くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書1章9節
主は言われた。
「さあ、私はあなたの口に私の言葉を授けた」。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一2章3~5節
私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その先駆けの出来事として、今日も世界のあらゆる場所で、主の日の祝祭が礼拝をもって行われます。神がともにおられることを祝し、祭りをおこなう世界中の教会や集会の一切に、神の喜びがともにありますように。
神の喜びがある一方で、私たち人間の不安や恐れというものがつきまとう。今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、そのことを私たちに如実に知らせています。今日の新約聖書・コリントの信徒への手紙をつづった伝道者パウロは、この手紙を宛てたコリントの街へ初めて訪れたときの心境というものを手紙の文面に込めています。
私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。
パウロはコリントを訪れる前に、ギリシア最大の街であるアテネを訪問していました。哲学の香りがするこの街で、キリストによる救いを伝えようとしました。哲人たちが集まるアレオパゴスの丘で、パウロは雄弁に語ります。しかし、この場所でパウロが得た感触は、実に空を打つようなもの、暖簾に腕押し、糠に釘といったような、とても空しいものでした。
雄弁なパウロをしても、キリストを語ることの空しさをここで感じたのでした。自分自身が語るキリストが人に受け入れてもらえない様を実感し、パウロは不安や恐怖にさいなまれました。これは、どんなに知識にたけ、さまざまな能力があったとしても、人間ならば誰でも経験するのが「不安や恐れ」というものです。どんなに神がともにおられることを信じていたとしてもです。
しかし、このような不安や恐れに囚われながらも、パウロは自分自身がどのような状況にあることが幸いなのかを、祈りつつ模索しました。そのような不安を通して、自分自身の力ではどうでもならないことがあるからこそ、神の力が私には必要なのだと悟ることができました。自分の能力ではなく、究極的には聖霊様を通して働く神の力と権能に、自分自身は徹底的に頼ることができるのだし、神御自身の力が私を助け、私を用いて働いてくださるのだと彼は謙虚にそのことを悟ることができたのでした。
それは、国家が不安定な時に神の言葉を預かる使命を神から与えられた、預言者エレミヤもそうでした。エレミヤが預言者として神から任命されたときに、エレミヤの職務というものは決して胸躍るものではありませんでした。人々は神の言葉を聞くことを拒むのは十分に想定できたからです。
しかし、神はエレミヤに告げます。あなたの口が叫ぶのではなく、私があなたの口に言葉を授けたのだと。神の言葉を告げるのはあなたの能力ではなく、私の力によってなのだと。あらゆる不安がエレミヤを襲おうとも、神が必ず助け、ご自分の言葉でエレミヤを強めてくださるのだと。神のエレミヤに対する揺るぎない姿勢というものをうかがうことのできる場面、これが今日の旧約聖書の言葉なのです。
私たちにも今、神の言葉が礼拝を通して、また今日の日々の聖句を通して語られ、授けられます。このことにより、新たな一週間のスタートを切ることができますように。皆さんの、そして私自身の歩みのために、祈りたいと思います。
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