26/12/2022

2022.12.26(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
列王記上8章66節
民は喜んで自分たちの天幕へ帰って行った。主が僕ダビデと、その民イスラエルになさったすべての恵みの業に心から満足したからである。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章16~17節
羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちはクリスマスを迎え、それぞれの教会や集会、また家族でクリスマスをお祝いすることができたかと思います。今年はクリスマスが日曜日ということもありましたので、本日月曜日から通常の生活、それもあわただしい年の瀬の日々を過ごされるのではないかと思います。クリスマスの余韻をじっくりと楽しむ余裕がなかなかないかもしれませんが、2週間余りのクリスマスシーズンを、クリスマスの喜びとともに送ることができればと願いたいものです。
 
本日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの王ソロモンによって建造されたエルサレム第一神殿が完成し、その神殿が神に奉献される祭りが無事に執り行われたときの様子が描かれたものです。民たちは、神がイスラエルの国を、そして自分たちに恵みを示してくださったことへの喜びと感謝ゆえに、喜びをもってそれぞれの持ち場へ帰っていったと、聖書には記されています。
 
ささげられたものを通して、そこには神の、そして人々の喜びがある。本日の旧約聖書の言葉が物語るメッセージです。それはまるで、神がこの世界にご自分の御子をクリスマスプレゼントとしてささげてくださったことで、羊飼いをはじめとする人々が、飼い葉おけに寝かされている赤子にたどり着いて、出会うことで不安や恐れから解放されて、喜びに包まれながら、神から示された出来事と言葉を人々に知らせたという、本日の新約聖書が示す言葉に相通じるような気がしてなりません。
 
ささげるということの喜びはどこにあるのだろうか。今年は神による呪いや罰をちらつかせながら、脅迫をともなった献金をさせるカルト宗教の実態が、大きな問題として取り上げられました。そのための法律ができ、政府や行政にいたるまで、ささげるという業が健全に働くように、前向きに取り組もうとしている姿を見ることができます。
 
そのような現状を見て、また本日の聖書の言葉から考えたいことは、ささげるということについて、教会は、そして牧師としてどのような態度を抱かなければならないだろうか。その意味というものを問い続けるところにこそ、自然で、能動的で、喜びに満ちあふれた「ささげる」という行為をすることができるのだと。そのことを大切にしたいと心から願わされた次第です。
 
ささげるという行為自体は全然悪いことではありません。問題なのは、ささげるということをめぐって繰り広げられる人間の態度です。ささげるという行為をゆがんだ支配構造を助長するための材料に用いないこと。そんなことを黙想させられました。クリスマスプレゼントをささげてくださった神のことを思いつつ、クリスマスの余韻にひたりながら、今日という一日を過ごしてまいりたいと思います。どうぞ皆さんの一日にも、神の喜びがともなってくださいますように。お祈りいたします。

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