31/07/2025

2025.7.31(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編11節
天が地よりも高いように
主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章20~21節
しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
早いもので7月も最終日を迎えました。猛暑に見舞われたこのひと月でしたし、昨日はカムチャツカ半島の地震の影響で、津波への不安が私たちの思いをよぎる一日でした。私の住む仙台は14年前の震災で、津波に対してはいまだに私たちの心に傷跡を残していると私は感じています。私たちの不安をすべてご存知である神が、私たちの心と身体を見守り続けてくださいますようにと祈りつつ、朝を迎えました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「私たちの努力を超越した神の慈愛」についてでした。そのことを黙想としてつづりたいと思います。
 
私たちの努力ではどうしようもないことがあります。ある程度の問題解決ができたとしても、究極的には解決しがたい問題があることを私たちはよく知っています。地震や津波などの自然災害に対しては、私たちは自然の脅威を目の前にしては、ある程度の予測や予防、対策ができたとしても、それを完全に無くすことはできません。不安が私たちを容赦なく襲うのです。
 
それは物理的なものにとどまりません。私たちの人間関係におけるさまざまな差し障りがあります。格差ゆえに苦しむことがあります。人の傍若無人な態度に辟易することもあります。それを私たちは不断の努力によって解決に向かおうとしても、100%差しさわりのない世界を実現することはどの時代でも不可能でしたし、どんなに科学技術が発展した現代においても、私たちの努力がすべてを解決することは、やはり難しいのだと思わされます。
 
今日の聖書の言葉は、私たちの努力に限界を感じたとしても、いや、限界を感じるからこそ、それを超越した神の力といつくしみが、神御自身の愛をともなって私たちのひとりひとりに豊かに臨み、また及ぶことを伝えるものであると私は受け止めました。私たちの想像をはるかに超えた神の助けが、神のいつくしみを受けて生きようとする人々に明らかに注がれるというのです。罪の増し加わるところにこそ、神の恵みがあふれるのだと、使徒パウロは手紙をつづりました。多くの差しさわりで落胆し、絶望することもあるでしょう。しかし、だからこそ見えてくるものがあるというのです。それが神の慈愛であるということです。
 
私も今月一か月間を振り返る時に、やはり落胆することもありましたし、己の限界というものを痛感させられる場面が幾たびもありました。だからと言ってそのことが私を前に進ませないわけではないのです。明らかに時が進み行くなかにあって、神が私の足取りを一歩、一歩進ませてくださるのです。私は神が道を歩むその力を与えてくださるからこそ、たとえ限界のなかにあったとしても、神のなさることに希望を託しておぼつかない歩みでも、確かに前進していることを感じ取りたいし、そのことを心から受け取りたいと願うのです。
 
今日の御言葉はそのことを感じることのできるものでした。このような御言葉が与えられたことに心から感謝しつつ、一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切に、私たちの足取りを少しでも軽くし、ご自身の慈愛という力をもって歩ませてくださる神が祝福してくださいますように。心からお祈りします。

30/07/2025

2025.7.30(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言7章2節
私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書19章20節
青年はイエスに言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御心を『瞳』のように大切にする」ということでした。そのことをつづりたいと思います。
 
昨朝のことです。朝起きてしばらく経って、左眼に黒い筋が蜘蛛の子を散らしたように見えてきました。「もしや?」と思ったのもつかの間、左眼がどんどん見えなくなってしまいました。眼底出血を起こしてしまいました。出血した血液がものを見るのを邪魔させてしまうのです。
 
昨年11月に出血を起こして以来、眼科の治療を受けています。適切な治療の甲斐もあって、これ以上の進行をとどめることができているのですが、出血だけは起きてしまう可能性があるとのことで、出血した時にはそれが治まるのを待つしかないとのことでした。毛細血管を強くする薬を飲んで毎日を過ごしており、出血が徐々に収まると視界がどんどん良くなってきて、とても快適に過ごすのを実感していました。
 
今回は4回目の出血であり、かなり視界が晴れてきて喜んでいただけに、また振り出しに戻ってしまったことで、昨日は不便さとなかなか状況が改善しないことにいささか気落ちをしておりました。ただ右眼は問題なく見えていますので、そのことに感謝して今朝もパソコンに向かっている次第です。
 
