28/12/2022

2022.12.28(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編12節
私の魂よ
なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
私はなお、神をほめたたえる
「御顔こそ、わが救い」と。
わが神よ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二3章12節
このような希望を抱いているので、私たちは堂々と振る舞えるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
さまざまな出来事のために、魂が打ち沈み、心からのうめきを発したくなることがあるのだ。詩人ダビデは、そのように自分の心の心境を主なる神に打ち明けます。
 
私はそのようなダビデの心境をつづった詩編42編を読むたびに、自分自身のうちにあるうめき苦しみというものを思い起こします。ちょうど今も、身の上に降りかかる出来事のゆえに、自分自身のふがいなさや至らなさを痛感させられていたところでした。
 
私は、ディートリッヒ・ボンヘッファー牧師の詩である「よき力にわれ囲まれ」の一節を思い出しました。
 
過ぎた日々の悩み重く なおのしかかる時も、
騒ぎたつ心しずめ みむねに従い行く。
 
悩みが重くのしかかる。それが過去のことであったとしても、今そのことで私の心に重くのしかかる。それゆえに心騒ぎ、沈み、うめく自分自身がある。いわゆるダビデやボンヘッファーといった、しばしば人々によって好意的に取り上げられる信仰者でも、いや、そういう信仰者だからこそ、人の何倍も苦しみ、悩みながら生きたのだと、私は受け止めたいのです。
 
それでも、ダビデの心を前向きにさせました。神の御顔をあおぐことこそ、自分に与えられた道なのだと。主なる神がこの苦しみや悩みに必ず応えてくださることを、希望のうちに待とうではないか。ここにこそ救いがあり、私たちのあいだに宿る平和があるのだと。そういう希望に向かって、自分自身の姿を省みながらも、前を見て歩もうとするダビデの姿を、本日の旧約聖書から聴くことができるのだと、私は感じました。
 
ボンヘッファーも、別な言葉でそのことを言及しました。みむねに従い行くと。神の言葉に示された神の御心と御旨に真摯に聴き、その示されたことに従って歩もうではないか。それこそ、悩み苦しみに立たされるなかで、自分自身にできることなのだと。身の回りに関心と注意を払いつつ、よく見渡すと同時に、究極的には神の御顔をあおぎながら歩むことの重要さというものを、思わずにはいられません。
 
本日の新約聖書の言葉は、パウロによって語られた告白ともいえるひと言です。このときのパウロは、自分自身の働きや姿勢について、ある人々の非難を浴びていたところでした。あなたに神を語る資格があるのか。そのような人々の言葉に対して、パウロはただ、神が与えてくださる希望があるから、私たちは自分に与えられた出来事として堂々と振る舞い、歩むことができるのだと。そう書いているのです。
 
堂々と振る舞えることができると日本語に訳されている言葉ですが、ローズンゲン原文であるドイツ語聖書では、Freimutといい単語が用いられています。率直とか正直という日本語で表現できる言葉です。堂々と振る舞うとはどういうことか。それは厚顔無恥に行動するとか、己の姿を省みない姿を現しているのではないのだと私は思いました。神の言葉に聴き、そこに従おうとする態度には、私たちを何もてらうことなく、見栄を張ったり自己保身に終始するのでもなく、自分自身の罪を正直に、率直に神と人の前にさらけ出し、それでも悔い改めて、自分の前に置かれた主の道を真摯に歩むところにこそ、実に希望に満ちあふれた人生が待っているのだと。そのように心から願いたいのです。
 
今日という一日が与えられていることに、心から感謝したいと思います。たとえうなだれていても、そのことで心が悩み苦しいことがあっても、そのことを抱えながらも、神と人の前に今日も正直に、率直に歩むときが与えられているのだから。そのように心から信じ、歩む一日でありたいと思います。どうぞ皆さんの一日に、神様の豊かな守りと祝福がありますように。心よりお祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