くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書60章10節
異国の子らはあなたの城壁を築き
その王たちもあなたに仕える。
私は怒りをもってあなたを打ったが
恵みをもってあなたを憐れんだ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章9節
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得られるように定められたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その初日であるこの主の日、世界中でおこなわれる礼拝のすべてが、私たちの新しい七日間の旅路を豊かに導き、祝福されていることを望みつつ、今日も神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の義憤」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
今日の旧約聖書のなかで、神はご自分の民に対して、怒りを示されたことが記されています。しかし、怒りという感情は、私たちのなかでは負のものとして捉えられることが多くあると思いますし、それは事実です。私たちは不用意に、自分自身の怒りというものをあらわにすることが、愚かな行為であるということが、しばしば言われているわけです。
そのようななかで、神の怒りというものを、私たちはどのように捉えたらよいのだろうかと考えるのです。神の怒りを都合よく持ち出して、私たちが怒ることを正当化する材料にするのでしょうか。私たちは、神の怒りというものに対する、健全な意識というものを抱いていることは、本当に大切なのだと思います。
神の怒りは、正しいことがなされない「ゆがみ」に対してのものであることを、私たちは忘れてはならないのだと思います。神の正しさは「人間のいのちを活かすこと」にあることを、私たちはどれだけ認識しているだろうかと問い続けることは大切です。つまり、そのことに私たち人間が気づかないときに、神は怒りという感情を示されるのです。
しかし、怒りが怒りのままで終わることは決してないということが、今日の旧約聖書・新約聖書の両方に記されているのは、大変興味深いことと言えます。怒るが憐れみを示される神でもあるのです。怒りが怒りのまま残ることはありません。人が神の正しさに生きようと決意して、神と歩調を合わせて生きようとしたときに、神は怒り以上の憐れみを示されるということも、私たちは決して忘れてはならないのです。
そのために、命を投げ捨ててまで私たちにとことん付き合われた救い主イエスがおられ、その様子を怒りつつも、それ以上の憐れみをもって見守られた神がおられるのです。この神御自身の定められた思いによって、私たちひとりひとりが生かされているということを、今週一週間を生きる柱にしていきたい。これが私の受け止めたいと思ったメッセージでした。
神の憐れみに生きるために、神の正しさに自分自身を沿わせているかということを問いつつ、今日の初日を迎え、過ごすことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、特に、被災のもとにある熊本や千葉の方々のためにお祈りします。どうぞ素敵な一日をお過ごしくださいますように。
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