18/12/2022

2022.12.18(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記4章11節
主はモーセに言われた:
誰が人に口を与えたのか。主なる私ではないか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一2章4節
パウロによる手紙:
私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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誰が人に口を与えたのか。
この言葉に深い感銘を受けた朝を迎えることができました。そのあたりのことを、黙想したいと思いました。
 
今日くじによって選ばれた旧約聖書の言葉は、神がモーセを、同胞であるイスラエル民をエジプトでの奴隷状態から解放するために、民たちのリーダーとしてお立てになられようとした際に、モーセがその重圧ゆえにそれを拒むというやり取りのなかで、神からモーセに発せられました。
 
モーセは、自分は口の重い者である、舌の重い者であると神に告白します。その前には、私がこのことを言ったとて、誰が神の言葉であると信用するでしょうかと、自分自身の不安を打ち明けました。
 
私は、とても面白いと思ったのです。モーセはエジプト王女の子どもとして育てられたわけですから、リーダーとしての素養というものを十分に兼ね備えながら、これまで生きていたことは十分に想像できますし、そのような環境のもとで、自分はヘブライ人であるという自覚がありましたから、同胞がエジプト人から悪しざまに扱われるのを知ったときに、そのエジプト人を殺害してしまうほど、同胞を思う気持ち、そして同胞を守ろうとする正義のようなものを十分に持っていたはずなのです。
 
にもかかわらず、彼は神からイスラエルのリーダーとして立てられた時に、それを拒むのでした。もしかしたら、モーセは先に述べたエジプト人殺害事件のことで、同胞を守ったつもりがかえって同胞から責めを受け、エジプト王からも殺されそうにもなった。そして逃亡するなかで、自分はそんなことをする資格がないと思ってしまったのかもしれません。
 
私自身のことを振り返させられました。牧師という職について17年が経とうとしていますが、これまで何度も何度も、いわゆる失敗というものを繰り返してきた私というものがあります。自他ともに認める失敗はもとより、良かれと思ってしたことが、かえって裏目に出てしまったということなど、数えきれないほどあります。そのたびに、自分自身に与えられている立場について考えさせられました。牧師をする資格など無いのではないだろうか。いつまでも責めを負い続けなければならないこの環境に居続けるのが、本当に耐えられないと何度思ったことでしょうか。赦しの無い世界のなかで、神は私をどのように扱われるのだろうか、牧師にふさわしくないのならば、その首を切ってくださいと神に何度も問い尋ねました。
 
単なるこじつけに過ぎないかもしれませんが、モーセと自分自身を重ね合わせてしまいます。私はモーセほどの知性も教育も正義も持ち合わせていませんが、モーセが神によって召し出されたときに「私は口の重い者、舌の重い者」と告白した気持ちが、手に取るようにわかるような気がします。
 
しかし、神はそんなモーセに、誰が人に口を与えたのか、この私ではないかと返答されます。人間の力で言葉をつむぎ、リーダーシップを取るわけではないのだ。ただ、神の言葉と知恵、力によってのみ、民たちを導くことができるのだと、神はモーセに伝えられました。モーセに求められるのは、言葉を与えてくださる神を信頼して、その言葉を己が力でゆがめることなく、その本質をとらえて歩むことのみでした。たとえ、実際に口べただったとしても、神はモーセを助けるために、アロンという雄弁な人物をモーセとともに働く者として与えられました。こうして、神が私たちの先頭に立って歩んでくださることをモーセに約束されたのでした。
 
私は自分自身を顧みては、いつも思わされることがあります。私に与えられた資格をあれこれ問う前に、まず私自身が神の言葉の前に謙遜な思いで立たされているだろうか、神の言葉に心から聴く態度、その本質をとらえてそれを自分自身の生き方としているだろうか。もし、独善的な態度をもって神の言葉を利用しているならば、それを気づかせ、教え諭してくださる神を心から信頼しているだろうか。そして、本当に資格のない者であると神がお認めになるのであれば、神はそのことを私に気づかせてくださるという思いをもって、神のなさることに心から信頼して歩みたい。そして、行く道も行く道も、私の手をとって導いてくださる神を私の神としたいと。
 
おそらく、今日の新約聖書の言葉にある使徒パウロも、モーセと同じ思いで宣教の道を神とともに働き、歩んだに違いないと改めて思わされます。アドヴェント最後の日曜日、今日も神のなさる素晴らしさが聖書の言葉を通して語られるときに、その幸いを私たち一人ひとりが受け取れることをお祈りいたします。どうぞ素敵な主の日をお過ごしくださいますように。

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