くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記28章12節
主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章58節
私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
非常に私事で恐縮ですが、今日のローズンゲンに示された新約聖書・コリントの信徒への手紙15章58節は、私が最も愛する聖句のひとつです。この言葉に励まされながら今まで歩んできた、つまり私の指針とする聖句なのです。
苦労は決して無駄にならない。このひと言に私は大きな慰めを受け続けてきました。クリスチャンになったからと言って、苦労が無くなったわけではありません。それどころか、クリスチャンとして生きることにはかなりの苦労がともなうと私は思うのです。しかし、にもかかわらず、その苦労は決して無駄にならない。無駄にならないどころか、イエスによる勝利を見ることができるのだとパウロは述べているのです。
ただし、そのためにパウロはひとつの「条件」を読み手に知らせます。それは「主にあって」のひと言です。主にあってというのは、主に結ばれている状態、救い主イエス・キリストにつながれている状態のことであると言えるでしょう。つまり、私たちが味わう苦労が苦労でありながらも、その苦労は、イエスが私たちのためにご自分の十字架に縛り付けてともに磔(はりつけ)にしてくださった。だからこそ、苦しみのなかに大きな慰めがあり、その苦しみを通して、私たちは主イエスに「あって」希望を抱くことができるのだと。その希望は、イエスが勝利者として私たちとともにいてくださることによる希望なのだと、私は受け止めたいのです。
そういうことを考えると、苦労は主イエスを知るための道標のようなものなのかもしれません。それは、顔に汗をしてパンを食べつつ、土を耕さなければならないような状況のなかにあっても、神は必ず天の扉を開いて私たちのために恵みの雨を降らせてくださるという、今日の旧約聖書の言葉に相通じるのではないかと思ったのです。そういえば、申命記が書かれたのも、流浪の神の民が約40年の苦労の最後に聴いた言葉でした。
そんな言葉に励まされながら、今日の一日を過ごしていくことができますように。お祈りします。