くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章14節
今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。神々を取り除き、主に仕えなさい。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章8~9節
神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々の奴隷となっていました。だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして、再び奴隷になることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
日曜日・月曜日と二日間、ローズンゲン黙想をお休みしていましたが(ブログアップする時間を確保することができませんでした。申し訳ありません)、今日からまた再開します。いつもご愛読くださりありがとうございます。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は「神々に仕える空しさ」というメッセージを伝えていると私は受け止めました。この言葉は、長い歴史の中で「偶像礼拝を禁止する」ために用いられてきた聖句として、私たちに与えられてきたものかもしれません。確かに、聖書を読めば、神は私たちに偶像に頼ることなく神である主に仕えなさいと命じられているわけですから、その流れでこのような聖句を受け止めることが出来るのだと思います。
ただ、今日の聖句を目の前にしてじっくりと黙想していますと「神が禁じられているから偶像礼拝をしないんだ」という視点でこの聖書の言葉を読むのではなく、「偶像礼拝というものがいかに空しいことなのか」という視点で、これらの聖句を読むことの大切さというものを教えられているような気がしてならないのです。つまり、ダメだからしないという消極的な根拠ではなく、空しいと分かって自分から避けようとする積極的な根拠で、この聖句を捕らえていきたいと思ったのです。
私がかつて牧師をしていた教会で、ともに礼拝をしていたある信徒さんのことを思い出しました。その方は大工さんでした。大工と言えば、地鎮祭にしても棟上式にしても、いわゆることあるごとに「神事」を行います。そのような神事を行う理由は「その土地にいる神の怒りを鎮め、悪さをする神を縛り付ける」という目的なのだそうです。悪さをする神を縛り付ける。しめ縄というのはそういう縛りとも関係があるのだということを話してくれました。そして、その方は続けます。「聖書に書かれている主である神は、私たちを縛り付けるのではなく、私たちを解放へと向かわせてくださる方なんですよね」と。
私は、その方の言葉にとても納得させられました。聖書を通して知らされる神は、私たちを縛り付けるのではなく、解放へと向かわせつつも、ご自分の大切な教えというものを私たちに伝えてくださる方なのだと。解放されるというのは、何も好き勝手に振舞うことではなく、神が願っておられることを積極的に自分のうちに取り入れていくところにこそ、幸いというものがあふれてくるのだということを「束縛」という言葉を鍵に、感じ取ることができました。ダメだからしないのではなく、神無しに生きることの空しさというものを痛感した時にこそ、神が伝えている言葉の真意というものを理解できるのだと。
私たちをそっと、しかし、しっかりと見守ってくださる神が、今日も私たちの命を与え、支え、導いてくださる。このことを胸にして、新しい一日を歩んでまいりたいと思わされました。皆さんの一日にも、そのような神の守りと平安が豊かにありますように。心からお祈りします。
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