そんな朝に開いたローズンゲンの言葉には「瞳」という文字が私の眼前にあったことで、今の自分自身の状況に照らし合わせてこの言葉を読むことができました。あらためて「見える」ということの大切さに思いを深く寄せることができたのです。それは単にものが見えるという物理的なことのみならず、見えることで自分自身の心情であるとか何を大切にしなければならないかということに対してじっくりと考えることができるという意味で、見えるということへの幸いというものを実感させられたのでした。
 
今日の旧約聖書の言葉を私は、神の掟、つまり神の私たちの御心に対して、物事の本質をとらえるように自分自身の見える力、つまり瞳を大切にし続けなさいという意味で受け止めました。文字面だけで守ったような気持ちになるのではなく、その本質をとらえ続けることの大切さというものを自分自身のなかで求め続けていきたい。そのように思ったのでした。
 
それに対応する今日の新約聖書の言葉は、律法の言葉をおそらく誠実に守り続けていた青年がイエスに言ったセリフが選ばれています。おそらく彼はまじめに律法の言葉を守り続けてきました。しかし、イエスにこの後言われた言葉に、青年は失望してイエスのもとを去ってしまいます。それは、青年にとってはあまりにもチャレンジングな、守ることの難しい勧めをイエスから受けたからでした。
 
神の掟を文字だけで守ることができやすい環境というものがあるかもしれません。しかし、神はその文字の奥にあるご自身の心を受け取って欲しい。そのように私たちに問いかけておられるのだと私は思えてならないのです。このことは決してたやすいことではないこともあります。しかし、神と心が通い合うことは、たとえその律法の言葉が実現困難なものであったとしても、だからこそ神の助けと支えを私たちが心から求める素晴らしい契機ともなるのではないか。そのように私は受け止めたいと思ったのでした。
 
神と心を通い合うことが、私の心の中にある瞳を大切に守り続けることのできる第一歩なのだと。そのことを胸に、今日も少しだけ不自由な生活を喜びつつ営みたいと思います。皆さんのなかに不自由なことがあるとすれば、それを支え導いてくださる神がともにおられることを、今日の一日を生きる柱とすることができますように。心からお祈りします。

29/07/2025

2025.7.29(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編21編14節
主よ、力に満ちて、高くいませ。
私たちはあなたの力強い業を歌い
ほめ歌を歌おう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37節
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「神の力によって賛美する喜び」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは賛美をするときに、どのような思いをもって賛美を神にささげているでしょうか。私たちにとって賛美とは、その多くは「音楽」をともなったものであるというイメージがあるかと思いますし、事実その通りだと思います。しかし、私たちにとって音楽とはいったい何かということを考えたときに、音楽というものに対する私たちの意識というものが問われているような気がしてならないのです。クラシカルな聖歌や賛美歌もあるでしょう。現代的な音楽に合わせたプレイズやワーシップもあることでしょう。そして、私はこう思うのです。神の力によってなされる賛美は、いかなる種類のものであってもそれ自体が素晴らしいものであるということです。
 
私たちはこのことに神への敬意を抱きつつ、自分自身のものとしているでしょうか。それとも、自分の好みや音楽性というものに気を取られて、あらゆる賛美に差異をつけてそれらの賛美に良し悪しを判定するでしょうか。この問いに私たちの各人が真剣に問い直すことは本当に大切なことであると、私は強く感じ取りたいのです。
 
私たちの神へ向かう心の表明として賛美の歌を歌います。ですから、その賛美のかたちはいろいろあって良いのだと思います。しかし、それは「自分自身のおごり」を表明する危険性をもはらんでいるということを、私たちは神の御前にあって謙虚に受け取っていくならば、賛美というものが神の力によってなされることを実感できるに違いないのです。
 
文語がかもしだす響きの良さ、口語だからこそ分かる言葉の意味、心を慰め安心へと導く緩やかな音楽もあれば、心を鼓舞するようなビートでなされる賛美もあるでしょう。そのどれもが神への賛美であることに変わりはないわけだし、この賛美は私自身の音楽力や勇ましくあろうとする力の表明では決してないのです。あくまで神が私たちに生きる力を与えておられるからこそ、その力によって賛美ができるということを、私たちは是非心に刻み込みたいのです。
 
