20/12/2022

2022.12.20(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
創世記6章8節
ノアは主の目に適う者であった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章8節
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神も悔やまれる方である。
私は、本日の旧約聖書の言葉である、創世記6章を見るたびに、そのように思わされるのです。
 
創世記6章は「地上に人が増え始めたとき」(1節)という書き出しから始まっています。神はアダムとエバから子孫を増やすことをお許しになられました。たとえ、アダムとエバが神に背を向けて、神無しに独立独歩の道を歩もうとしても、神は当初の目的を崩されることはありませんでした。アベルのような神の目に正しいと思われる人物が現れて、そのアベルを兄弟であるカインが殺したとしても、神は人間を造られたことを打ち消すことなく、地上に人が増えゆくことを、お許しになられました。
 
その後の子孫がどのような人生を歩んだか、聖書は「神と共に歩んだ」(5章24節)エノク以外に、その詳細を全く記していません。本日の聖書の言葉に登場するノアまでは。ただ、ノアが生まれたときの環境を「主が土を呪われたゆえの、私たちの手の働きと労苦」(28節)があったことを、聖書は述べています。人間が神無しに歩むことが、いかに呪いと労苦に満ちあふれていたかを物語る言葉です。
 
そのような世界に人が増え始めた時代に、地上の娘たちを自分の者とし、妻とした「神の子たち」がいたことが記されています。神の子たちとは、いわゆる肉体のかたちを持たない神の使いたちのことであり、本来は人間を妻とするようなことがあってはならない存在でした。ここに、神がつくられたシステムが崩れていく姿がありました。
 
システムエラーという言葉があります。まさにそんな感じだったのでしょう。修復可能なエラーであれば、適切に修復されることがありますが、システムが破損して修復不可能ならば、リセットしてイチからやり直す。まさに神のつくられた世界が、修復可能なものなのか、神の手によってもう一度やり直されるのか。そのようななかで、神はこのように考え、決断されました。
 
主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、
地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」(6章5~7節)
 
神は自分のしたことを悔やみ、リセットの道を選ばれました。
しかし、神は100%すべてを作り直されることはありませんでした。神の目に適うノアの存在を神は知っていたからです。神は、ご自分のつくられたシステムをすべて破壊されるのではなく、「慰め」という意味の名前が与えられたノアにすべての慰めを託し、機能しない世界でも再生できる慰めがあることを、明らかにされようとしました。
 
それ以降、いわゆる「ノアの洪水」の物語が始まります。
 
ノアの洪水の話を聞かれる方々のなかには、破壊する神に恐怖を抱き、神の人格に疑念を持たれる方が多くおられることに気づかされます。ノアの洪水を引き合いに出して、滅びを強調し、滅ぼされたくなかったら神を信じなさいと迫る教会の歴史があったことを、私たちはよく知っています。それはまるで、呪いを受けたくなかったら献金しなさい、壺や印鑑を買いなさい、そしてリーダーの指示に絶対的に従いなさいと迫る、カルトリーダーと重ね合わさると感じるかもしれません。
 
しかし、私はいわゆる「滅びの危機」を強調する読み方ではなく、あくまで神は全部を破壊されることなく、せめてもの慰めを人間が感じることができるように、ノアを通して取り計らってくださる方なのだということを中心に置いて、この聖書の言葉を受け取りたいと思うのです。これは神にとっても荒療治でした。多くの痛みや苦しみというものをともないながら、洪水を実行されました。神もまた、ノアを通して慰めを得ました。だからこそ、「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。」(8章21節)と、神は心のなかで宣言されました。
 
つまり、人間が「悪い心」を持ち続けなければならないなかで、いかに神が与えてくださる慰めによって生きることができるか。慰めの与え主である神が人間とともに歩む決意をされたのだと、私は受け止めたいのです。
 
人の子が来られるときに、果たして信仰を見い出すことができるのだろうか。
イエスによって語られた言葉です。クリスマスを間近に迎えようとしている今、救い主が来る世界は、それを迎えるにはふさわしいとは言い難い環境がはびこっているのかもしれません。まさに「心に諮るものが常に悪に傾く」世界です。
 
しかし、だからこそ、人々は慰めを必要とし、救いを必要とする。その慰めの主である人の子が、救い主として私たちを慰めるために、この地上にやって来られる。クリスマスとはそういうものなのだと、あと数日にその日を迎えようとしている今、そのことを黙想し続ける者でありたい。そう思わされました。
 
慰めを与えてくださる、信仰の実体である主イエスが私たちのもとに来られるからこそ、私たちは信仰が与えられ、その信仰をもって今日という一日を生きることができます。そこに慰められることを喜びつつ、本日も主が皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