13/12/2022

2022.12.13(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記6章16節
あなたがたの神、主を試してはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙6章7節
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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主を試してはならないという本日の旧約聖書・申命記の言葉に、ぎょっとした思いにさせられたというのが、私の正直な感想です。「試す」とは何だろうか。あらためてじっくりと考えてみたいと思ったのです。
 
試すと訳されているヘブライ語は「ナーサー(נָסָה)」です。そのほとんどが「試す」という日本語に訳されているわけですが、そのほとんどが、神がご自分の民の心にあるものを確かめるために、試すという方法を用いられました。ただ、1か所だけまったく逆の用法で「試す」という言葉が用いられているのが、本日の申命記6章16節の言葉です。ローズンゲンに示されているのは、16節の後半部分ですが、全文は以下の通りです。
 
申命記6章16節
あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。
 
あなたがたがマサで試したように。
ここに至るまでの神と出エジプトの民たちとのあいだに起きた出来事は、いかに神がご自分の選ばれたイスラエルの民たちを、御心をこめて守り続けてきたかということの連続でした。マラで苦い水に不平を呈したときも、神はその水を甘くして飲めるようにされ、肉やパンを食べたいと不満をこぼせば、マナを降らせてうずらを天から与えられたのも神の御心によるものでした。
 
しかし、彼らは神を試しました。何度も神は彼らの危機や不満を聞き続け、彼らのために働いた。しかし、それを忘れたかのように民たちは、神のなさることを信頼せずにまたもや不満をぶちまけたのでした。ここで言う「試す」とは、神のなさることに信頼がなかなか置けない状態からくる、人々の不満・疑い・甘えの気持ちから起きてくるものなのだと私は受け止めました。
 
そう考えれば、私もしょっちゅう神を試しているのではないだろうか。自分の目の前にあるさまざまな不安にとらわれて、そのことで思いと心がいっぱいになって、神のなさることに委ねたり、信頼したりする気持ちがついつい抜け落ちてしまう自分自身を発見できるのです。これまで神が私に対して示され続けてきた助けの数々を、指折り数えることなく。。。
 
そんな舌の根も乾かぬうちに、神のなさることに信頼を置くことができない自分自身にも、神は愛想をつかすことなく、今日も私とともに生きて、必要な糧を与え、私のことを信頼のまなざしで試し続けてくださるのだと。神が私たちを試すことと、私が神を試すことは、同じ文字が使われていたとしても、その中身が全然違うものであることをしみじみ思わされるのです。
 
神は侮られるような方ではありません。
使徒パウロは、こうして神の真実を私たちに伝えています。神を侮る私にも、神はご自分の誠実をもって接してくださるのだと。その信頼の実を自分自身が刈り取ることができるように、今日も神がなさることに信頼をもって歩みたいと願わされました。
 
私たちの一日が、そのような神が与えてくださる信頼に応答できる経験となりますように。主の平安と祝福を、心よりお祈りします。

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