賛美をすることが、私たちの傲慢さを生むことではなく、賛美する喜びというものを分かち合える素晴らしいときとなりますように。そして、私たちとともにおられる神の栄光を心からほめたたえられる機会となりますように。この賛美が、私たちの一日を生きる神からの活力となりますように。そんなことを願いつつ、皆さんの主にある守りと祝福を心よりお祈りします。

28/07/2025

2025.7.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章7節
あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章9節
天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も猛暑の一日となりそうです。どうか今日の一日もまた、神の守りに支えられて、その時を神とともに生きる幸いに包まれますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは「神の名を『利用』してはならない」ということでした。そのことを黙想としてつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを通して民たちに与えた「十戒」の一節です。神のお名前を「みだり」に唱えてはならない、というものです。そこで、私はあらためてふたつのことを振り返りたいと思いました。「神のお名前」と「みだり」という言葉についてです。
 
神のお名前は「主」という日本語に訳されていることが多いのですが、これは単に「あるじ」という意味だけを示しているわけではありません。結果的には私たちのあるじであることには間違いないのですが、神のお名前には「私はいる」という意味があることを、神は民たちに伝えられました。
 
私はいる。この言葉には「私は神である」「私はあなたがたとともにいる」「私はあなたがたの神となる」という、存在を表す動詞(英語でいうbe)のすべてを物語る意味を私たちに与えています。つまり、神は慈愛をこめてご自分に似せて造られた人間が、御自身と歩調を合わせて生きることを人間に期待し、それを求めておられる。その思いが「主(私はいる)」というお名前に集約されているのです。
 
そのことを踏まえると、そのお名前を受け止める私たちの態度がどのようなものであることが期待されているのかを、私たちはじっくりと考えることができるのです。そこで「みだりに唱えてはならない」という神の戒めというものを意識することができるのではないでしょうか。みだりにとは「勝手気ままなさま」「欲しいまま」という意味があります。つまり、神の期待を勝手に自分好みに解釈し、自分の思い通りにことを動かそうとする態度のことを「みだりに」と表現するのです。
 
私たちとともに神がいてくださるという言葉は、もし神が頼りになる力強く、また優しい方であることを知っていれば、それは私たちに安心感を与えます。しかし、その安心感は神と歩調を合わせることにおいてこそ成立するものであることを、私たちは決して忘れてはならないのです。守ってくれるから神の思いや願い、期待というものをないがしろにして自分好みの神を造り上げて、自分の願望通りに振舞うことは、結局のところ神のことを利用して、自分自身が神となることを示しているのと同じことなのです。
 
私たちにそのような思いがあるでしょうか。全くないということは絶対にないのです。私たちは、神の期待よりも自分自身の願望というものを無意識のうちに第一にしてしまう存在なのです。そこから逃れることは決してできないのです。だからこそ、私自身の言動というものがどこから発しているものなのかを、丁寧に検証することは本当に大切な私たちの営みに他なりません。
 
神の御言葉に聴いて祈るという営み。この地味な私たちの出来事は神の期待と自分自身の願望を照らし合わせることのできるただ一つの道なのです。自分自身の合わせ鏡として、神の御言葉に聴いていくのです。自分は絶対に大丈夫だという思いを捨てるのです。絶対なのは御言葉をもって私たちを導かれる神おひとりであることを、私たちは是非意識したいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、主の祈りの一節です。御名が聖なるものとされますように。神が私たちとともにいてくださるという神の思いを、私たちは自分自身がおごることなく、その意味というものを祈りをもって問い続けるのです。だからイエスは祈りの言葉として「神のお名前があがめられますように」ということを、冒頭に置いたのではないか。私はそう思えてならないのです。たとえ神の期待に十分に応えることができなかったとしても、その切なる思いさえあれば、神は必ずや祝福をもって私たちを守り導いてくださいます。そのことを胸に抱いて、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。
 
どうぞ皆さんの一日に、私たちともにおられる神の思いがしみわたり、神の思い願いによってその時を過ごすことができますように。お祈りします。

27/07/2025

2025.7.27(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編29編11節
主がその民に力を与えてくださるように。
主がその民を祝福してくださるように

