くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編130編4節
赦しはあなたのもとにあります。
あなたが畏れられるために。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書23章34節
その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通することばは「赦し」です。旧約聖書でも新約聖書でも「赦す」権限を持つのは、父なる神であることを前提にして、赦しを祈り求めていることが分かります。
さて、聖書で「ゆるす」という言葉が取り上げられるときに、日本語の「許す」という文字は用いられていません。あえて「赦す」という言葉が用いられています。許すという言葉が、誰かが犯した過ちを許すという意味のほかにも、許可するといった意味合いでも用いられる広い範囲を網羅するものであるのに対して、赦すという言葉には許可するといった意味は込められていません。あくまで罪や過ちをゆるすという意味だけに用いられています。つまり、ゆるすという行為が、誰かが許可して成り立つようなものとは一線を画するということを示しています。
私たちには誰でも、許すことが推奨されていたとしても、どうしてもゆるすことができないという感情を抱くことが往々にしてあります。特に尊厳を傷つけられた、自分が嫌がることをされた時などは、どうしても傷つけた相手をゆるすことを難しくさせます。許せないという感情が、自分自身を満たすことすらあるのです。そんなときに、ゆるしに関する神の言葉に触れると、どうしてもゆるすことのできない自分自身の姿が神の思いに逆らっているように思うこともあるでしょうし、そもそもそんな感覚を通り越して、ゆるせない思いに満たされている自分自身に、何かを入り込ませるような余地がないくらいになっていることすら気づかないこともあるでしょう。怒りや悲しみに燃え続けるか、ゆるせない自分自身に罪責感を抱いて、自己肯定感を失わせてしまうのです。
私は、聖書に「許す」という言葉をあえて用いていないところにこそ、ゆるしの真髄というものがあるのではないかと思うのです。つまり、許すとか許さないという行動の主体である私たちのそれには、やはり限界があるのだと思います。そして、私たちの限界というものを神は十分にご存知なうえで、私たちに「赦し」という言葉をもって、神の存在というものを改めて示しているのではないかと思うのです。
許しは人間のもの。しかし、赦しは神のものである。つまり、私たちの過ちや罪というものを究極的に赦すことができるのは、神の他に誰もいないということなのでしょう。そして、その神は今日の新約聖書の言葉から読み取れるメッセージとして、今や十字架に付けられているイエスの命をもって、その赦しを全世界に向けて実行されようとしておられる。私たちがどうしても許すことのできない出来事すら、神を主体にすることによって神が赦してくださる。たとえ、私たちが決して許すことができなかったにしてもです。そういう神がおられることを目の前にして、さて、私たちは許せない感情を抱きながらどのように神に自分自身の視線を向けることができるのだろうか、ということを考えずにはいられないのです。
人に向いて無理やり許せなくてもいいのだと私は思います。そうやって実行した許しは、必ずしこりやゆがみを残します。しかし、人に向く前に、私たちはそういう神に自分自身を向けることができるのです。いや、すでに神は赦しということをもって、私たちにその御顔を向けてくださっているのだと。だから、私の視線をちょっと変えるだけで、私たちは神から決してあせったり無理することのない、神の赦しというものをじっくりとながめながら、自分自身を整えることができるのかもしれません。
そんな一日が今日も与えられていることに思いを寄せつつ、その時を過ごしてまいりたいと思いました。許せないという感覚を持ちながらも、神と見つめ合う時も大いに許されている。そんな思いを抱いて、歩むことができますように。皆さんの一日の、神による守りと平安をお祈りします。
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