25/12/2022

2022.12.25(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨシュア記24章23節
あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、あなたがたの心をイスラエルの神、主に向けなさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章18節
いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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クリスマスおめでとうございます。
 
2022年も終わりを迎えようとしているなか、私たちは救い主を迎えることができました。主は来られる、救いは私たちのもとにやって来る。私たちは待望の思いを持ちながらも、年末にその御方を迎えることになるというのは、なんとも象徴的な出来事のような気がしてなりません。
 
私たちにとって、救いはすぐにでも訪れてほしいものであるという期待があるのではいだろうか。私なんかいつもそう思っています。しかし、待てど暮らせど救いがそう簡単にやって来ない。だから焦るのです。焦るからこそ、私たちは何か代わりのもので済ませようとします。そして自分自身にひと時の安心を得るのだけれども、そこには究極的な安らぎを見い出すことが難しいのだと。それをとっかえひっかえすることで、私たちの心は流行りすたりに翻弄される毎日を送っているのかもしれません。
 
本日の旧約聖書にある「異国の神々」とは、そういう私たちの心にある焦りからくる、一時の慰めのようなものなのかもしれない。私はそのように受け止めました。異国の神々は、確かに私たちにきらびやかな魅力を提供するかもしれませんし、私たちはそれを少しの時間でもいいから、自分自身の慰めのために利用するのかもしれない。こうして落ち着かない自分自身を安心させたいのだと。
 
しかし、私たちがあれこれ手を尽くしても究極の安心が得られないなかで、最後の最後に私たちのもとに訪れてくださったのが、救い主イエスなのだと。こじつけかもしれませんが、クリスマスを一年の最後に迎えようとするのは、実はとても意義深いことで、焦り待てない私たちに対する、神の深い憐れみが確かに訪れることの紛れもない出来事なのだと。私はそのように受け止めたいのです。
 
心を主に向けるというのは、簡単なようでとても難しいことなのだと思います。私自身の心には、さまざまなものに翻弄されやすく、また頑固な自分自身の心を発見できるからです。しかし、それでも神は私たちに心を私に向けてくださいと言われ続ける御方なのです。そして、そのことの意味を、神は最後の最後にイエスという救い主を差し出し、それを私たちがこの目で観ることで、肌で感じ、心で受け止め、救いの喜びというものを経験できるのだと。私は、クリスマスが訪れた今、そして2022年も終わりを迎えようとしている今だからこそ、自分自身の心を見つめつつ、その向こう岸から渡って来られた救い主を心からお迎えしたい。そのように願わされました。
 
どうぞ、皆さんにとってのクリスマスが、永遠の終着地であることの喜びを味わうときとなりますように。お祈りいたします。

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