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間が始まりました。猛暑のなかですが、今日も神によって霊肉の健康が与えられますように。そして、神とともに生きることの幸いを私たちのそれぞれが味わうことができますように。お祈りします。
 
そういう意味で言えば、今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句は、まさに神が私たちひとりひとりに生きる活力を与えてくださることを心から感じることのできるものだったと私は受け止めました。生きる力というのは、もちろん身体的な活力というものもあるでしょう。しかし、私たちは身体的に健康であるとともに、精神的・霊的にも健康であることがいかに大切かということをも、心から感じ取りたいのです。健康な肉体は健全な精神からとはよく言ったものです。
 
今日の聖句は、神が私たちの霊的な部分の健康のために、聖霊の助けを十二分に注いでくださることを黙想できるものであると私は感じました。新約聖書の言葉は、使徒であるパウロがその若き同労者であるテモテに対して勧めている言葉です。臆病という言葉が登場します。私たちは大なり小なり、いろいろなことで不安を抱く存在です。その不安に満たされると、心が思いだけでなく、胃腸に変調を来たしたり、頭痛や不眠などを起こしてしまうことで健康が徐々に損なわれることがあります。悩みがあると、私たちはそのような状況にすぐなってしまうのです。その源こそ、私たちが誰でも抱く臆病であるというのです。
 
しかし、神がご自身の霊をもって現わしてくださるのは、力と愛と思慮とあります。神の力は決して暴力的なものではなく、愛せないときにそれでも自身が神によって愛されていることへの実感によってにじみ出てくる愛するということへの理解、それが決して感情的なものではなく、理性をともないながら用いることのできる安定した愛、そういう目には見えない静かな神の力というものが、聖霊の助けを通して私たちの各人に与えられるというのです。
 
そのような神の力が、私たちを霊肉ともに活かしていく。そして、そのように生かされた命のあるところには、必ずや神が祝福してくださっているということへの実感があふれ、それが分かち合われるところには、必ず神の平和で満たされていくことを物語っている。そのことを胸にして、この新しい一週間を営んでいきたいと願わされました。
 
まずは、その先駆けとなる今日の礼拝が祝されますように。神が私たちのために準備してくださった礼拝に招かれて、私たちが心からそのことを喜ぶ者でありますように。皆さんの主にある守りと平安のために祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。

26/07/2025

2025.7.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書21章14節
私はあなたがたの業が結ぶ実に従って
あなたがたを罰する――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章14節
主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間を振り返る大切な一日として過ごしてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に誠実であること」です。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉には「罰する」という言葉が登場します。裁きという言葉が意味するひとつに「罰する」という判断があります。裁き=罰することではありません。裁きとは判断という意味がありますから、正当な判断のもとに、罰する場合もあればそうでない場合もあるのです。しかし、今日の旧約聖書の言葉で語られているのは「罰する」、つまり、その人が何を行ったかということに対する、神である主の判断があったということです。
 
この言葉が告げられたのは、都エルサレムのある南イスラエル王国(ユダ王国)の人々でした。神によって守られている、自分たちこそ神が選ばれた民という自負がこの国民にはありました。しかし、実際のところは神の思いや願いというものをないがしろにして、自分の願望に身を任せて行動していました。言行が一致していなかった民の姿がそこにはありました。
 
神との関係性において、神はご自分の正当な判断によって民たちにこのような言葉が語られました。その結果、ユダ王国の民たちはのちにバビロニア帝国の侵略に遭い、彼らは捕囚の民として祖国を去らなければなりませんでした。数十年にわたる辛苦を味わわなければならなかったのです。
 
しかし、神はいたずらに民たちを痛みつけるために裁きを執行されたわけではありませんでした。罰という出来事の先にあるのは、自分のしたことの重大さに気付き、そこから民たちがどのような生き方をするかというところに、神の本来の思いや願いがあったのです。最終的に神はこの民たちを祖国に戻して、この国は再興するにいたりました。そこには、民たちが神の御前に誠実になろうとした心があった。その心に神はご自分の正当な「裁き」を執行されたのでした。この場合の裁きは罰することとは対極にある判断によるものだったのです。
 
