くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言2章6節
主が知恵を授け
主の口から知識と英知が出る。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11章25節
イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された新約聖書のことばは、イエスによる招きの言葉として知られる「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)の前段として語られたものです。イエスはご自分のところにそのような方々を招くにあたって、招かれる人とはどういう人物なのかについて語られています。
それが「幼子のような者」であるとイエスは言われました。そして、ご自分のそのような知恵は、いわゆる知恵ある者や賢い者へは「隠される」というのです。そういう人たちにこそイエスの知恵があふれるというのではないのです。幼子が素直に欲しいものを求め、自らの命の助けとするように、イエスの知識に込められた「命」を求めたいと心から願う者たちに対して、イエスは両手をひろげて、人々を招かれるのです。
さて、私は考えました。そのようなイエスの与える知識を、私が神から与えられた命をもって今日も生きるために、幼子のように欲しているだろうかと。単なる知識吸収のために、教養だけを手にするためだけに、また、なんとなく理由も根拠もなく、イエスによる招きに与りたいとは思うけれど、招かれたら招かれたで、イエスの思いなんていうものをないがしろにして、自分のしたいことだけを謳歌しようとしていないだろうか。そんなことを考えさせられたのです。
イエスの与える知恵というものは、本当にそれを知りたいと心から願う者たちに示されるというこのひと言が、今日を生きるピリリとした刺激のあるものとして、私の命を活かしていくのだ。そのように思わされたのです。なにも甘いものだけではない、ときにイエスの持っているピリッとした感覚によって、身をただされることも大切なのだと。
どうぞ今日の一日が、皆さんにとってもイエスの知識を求める幸いというものを感じ取ることができますように。お祈りします。
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