを鎮め、悪さをする神を縛り付ける」という目的なのだそうです。悪さをする神を縛り付ける。しめ縄というのはそういう縛りとも関係があるのだということを話してくれました。そして、その方は続けます。「聖書に書かれている主である神は、私たちを縛り付けるのではなく、私たちを解放へと向かわせてくださる方なんですよね」と。
 
私は、その方の言葉にとても納得させられました。聖書を通して知らされる神は、私たちを縛り付けるのではなく、解放へと向かわせつつも、ご自分の大切な教えというものを私たちに伝えてくださる方なのだと。解放されるというのは、何も好き勝手に振舞うことではなく、神が願っておられることを積極的に自分のうちに取り入れていくところにこそ、幸いというものがあふれてくるのだということを「束縛」という言葉を鍵に、感じ取ることができました。ダメだからしないのではなく、神無しに生きることの空しさというものを痛感した時にこそ、神が伝えている言葉の真意というものを理解できるのだと。
 
私たちをそっと、しかし、しっかりと見守ってくださる神が、今日も私たちの命を与え、支え、導いてくださる。このことを胸にして、新しい一日を歩んでまいりたいと思わされました。皆さんの一日にも、そのような神の守りと平安が豊かにありますように。心からお祈りします。

05/10/2024

2024.10.5(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書14章21節
御名のために、私たちを退けないでください。
あなたの栄光の座を辱めないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章2節
神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
去る木曜日から昨日にかけて、私が所属する日本基督教団の「カルト問題全国連絡会」が開催されました。年に一度行われるこの会議ですが、深刻な社会問題としてのカルト宗教問題が一人でも多くの方々に理解していだだけるよう、取り組まなければならないことを共有することのできた機会となりました。感謝なことです。
 
そして、今朝はオンラインで「池袋朝祷会」に招かれ、御言葉を取り次ぐ機会をいただきました。そこで聖書の言葉として、今日のローズンゲンに示されたエレミヤ書14章の御言葉から、祈りへの導きの言葉として選びました。
 
ご自分の民を決して退けない神。預言者エレミヤはそのことを心から信じて、神と人とのあいだに結ばれた契約を思いにとどめつつ、そのことを神に願いました。しかし、その願いは決して、エレミヤによる自己正当化の結果ではありませんでした。自分たちが有様が、いかに神から遠く離されたところにいたかを、自分自身の心に刻むように思った結果のことでした。自分の「正しい」と思いこむ、その思い違いから立ち直ることを肝に銘じつつ、神が私たちを退けないように希ったのでした。
 
私はこの数日間に起こったことを心のなかで思いめぐらせながら、私たちはいったい誰の正しさによって生きる者とさせられているのだろうかということを、このエレミヤの言葉に照らし合わせながら、自分自身のあり方というものを見つめさせられました。実は神が私たちを退けているのではなく、私たち人間が神を退け、自分の正しさに従って他者を退けているのだと。しかし、私たちは神が私たちを退けないからこそ、私自身の心のなかに潜む「退けようとする心や思い」を直視できるのではないだろうか。そんなことを思わされるときにこそ、自分自身を整えて生きるという生き方に導かれるのだと。
 
そんな思いとともに、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。そして、主の日を迎えようとする私たちが、新しい一週間を迎えるためのよい整えの時となりますように。皆さんの主のある守りと祝福をお祈りします。

04/10/2024

2024.10.4(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編82節
私の目はあなたの仰せを思い焦がれ
絶え入りそうです。
いつ私を慰めてくださるのか、と
問いかけます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章16節
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
主の恵みの座に近づこうではありませんか。そのように、人々に宛てて手紙が書き綴られています。私たちには、近づくことのできる神がおられるのか。そんなことを改めて考えさせられる、今日の聖書のことばです。
 
私は、主なる神という存在が決して、はるか彼方にあるとは全く思っていません。もし、そのように感じるとするならば、私たちの心や思いが、あえて神を遠ざけているのかもしれません。自分の思うようにことが運ばない時に、神様にどれだけ祈っても、答えが見出せない時などは、なおのこと神が遠く感じるのです。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節には、おそらく遠く感じたであろう神に訴えている、詩人の思いというものを窺い知ることができます。神が遠く感じるその原因が神の側にあるのではなく、私たちの側にあったとしても、それが私たちのし得る限界なのだと思うのです。そのことを、私たちの神は全てご存知であるのです。
 
だからこそ、救い主イエスが私たちの目の前に、肉のかたちをもってやってこられたのではないでしょうか。私たちの誰もが、イエスの言葉と行いに親近感を思うことができるように、私たちが何のためらいもなく、近づくことができるために、イエスは私たちのもとに来られたのでした。そして、今でも私たちの目の前に、かたわらに、イエスは私たちに憐れみや慈しみ、慰めの言葉を与え続けてくださっているのです。
 
主よ、私を慰めてくださるのはいつですかと問いかけるときに、時宜にかなった助け、まさに神のご計画の中でベストと思われるその時に、私たちが神をすぐ近くに感じられるような助けが、適切に与えられていくのを、今日も希望のうちにホールドしながら生きていくことができますように。皆さんお一人お一人の新しい一日に、神がすぐそばにいてくださることができるように、聖霊様が豊かに働いてくださいますように。心よりお祈りします。

