くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
レビ記10章3節
「私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す」と主が言われたのは、このことであった。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章1節
私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
一週間も最終日を迎えました。これまでの日々、皆さんはどのような時を過ごされましたでしょうか。その日々は、決して良いことばかりではなかったかもしれません。私がそうでした。もちろん、充実した出来事もあったのですが、迫り来るトラブルのために対処したり、苦慮しなければならないこともいくつかありました。いつも波風立つことなく暮らせたら、どれだけ幸せだろうか。そんなことも思ったりします。しかし、だからこそ、私には神がいてくださることが慰めであり、励みとなり、生きる希望になっていく。そんなことを実感させられながら、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に向き合うことができているのだろうと思います。
神に近づくということ。私たちは神に向かって歩まなければ神と相まみえることができないということも事実なのだと思います。しかし、神に近づこうとして歩むその旅路は、決してあてのない路程ではなく、明確にそこには神がいてくださるという確信があるからこそ、その道のりを歩むことができるのだと。神がそのような路程を私たちに備えていてくださる。ご自分の言葉を通して、それをさやかに示し続けてくださっているのだと。
今日の旧約聖書の言葉は、神が定められた「近づきかた」に沿おうとしなかったふたりの祭司が、結果として神に近づくことができなかった時に、モーセによって語られた言葉です。私たちには近づく動機というものが求められます。自分の利益や願望だけを追い求めて、神の思いを尋ねる前に、自分自身の欲求だけを果たそうとしても、結果として神に近づくことはできないのだと。神が私たちの人生に道を備え、神が私たちの人生を祝福へと導かれることを私たちが自分の生き方とするならば、神は私たちをご自分のもとに十分に引き寄せてくださる。誰を主体とするかということが、私たちの近づきかたというものを変えるのだと、今日のレビ記に記された言葉は、私たちに告げようとしているのだと。
そのことがさらに具体化されて、私たちが近づくことのできる確証を与えられたのが、救い主イエスでした。ご自分が示された言葉と行いが「信仰の実体」となって、私たちにイエスとともに歩む道をしっかりとつくられた。それがイエスの私たちに対する大きな働きに他なりません。私たちはそういうイエスが私のもとにいらっしゃいと手招きして、私たちが近づくのを迎え入れてくださる。そういうところにこそ、どんなに苦難が現実の世の中で起きたとしても、それに翻弄されるような出来事が私たちを襲ったとしても、そこにはイエス・キリストが与える「平和」があることを想起することができるのです。
私は一週間を振り返りつつ、今週もまた神に近づく機会というものを、神が、キリストが与えてくださったことをかみしめたい。そして感謝したい。そして、来週の日々へと歩んでいきたいと願いたいのです。そんなことを、今日の御言葉は私たちに告げているのだと受け止めました。
どうか、一週間を振り返る時が、また新しい週への備えの時が、神によって祝福されますように。心からお祈りします。
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