くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章10節
あなたがたは私の証人――主の仰せ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録1章8節
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けすることができず、楽しみにしてくださっている皆さまへは、申し訳ありませんでした。そんな思いとともに、今朝あらためてローズンゲンによって与えられた御言葉に心を傾けたいと思います。
今日の旧約・新約聖書の両方に共通することばは「私の証人」です。旧約聖書イザヤ書では、私とは父なる神のことを指し、新約聖書使徒言行録では、私とは救い主イエスのことを指します。父なる神の思いをすべて体現されて、私たちに見えるかたちで示されたイエスの言行を、どのような時代にあっても、人々はことばで知らせ、また自分たちの言動で示し、限界あるところには聖霊の助けをもって救い主イエスがおられることを証しし、明らかにしてきたのでした。
私たちには限界があります。イエスのように「完璧」に神の御心というものに従うことができず、体現することもできないでしょう。だからと言って、自分ができないことを盾にして、開き直って神の御心にあえて粋がって反抗するようなことは、証し人としての生き方とはならないことを、私たちはあらためて「私の証人」という言葉から認識したいのです。
私たちがイエス、そしてイエスを遣わされた父なる神の証人として生きるために無くてはならないもの。それが「聖霊の降臨」に他なりません。イエスは現に、弟子たちに対して聖霊降臨の結果、私たちが証し人として生きることができるのだということを断言しています。では、聖霊はどのように、私たちの心に届いていくのでしょうか。
聖霊はすでに、私たちの心に注がれています。しかし、私たちはそれに気づかないことが多いのです。あえて粋がってみたり、開き直ったりするところには、どんなに聖霊が注がれても、それが私自身の心に浸みわたることはないでしょう。ですから、私たちはいかに神が日々与えてくださる聖書の言葉を、自分自身にあててじっくりと黙想し、この言葉を通して神が何を語りかけてくださるのだろうかということを、探り求めようとするならば、必ず聖霊がその理解を助けてくださることを、私たちは実感することができるのです。聖霊降臨とは、聖書の言葉とセットなって、神が私自身に働きかけてくださる出来事なのだと、私は受け止めたいのです。
この聖霊降臨の出来事があって、聖霊が私たちをことばにおいて、行動において、神の、そしてイエス・キリストの証し人としてくださる。今日もです。私たちは、そんな思いを胸に抱きながら、今日も神が私たちを整え、世の中へと遣わしてくださることを心から信じつつ、歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日に、神が親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。
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