03/10/2024

2024.10.3(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書44章26節
僕の言葉を成就させ
使者の計画を実現させる。
エルサレムについては、「人が住むようになる」と
ユダのそれぞれの町については、「再建され
 その廃虚を私は復興させる」と
 私は言う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章19節
こうして、私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
言葉を私の「光」とする。
今日のローズンゲンに示された、ふたつの聖句が語りかけるメッセージです。
 
今日の新約聖書であるペトロの手紙は、待てど暮らせどキリストが私たちのもとに助けを携えてやってこられないことに、一体いつになったらイエスは約束通り再臨してくれるのだろうかと疑いを抱かんとしている人たちに向けて綴られた手紙です。
 
つまり、待ち続けるために、灯火を灯し続ける油を必要とする人々に、何を油にするべきかをこの手紙の筆者は明らかにしています。それは何か、神の言葉こそ、私たちにとっての大切な油なのだということを明らかにしているのです。
 
預言の言葉に示された確かな約束は、いつの時代にも神によって民の一人ひとりに与えられました。今日の旧約聖書の言葉も、イザヤを通して神から与えられた預言でした。今日の旧約聖書の言葉も、イザヤを通して神から与えられた預言でした。バビロニア帝国によって捕虜の身となり、不便を強いられ続けていた。ユダ(イスラエル)の民たちに神は語られます。あなた方は必ず解放され、祖国に戻り、国を再建することに携わるのだと。
 
イスラエルの民は、この時が来ることを心から待ち続けていたに違いありません。しかし、数十年にわたる捕虜生活のなかで、ときには待ちくたびれてしまったこともしばしばあったのではないかと思うのです。一体いつになったら、祖国に戻れるのだろうかと。待てど暮らせど、その時がやってこない。もう自分たちには、そのような時がやってくることはないのだろうかと思ったに違いないのです。
 
しかし、そんな中でも、彼らは、一縷の望みとして、神の預言の言葉を自分たちが生きる希望の源として、大切に保ち続けていきました。これが、灯をともすために必要な油に相通じていくのだと私は思うのです。そして、その言葉を今日生きる私たちもまたたき、そして心の中に保つことができるというのです。
 
実際に、バビロン補修のなかにあったイスラエルの民は、祖国に戻ることもできたし、神殿を再建することだって神が可能としてくださったのです。神はご自分の言葉を裏切らず、必ず私たちにその結果を見させてくださる方なのです。
 
一体いつまで待たなければならないのですかという時ほど、私たちは神の言葉に帰りたいと思います。神の言葉に込められた約束を、私たち一人ひとりが今日を生きるための糧として大切に保ち、温め続けることができますように。神の言葉が、皆さんにとっての希望となりますように。心からお祈りします。

02/10/2024

2024.10.2(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章10節
彼らは飢えることも渇くこともなく
熱風も太陽も彼らを打つことはない。
彼らを憐れむ方が導き水の湧く所に連れて行かれるからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章15節
主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。昨日は、黙想する時間を十分に取ることができず、皆さんへお届けすることができませんでした。待っていてくださった方々へは、本当に申し訳ありませんでした。
 
黙想(瞑想とも言えるかもしれません)をするというのは、一日の営みのなかで自分自身の心を整えることのできる、とても大切なひと時であることを思わされます。ある人は言いました「朝の15分があなたを変える」と。15分といえば、何かをしているあいだにあっという間に過ぎてしまう時間かもしれません。しかし、その15分ですら確保できない私自身を思う時、それは物理的な時間が取れないのではなく、私のなかにある余裕のなさがそうさせるのだと思えてならないのです。
 
だからこそ、時間が取れない時にこそ、あえて15分の時間を、聖書のことばに聴きながら黙想することがやっぱり大切なのだと痛感させられます。朝の黙想とは、朝起きて飲むコップ1杯の水のようなものなのかもしれません。朝起きがけに飲む水は、寝ている間の渇きを癒して、細胞じゅうに水分が行き渡るのを感じられる心地よさがあると私は思っています。瑞々しい感覚をもって一日を過ごすことのできる。そのための水なのだと。
 
今日のローズンゲンに示された聖句は、どちらも「水」について触れられているものです。渇きを癒す水の存在です。この言葉が語られたイスラエルも、いよいよ秋がやってまいりました。半年間も雨の降らない季節が続いた末に、雨がぽつりぽつりと降り始めるのです。熱風が容赦なく私たちを襲うなかで、私たちは渇きます。この渇きゆえに、私たちは誰かにヘルプを心の底から求めるのです。
 
今日の聖句は、その水を与えるのは神でありイエスであることがわかります。しかし、その水は私たちが渇望しない限り、喉をうるおすことはありません。私たちの苦しみを訴えるところには、必ずなんらかの形で、いのちの水を与えてくださることを、心から信じたいのです。そのために、今日もたった15分間であったとしても、静かに黙するひと時を持ってまいりたいと思います。
 
どうぞ今日も、神とともにあってうるおいを感じることのできる一日でありますように。お祈りします。