くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章3節
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
痛みの人で、病を知っていた。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章32~33節
人の子は異邦人に引き渡されて、嘲られ、侮辱され、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書、イザヤ書53章は「苦難の僕」と呼ばれる、私たちのために救い主となってくださる方についての預言として、大変よく知られている箇所の一節です。私たちへの救いをなしてくださる方は、決してきらびやかな姿をもって私たちの前に現れるわけではない。むしろ、私たちのために傷つき、苦しみ、痛みをもって私たち一人ひとりに臨んでくださるのだ。そんなことを思わせる聖書の言葉が昔に、そして今に語り継がれていることを思います。
自分自身が痛みというものを知っているからこそ、人々の痛み苦しみというものを感じ取ることができるのだと。これが苦難の僕の預言を通して、神が私たちに伝えんとしていることなのだと私は受け止めました。
幼い頃から傷ついたひとりの青年がいました。暴力的な教育を受け続けることによって、暴力こそ人をねじ伏せることが出来ることをその青年は体得していったのです。しかし、内心は違いました。暴力など簡単におこなうことができないのです。だから、暴力こそ力であるという側面と、暴力できないはざまで、その青年は苦しみ続けました。
暴力的な態度をとれば、人はその青年から一人、またひとりと離れていきます。心許せる人などいない。彼は傷つきました。痛みました。苦しみました。しかし、その苦しみをどうやって解決して良いか分からぬまま、その青年は年を重ね、ついには老人となってしまったのです。彼は人に依存します。しかし、彼の暴力的な態度に辟易した人は、やはりそこから離れていきます。彼のなかに残るのは「裏切られた」という感覚だけでした。そして、さらに彼は傷ついたのです。
その姿を見る周囲は、彼の得た深い傷、そして、その傷のうめきから来る暴力的な叫びを抑えることはもはや難しく、解放されて欲しいと願いつつも、どうすることもできないのです。さて、こういう方に私たちはどうしたら良いのだろうか。社会的な制度も、カウンセリング的なアプローチも難しいと思えるなかにあっても、私たちにはたったひとつの究極的な望みがあるのだ。それこそ「苦難の僕」が私たちの救い主となってくださったという事実を、その人がではなく、まず私自身が受け止めることなのだと。
私は思うのです。すべての痛み苦しみをご存知である苦難の僕、そしてそれを預言の成就として成してくださったイエス・キリストが必ず、その人の心の傷を癒してくださる時が来るのだと。私たちには具体的かつ現実的な助けをたとえ差し伸べることができなかったとしても、とりなしの祈りをただただその人のために救い主イエスにささげることだけは、何物にも妨げられずに出来るのだということを、私は苦難の僕という預言を通して感じ取ったのでした。
私たちの幸いのために、苦しみをすべてご存知な方が今日もともにおられます。私たちの一日が、そのような方の守りのなかにあることを胸にして、今日も歩むことができますように。お祈りします。
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