私たちは「神が罰する」という言葉に恐れ、おびえ、神が恐ろしい方であるという印象を抱くことはないでしょうか。確かに罰せられることは恐ろしいことなのです。誰も罰せられることを好む者はいないのです。しかし、神はご自分の判断というものを、あくまで人間が神とともに生きる幸いを味わい続けることができるように、常に働きかけてくださっているということなのです。そのことを私たちは忘れてはならないのだと私は思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによるたとえ話にある一節です。長旅に出る主人が家来たちに自分の財産を預けました。ある者はその財産を運用してさらなる富を得ました。それに対する主人の言葉が今日の聖句です。
 
これは、家来の「実績」を評価したのではなく、あくまで家来が主人に対して誠実に仕えようとしたその心を、主人は高く評価したのでした。目に見える実績がもしふるわなくても、心が主人に対して誠実さをもって向いていれば、神の評価というものがいわゆる「罰する」方向にはいかなかったでしょう。この世の中の一般的な価値基準とは別な価値観が、神の正当な「裁き」にあふれているのです。
 
見た目の華々しさや実績ではなく、その心をしっかりと見ておられる神によって、私たちの生活は守られている。このことを思うだけでも大きな慰めと励ましを得るのだ。私はそのように今日の聖句を受け止めたいと思ったのです。このような思いをもって、今週の歩みを振り返って、明日の主の日への備えに向かいたいと思います。
 
皆さんの一日に、神の守りが豊かにありますように。お祈りします。

25/07/2025

2025.7.25(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編44編2節
神よ、この耳で私たちは聞きました
先祖が私たちに語り伝えたことを
先祖の時代、いにしえの日々に
あなたのされた業について。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章3節
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も猛暑の一日が始まりました。雨ひとつないお天気のおかげで、土用干しをしていた梅干しもいい具合にしぼんできました。この後天日にさらして、仕上げていきたいと思います。楽しみです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「耳の用い方」についてです。そのことを黙想したいと思います。文字通りの耳もあれば、心の耳もあります。ですから、ここでは「私たちの聴覚」という意味も込めて、つづりたいと思います。
 
私たちは見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くということを、日常生活のなかでごくごく当たり前のように行っています。私自身もそうです。どんなことも全部目を凝らし、耳を傾けていたのでは、身がもたないことも正直言ってあるのです。そのことで聞かなければならないことまで聞けなくなってしまったら、それこそ健全な日々を過ごすことができなくなってしまうからです。
 
しかし、今日の聖句が言わんとしていることは基本的に違うものです。聞かなければならないことまで、自分のえり好みによって耳を閉ざすことがあるならば、それはかえって不健全であるということを、今日の聖句は私たちに示しているのではないかと思うのです。今日の新約聖書の言葉は、まさに私たちにそのことを伝えているのだと思います。
 
私たちにとって「おのれが願望すること(I want)」を聞くことよりも、「おのれが必要とすること(I need)」を聞く。一見すると似たようなことかもしれませんが、私たちが健全に生きていくうえで必要とすることは、必ずしも私たちの願望と一致するわけではありません。良薬口に苦しと言ったように、私たちには耳の痛いことでもそれが私自身の健全な成長に欠かせないこともまた真実なのだと私は思うのです。
 
しかし、私たちはその苦さを嫌います。進んでそれを聞こうとなどという奇特さが私たちにはなかなか芽生えて来ないのです。だから、耳障りの良いことを聞き続けようとする私たちの態度があります。なかなかそのことを謙虚な心をもって受け入れられない私自身の姿というものを発見してしまうのです。
 
しかし、その発見、つまり気づきこそ大切なのだということも思わされるのです。この気づきは、私たち人間に対して、神がどのように扱われてきたかということと連動するのだと私は今日の聖句を通して、あらためて気づかされました。神が私たちに救い主イエスを与えてまでその御声が届くように私たちに語りかけてくださったそのことを、私はどのように聴くことができるのだろうか。今日の聖句はそんなことを私自身に問い、促しているのだと受け止めたいのです。
 
