くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編16編10節
あなたは私の魂を陰府に捨て置かない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書11章25〜26節
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は、そろそろ教会や集会、またはオンラインを通して、主の日を祝われたのではないかと思います。私の働く仙台宮城野教会では、年に一度の特別礼拝として、アシュラムセンターの榎本恵牧師をお迎えして、礼拝と集会のひと時を持つことができました。朝早くから準備がありましたので、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。今日も東京で会議がありますので、新幹線のなかで黙想をして、今スマホから書き綴っているところです。とても便利だなあと思いながら、今朝も御言葉が与えられたことに感謝したいと思います。
陰府(よみ)という言葉があります。生きていることが「陽」だとすれば、その対極にあるのは「陰」であり、生の対極にあるのは死であると理解できます。つまり陰府とは、命から捨て置かれた状態のことであり、命の与え主である神から遠く離されている、まるで関係性が断絶した状態であるとも言えるでしょう。
そのような場から、詩人は叫びます。私を陰府に捨て置かないでくださいと。これが文字通りの死を指すのかどうかは分かりませんが、神との関係性が断ち切られてしまうことがあってはならないのだ。そんな詩人の切なる思いというものが聞こえてくるような気がします。
しかし、この詩人は同時に、私を陰府へと誘導しない方がおられる。それこそ、私の神なのだという確信を抱いているのも、この文章から聴くことのできるメッセージなのだと思わされるのです。
この詩人の確信は、やがてイエスによって語られた「道・真理・命」という、自信を表す宣言の言葉によって明らかにされます。私はいのちである。生命の授け主である神の目に見えるかたちとして、イエスが私とともに立ってくださるのだと。決して遠くない。いや、近くにおられる神が、今日も皆さんを捨て置かれないのだと私は信じながら、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。
どうか皆さんの新しい一日にも、復活の主が臨んでくださいますように。お祈りします。
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