くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書50章5節
主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章39節
マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日から、私の所属する日本基督教団の行事へ、スタッフとして参加するため、東京へ出かけております。「教師継続教育研修会」と呼ばれるものです。スタッフとしてではありますが、私もひとりの「研修生」として、学びの機会をいただいています。そして、同労の友である牧師の皆さんと一緒に交流できることは、とても嬉しく、またありがたいことです。今日も一日、学びの時を得てまいりたいと思います。今日も引き続き、酷暑のなかにあって、特に災害のもとにある熊本や千葉の方々のために、祈りを合わせたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「聴く」ということにまつわるものでした。旧約聖書には「耳を開かれる」という言葉が用いられており、新約聖書では「聞いていた」という言葉が用いられています。私たちにとって聴くとはなにか、そのことについて黙想をつづりたいと思います。
今日の新約聖書の言葉は、大変有名なエピソードです。都エルサレムにほど近いベタニアの村で、イエスの友人であったマルタ、そしてその姉妹であるマリアが登場します。この村を訪れたイエスを、マルタは家へ招きました。イエスを心からもてなしたいと思ったからです。そして、マルタはもてなしのための作業のために忙しくしていました。
一方で姉妹マリアは、イエスの足元に座って、イエスの語る言葉に耳を傾けていました。忙しく動き回るマルタと、じっと話を聞き続けているマリアの姿は、とても対照的です。そんな対照的な姿に、いら立ちを覚えたのはマルタでした。マルタの不満はマリアに向けられますが、同時にイエスに対してもその不満の思いが示されました。
イエス様、マリアが私の手伝いをしてくれないことを、何ともお思いにならないのですか。手伝ってくれるように言ってやってくださいと。しかし、イエスは、マリアがご自身の語る言葉に耳を傾けていたことを、決してとがめたりはなさいませんでした。イエスはマルタに、マリアから「取り上げてはならない」と告げられました。
このエピソードは、「もてなすべきかイエスの話を聞くべきか」という二者択一の話ではないと私は思っています。イエスをもてなすことも、イエスの言葉に耳を傾けることも、大切であり尊い「務め」であることに間違いありませんでした。大切なことは、それぞれに与えられた大切な務めを「取り上げてはならない」という、イエスの言葉にポイントがあると私は思うのです。
マルタは、イエスに対して自分のことも注目してほしいと思っていたのでしょう。「何とも思わないのですか」という言葉には、私のことも気にかけてほしい、配慮してほしいという思いが込められています。そこには、マリアに対する嫉妬のようなものも含まれていたのかもしれません。マリアばかりずるいという思いが、イエスに向けられたことが、マルタの発言に表れていると私は思うのです。
イエスは、そんなマルタに対して、マリアは、彼女にとって「今、大切なこと」を良いものとして選んだことをマルタに伝えます。マルタにはマルタの良い選択をしたわけですが、マリアもマルタの良い選択をしたわけです。マルタはそのことに不満を抱くのではなく、目を細めて見守ることこそ、大切だったのだと私は思います。それがイエスの価値観そのものだったからです。
私たちはイエスの価値観に「耳と心を傾ける」ことこそ大切なのだと。それが私たちの生き方に表れるときに、私たちは誰かをうらやむわけではなく、嫉妬することもなく、それぞれの判断と決断を、主のもとに尊び合えるような生き方ができるのだと思うし、そのことを望んで、今日の一日を生きてまいりたいと思います。皆さんの今日が、そのような神のまなざしによって豊かなものでありますように。お祈りします。
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