今日の神とともに歩むことのできる一日が、そのような神の発せられる御声に耳と心を傾けて聴くことができますようにと祈ります。そして、皆さんとともに、神の善いものを受け入れることができますように。お祈りします。

24/07/2025

2025.7.24(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編39編13節
主よ、私の祈りをお聞きください。
私の叫びに耳を傾けてください。
私の涙に黙していないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書7章38,50節
ひとりの罪深い女がイエスの背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も暑い一日が始まりました。皆さんそれぞれのご予定に、神の守りと祝福が、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「神は必ずその悲しみを分かっていてくださる」ということでした。そのことについてつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の箇所は「罪深い女を赦す」という表題がついている物語の一節です。イエスが食卓に招かれたときの場面です。この町で「罪深い者」とされていたひとりの女性が登場します。この女性がどのような罪を抱えていたか、聖書は詳しいことを記してはいません。しかし、当時の世界で「罪深い」という言葉が、具体的には律法の言葉に著しく違反していた場合に、そのような言われ方がなされていたことは確かです。律法の言葉には神の思いや願いというものが込められていたと考えられていたからです。それは間違いのないことなのです。
 
そして、罪が赦されるためには、神殿で犠牲のささげものをすることも含めて、律法に記されていることを「遵守」することでそうなると考えられていたわけです。もちろん、律法を守ることは、その人の心がともなっているわけですが、ただ単にルールを守るという外面的な行動だけでとどまらない、その人の「心」というものが大切であることをイエスはこの女性とのやり取りを通して明らかにされたのでした。
 
女性は香油の入った壺を携え、自分の涙と髪の毛でイエスの足を拭って、香油をその足に塗るという行為をします。この行為は決して律法に記された規程ではありません。しかし、この行為は後のイエスの言葉からも分かるように、女性のイエスに対する「愛」に基づく敬意から起こされた行為であることが分かります。そしてイエスは、この女性が示された愛こそ、律法の中核にある本質であって、愛こそ罪が赦されるために無くてはならないものであることを、その場に居合わせた人々に告げたのでした。
 
女性はおそらく、自分が抱えた罪ゆえに自分自身を責め続けたのだろうと思います。しかし、人間社会のなかではなかなか許してもらえない。それがイコール神から赦されていないのだという思いへと発展したのかもしれません。人から責められ続けて生きるというのは、その人がその苦しさから解放されて、脱出しようという気持ちすら削いでしまうものであると私は思うのです。こんなに辛いことはないのです。
 
しかし、イエスはこの女性の心の奥にある慈愛を見抜かれました。だからこそ、この人が抱え続けていた罪の苦しみから解放されて癒されることを、「罪の赦しの宣言」というものを通して人々の前で明らかにされたのです。外面だけでは分からない行動の本質というものを大切にしようとしたイエスの思いというものゆえに、私たちは大きな慰めを得ることができるのです。こうして女性は自分の罪が赦されて、心の苦しみが癒されて、神とともに歩む人生の道筋が与えられたのでした。神はこの女性のことをちゃんと分かっていてくださったのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデによる切なる懇願の祈りでした。私の思いに心を傾けてくださいという必死な祈りの言葉なのです。私たちの生活の中で、このような祈りを私たちは神に向けることがあるでしょうか。神は私の懇願に応えてくれないと感じることはあるでしょうか。私はあります。だから神に祈ります。しかし、神に祈ることができるのは、神は分かっていてくださるという希望が多分にあるからです。必ず神は道を備えてくださるのだ。その一心で、神に祈り続けたいのです。そして自分自身の心にあるものを確かめながら、神が与えてくださった愛というものを大切に守り続けていきたいのです。そんなことを、今日黙想することができました。
 
どうか今日の一日もまた、神の与えてくださる愛といつくしみに生かされる喜びにあふれる者とならせてくださいますように。皆さんの一日にも、そのような神の慈愛が豊かにありますように。お祈りします。

