民数記23章19節
神は言ったことを、行わないことがあろうか。
告げたことを、成し遂げないことがあろうか。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章19節
イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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この方においては「然り」だけが実現した。
この方とは、救い主イエスのことを指すわけですが、では、私たちはイエスの何を見て、「然りだけが実現した」という言葉を受け入れることができるのだろうか。そんなことを黙想したいと思いました。
私たちは、クリスマス物語を通して、ふたりの女性に語られ、そして語った言葉を思い起こすことができるでしょう。マリアに語った「神にできないことは何一つない(1章37節)」と、エリサベトが語った「主がおっしゃったことは必ず実現する(1章45節)」という言葉です。この言葉がイエスの誕生を実現させ、イエスが救い主として人々に与えられ、十字架と復活、昇天のできごとから聖霊降臨にいたるまで、人々のあいだで信仰として受け入れられるに至ったということです。
本日の新約聖書の言葉は、救い主をめぐるストーリー全体を通して、まさに「然り」だけが働いたのだと。救い主イエスに対する信仰告白とも言えるパウロの言葉を、私たちもまた受け取ることができるのだと。
イエスが十字架にかけて殺されそうになったときに、人々はイエスに対して「否」をぶつけました。王として救ってくれるはずだったのではないか。そんな人々の期待は、十字架刑を受けようとしているイエスを目前にして、多くの失望、裏切られ感、そして怒りへと発展していきます。その結果、イエスを否んだ弟子たちをはじめとする民衆たちがいたことを思い起こします。
そのなかに私がいる。詩人水野源三さんによる「私がいる」という詩の一節です。
ナザレのイエスを
十字架にかけよと
要求した人 許可した人 執行した人
それらの人の中に 私がいる
私の心にも、救い主の存在を否みたくなるような思いがあるのだと、水野源三さんの詩を思い起こすたびに、そんな心境にさせられます。それは、自分の身に起きていることを思っては困惑し、うろたえ、狼狽する自分自身。目の前に救い主がおられると頭ではわかっているのに、心でそれを受け入れることのできない自分自身。神を見上げて歩むよりも、周囲を見渡しては、人や物事ばかりに視点が向いてしまう自分自身。神に委ねるよりも人におもねてしまう自分自身。そんな自分自身が、イエスに「否」をぶつけているのだと。まさに、十字架につけよと叫び続けた民衆のなかに、私がいるのだと。
しかし、そんな私の否など関係なく、イエスはご自分に与えられた使命を果たされた。そこに帰り、然りと信仰告白が許される機会が、今日も信仰の実体によるイエスによって与えられることを、感謝のうちに受け止めて生きたい。そんな風に思わされたわけです。
神は民たちに言ったことを必ず行い、それを成し遂げる方なのだ。本日の旧約聖書の言葉が語るメッセージです。エジプトから脱出して荒野のなかを流浪するイスラエルの民たちは、いつまでこんな旅を続けなければならないんだと不平不満をこぼし、神の御業を否定することなど何度もありました。しかし、そのたびに神は行く道を与え、マナを降らせて、飲み水を確保されました。人々の否に、神は然りをもって応えられた。今日のふたつの聖書の言葉を通して、そんな神に期待して、今日も歩みたいと願いました。
皆さんの一日が、そのような主の守りと助けによって、豊かなものとされますように。お祈りいたします。
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