14/12/2022

2022.12.14(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章15節
多くの国民が主に連なり
私の民となる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章9節
ヨハネによる黙示:
私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、玉座と小羊の前に立っていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日私たちに与えられた聖書の言葉は、神があらゆる国籍・部族や民族・言葉の違う民をご自分のもとに集められて、ご自分の民としてくださるということを、私たちに知らせています。神がその御心としてくださる御国の完成は、きっとこのようなものなのだろうという希望を、私たちに与えています。
 
私は「言葉の違う民」というひと言に注目して、黙想したいと思いました。ここで言う「言葉の違い」とは何だろうか。それは、ただ単に日本語だとか英語だとか、文字通りの言語の違いもさることながら、円滑なコミュニケーションがとれない状態のあるところには、すべて「言葉の違いがある」と私は受け止めました。
 
なかなか自分の思いが伝わらない。人と人との心が通い合わず、円滑な関係が築けないとき、私はしばしば「言語が通じない」という言葉を使うことがあります。それが思想信条の違い、傾向や目指すところの違いがあれば、私たちは相互理解がなかなかできず、苦労することがあります。ましてや福音を自分の生き方としようと思えば思うほど、価値観の違いというものが明確になる場合がありますし、互いに福音を受け入れていたとしても、微妙な向きの違いというもので、それが分裂の種になることだってあることを、私たちはよく知っていると思うのです。
 
本日の新約聖書の言葉は、あらゆる違いをもった人たちが神のもとに集められる様が描かれています。ここで共通するのは、どんな違いがあったとしても「神のもとに集められている」という事実があるということです。たとえ違いがあっても、それが分裂や分断の原因にはならないということです。神のもとに集められ、王の座す玉座の前に、そして救い主イエスの前に立っているということで、神の民とさせられている事実があるということを、ヨハネは神から示された黙示として、人々に語っています。
 
主の前に立つということは、主と向き合っているという関係性を示していると私は受け止めました。向き合うことで、主に連なっているという感覚が私たちのあいだで芽生えるときに、たとえ微妙な違いがあったとしても「つながれていることの感覚」を、私たちは抱くことができるのではないだろうか。そう願いたいのです。
 
私たちは自分たちの力でひとつとなろうとします。違いを解消しようと努力し、また苦労することもあります。すがたかたち、そして様式を統一し、一斉にそのことをおこなえば、いかにも統制が取れているようにも見えます。しかし、そのような「集団行動」が、神が集められる民たちの姿なのだろうか。私はそう思うのです。
 
結局のところ、私たちは神が集め、神が私たちをご自分の民としてくださっているということでしか、私たちはひとつとなることができないと私は思うのです。私たちがどんなに頑張っても、違いを分断の種でしか見ることができないのだと思います。人間の力ではどう頑張っても一致することができないとするならば、私たちをひとつとしてくださる神を信じるほか、私たちは集められることもなければ、連なることもできないのだと自覚したいのです。
 
違いを超えることができず、自我を主張することに躍起になってしまう自分自身があります。それが神に対する熱心ゆえのことであればなおのことです。そのことをすべてご存知である私たちの神が、ご自分の力をもって私たちの意識うんぬんにかかわらず、私たちをひとつとしてくださることに希望をもって、今日という一日を歩みたいと願わされました。
 
どうかこの世界を神の力でひとつとしてくださいますようにと祈りつつ、私たち一人ひとりの生活に、神の守りが豊かにありますように。お祈りいたします。

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