11/01/2024

2024.1.11(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章10節
私はあなたを苦難の炉の中で試みた。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙4章2節
たゆまず祈りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日から、私が協力牧師を務めている「アシュラムセンター」に来ています。アシュラムセンターの朝は、早天祈祷会から始まります。6時半からの約1時間、御言葉と祈りの時をもっています。対面・オンラインのハイブリッドで、毎回20名ほどの方々で祈ります。とても良い朝を迎えることができました。感謝なことです。
 
また、早天祈祷会では、毎回冒頭に、その日のローズンゲンを読んでいます。ですから、今日私は、そのいただいた御言葉をもって、一日を始めることができました。今、祈祷会から「黙想の家」に戻ってきて、あらためて、今日の聖書の言葉を思い巡らしていました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、私たちが抱く苦しみについて触れられているものです。私たちの苦難は、まるで燃え盛る炉のようであり、あまりにも熱すぎるために、もだえ苦しむさまを、私たちは経験しなければならない。これが苦しみのなかにある、私たちの心境であるというのです。苦しみから脱したい。しかし、脱しきれない。
 
そのようななかで主なる神は、私たちの様子をずっと見守ってくださっている。神がおられるのであれば、すぐに手を差し伸べることもおできになられるでしょう。しかし、神は私たちの苦しみを通して、私たちが御自身に向き合おうとしているかどうかを、見守りつつじっと見ていてくださっているというのです。「試す」とは、そういう意味があるのだと、私は受け止めたいのです。
 
ただいたずらに、私たちの苦しみを眺めては、愉快犯的に楽しんでいるわけではありません。神だって苦しいのだと私は思います。ただ、ご自分に向き合わないところで私たちに助けの手を差し伸べても、そこにはやはり意味が無いのだと思います。単なる偶然な、ラッキーな、強運の持ち主であったと、私たちは自分の手柄のようにはしゃいでしまう私たちの姿があるからです。
 
私たちは、たゆまなく祈る者として、神と向き合うことの幸いというものを、今日の新約聖書の言葉を通して、感じ取る者でありたいと願います。苦しい時にこそ、祈りを通して神と向き合い、自分自身の姿というものを見つめる大切な機会としたいのです。ただ、調子が良ければ神を持ち上げ、苦しければいとも簡単に神を引き下げ、突き落としてしまうことのないように、私たちを見守ってくださる神の思いに、自分の思いをチューニングできるような一日であることを願います。
 
どうぞ、皆さんの一日に、神の見守りと平安がともにありますように。お祈りいたします。

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