10/01/2024

2024.1.10(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編34編15節
悪から離れ、善を行え。
平和を求め、これを追え。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙14章19節
だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、こんにちは。
今日は、早朝から出張のために移動しておりましたので、黙想を綴る時間がありませんでした。ようやく時間が取れましたので、遅くなりましたが、黙想をお届けしたいと思います。
 
今日の聖書の言葉を通して、私はあらためて「善悪」「平和」はどこから来るものなのかということに、思いを寄せてみたいと思いました。というのも、私たちにとって善悪や平和というものに対する基準というものは、実に開きのあるものであり、また温度差のあるものであるということを痛感されられているからです。自分が善と信じてやまないことが、実は他の人もそう思っているとは限らない。この「ズレ」というものに敏感に感じ取りたいと思わされています。
 
私たちにとっての善悪や平和は、私たちが決める事ではなく、あくまで神が私たちに与えてくださるものであるということは、神の信仰に生きる者ならば、誰でも知っている事と思います。しかし、神の善悪とは何かということを考えるときに、どうしても私たちは自分自身のフィルター(めがねという言い方もできるかもしれません)を通さなければならないために、神が求めておられる善悪とか平和というものを、ゆがみなくキャッチできているだろうかと考えるのが「ズレに敏感でありたい」理由だったりします。

そうしないと、結局のところ我田引水のごとく、自分の願望を神の御心という錦の御旗に押し付けて、善悪や平和というものの基準を自分自身で決めてしまい、神のそれとかけ離れてしまうことになってしまうきらいが、いくらでもあるからです。俗にいう「カルト化」というものは、そういうズレから生じ始めるのだと、私は思うのです。
 
私たちは、こういうことを、今日の御言葉にもあるように、追い求めて、求めすぎることはないのだと思います。追い求めるために、私たちは時に立ち止まって、御言葉の前に黙し、祈り、それを互いに分かち合えるような時と場が必要なのだと思います。神の思いを知るために、神の御言葉に丹念に聴きつつ祈る。祈りつつ、愛する者同士のあいだに、平和が構築されるような関係性を求める者でありたい。そんなことを、今日の言葉から想いをいただくことができました。
 
夕方を迎えました。寒く、暗い夜に不安を覚えられるすべての方々のために祈りつつ、神の善がこの世にあらわれることを、心から願いたいと思います。皆さんの一切にも、神様の祝福が豊かにありますように。お祈りいたします。

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