15/12/2022

2022.12.15(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編133編1,3節
見よ。
兄弟が共に住むことは
何という幸せ、何という麗しさ。
主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章4~5節
一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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キリストにあってひとつであること。
本日私たちに与えられた、新約聖書の言葉から黙想を深めてみたいと思いました。
 
キリストによって集められ、私たちは一つのキリストの体とさせられているのだ。使徒パウロが再三、手紙にそのことを綴っています。いわゆる「キリストにある一致」が、私たちにはあるというのです。
 
しかし、私たちはよくよく考えなければなりません。一致とはなにか、ということをです。
 
私たちはしばしば一致の意味を取り違えることがあるかもしれません。それは、なにか同じことを一緒にやっていれば、私たちはあたかも一致しているかのように思い込んでしまうからです。その最たるものが軍隊であると言えるでしょう。同じ時刻に起床し、整列し、行進をし、同じ軍事訓練を受け、判を押したように同じ言動をするように求められる場には、美しい統制を見ることができるかもしれません。ああ、自他ともに、一致しているのだと。
 
しかし、キリストにある一致とは、そのようなものとは違います。みな同じ働きをしているわけではありません。そのようにパウロは、キリストの体について説明します。それぞれに神が与えてくださった特性や使命があるということを、私たちは何よりも大切にすることこそ、キリストにある一致のために絶対不可欠なものなのです。
 
では、何によって一致させられているのか。私たちの救い主であるイエスがキリストとされるところにこそ、私たちはキリストの体とされているという事実があります。それは、イエスの全生涯を通して示された、イエスを私たちに与えてくださった神の愛に根差した生き方、そしてイエスが十字架と復活の出来事を通して示された神の愛の神髄と救い主であることの真実、そしてそのことを私たちに知らせてくださる聖霊のお働きを、私たちが受け取り続けていくことに表れる、キリストの体の一部とさせられているという、深いところからくる感覚。
 
たとえ、様式や行動を同一化したとしても、それは一致ではなく一致のように見える何かに過ぎません。キリストという御方が私たちを集めてくださるがゆえに、私たちがキリストの発せられる声に耳と心を傾けることのできる環境には、すでにキリストにある一致があるのだと。私はそう受け止めたいのです。そこには誰かが何らかの強制力をともなって指図したりする必要は全くないことを、私は信じ、受け取りたいのです。
 
とはいえ、私たちは見えるかたちをもって、一致を表現したほうがやはり分かりやすく、それを具現化しようとするのが私たちの現実なのだと思います。だからこそ、見える形での教会が存在し、そこでいろいろな営みがなされていくことを私たちは決して否定はできません。人と人とが顔を合わせて、交流し、同じところから生きるための力を得、同じところへ協力しながら進んでいく。こうして教会の営みは現在まで脈々と受け継がれていることも事実です。
 
だからこそ、兄弟同士がともに座っていることが何という喜びなのだと賛美した、あの詩編の言葉が、どういうところから起きるものなのかを、私たちはキリストの体とさせられているのだという思いを大切に温めながら、目に見える教会の営みを共に歩んでいきたいと願わされました。外目の美しさではなく、内面から輝くようなキリストの体を、御言葉に聴きながら体感していきたいと。それは、直接私たちが集まらなくても、今、この場でキリストの体とさせられていることへの喜びへ導かれるのだということを心から望みつつです。
 
皆さんの一日に、主の守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

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