23/07/2025

2025.7.23(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編18編20節
私を広い所に導き出した。
私を助け出し、喜びとしてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章10節
神の恵みによって、今の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄になりませんでした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。
今日もお昼近くになりました。私は今朝から家事をしたり(梅干しの土用干しの作業をしていました)、急ぎの仕事をいくつかしておりましたので、ローズンゲンに向かうのが今の時間となってしまいました。落ち着いて神の言葉に向かうことが難しいときに、私の心には何ともいえない焦りがあったりもします。だからこそ、心を落ち着かせてこの時間を大切にしたいと思いました。実に自分自身の弱さというものを痛感しつつ、今日のローズンゲンによって指し示された御言葉を前に静まりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して感じたことは、まさに「心のゆとりを与えてくださる神への信頼」ということを、私は受け止めたいと思いました。スケジュールが立て込んでいるなかにあって、心が狭くなっていくのを実感していたからです。差し迫ったものに焦りを感じるときに、とても心のゆとりを持つことが、それを保つことを難しくさせている自分自身に気付かされるのです。もっと仕事を減らしてみてはと聞くことも多くあります。しかし、仕事量が多かろうと少なかろうと、大切なのはそういう時にどういう心持ちというものを大切にするか、ということなのでしょう。
 
タイトな時だからこそ、神が私たちに立ち止まること、ご自分と向き合うことで冷静さと喜びというものを再び気づかせてくださるのだと。今日の詩編の言葉はまさにそういうことを述べているのではないかと思うのです。それが1分でも10分でも良いのだと思います。少しでも神を思う時間が与えられているのです。そわそわした時にこそ、神が私にご自分の言葉を通して、祈りの時を通して、物事を冷静に考えるスペースというものを私自身に気付かせてくださる。そのことを大切にしたいと思ったのです。
 
こういう営みの繰り返しが、私にとって「万事が無駄なものでは決してなかったのだ」という実感に変われば、すべてが神の助けのもとになされていることを自分自身の生き方とすることができる。そんなことを胸に抱きながら、午後の活動へと進んでいきたいと思いました。午後には訪問聖餐の時が待っています。心にゆとりをもってひとつひとつの出来事に誠実に向かって行きたいと思いました。もちろん、神がそうしてくださることを心から信じつつです。
 
どうぞ、皆さんの午後のひと時にも、神が落ち着きと喜びを豊かに与えてくださいますように。皆さんのために、そして私のためにも祈りたいと思います。

22/07/2025

2025.7.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編67節
苦しみに遭う前、私は迷っていました。
しかし今は、あなたの仰せを守っています。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書21章16節
イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日は三連休の最終日。それぞれの予定を過ごされたかと思います。私が働く仙台宮城野教会では「教会修養会」が行われました。2023年度から始まりましたので、今年で3回目の修養会でした。新年度計画の段階から構想を練ってきた修養会でしたが、多くの参加者とともに教会のことを考えるとても良い一日を過ごすことができました。準備などもありましたので、昨日のローズンゲン黙想をお届けすることができず申し訳ありませんでした。今日からウィークデイの日々が始まりますが、今週の日々も神とともに生きる幸いを、私たちそれぞれが味わうことができますように。そのことを祈りつつ、今日の御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデ王によって歌われた詩編の一片です。私たちはこの言葉に触れて何を思うのでしょうか。ダビデ王のような賢帝でも悩み多き人生を送っていたということを、私たちは今日の言葉から聴くことができます。いや、賢帝だからこそひとつひとつの物事に対して丁寧に取り扱おうとしたのでしょうし、そのたびに心の痛みというものを覚えたのだろうと私は思うのです。ダビデ自身の弱さというものをも、彼自身十分に自覚していたのかもしれません。とにかく「迷う」ということは、私たち人間には付き物であり、その迷いや悩みのなかで私たちは行く道をさまよいながら生きることだってある。これは大きな慰めとなるのだと私は思うのです。
 
大切なことは、そのような迷いのなかにあって私たちはどのように歩むことができるのだろうか、というところであると思います。私自身なんかそうなのですが、気の迷いから迷走してしまうときに、大体は自分自身のことで精いっぱいで他に眼が行き届かないということに気付かされることがあります。物事に対して冷静でなくなり、その時の感情が、そしてかつて味わった負の感情がトラウマのかたちで、自分自身を満たしてしまい、迷走してしまうのです。そのことが不健全なものと分かっていながら、そこから抜け出せない自分自身にハッと気づかされるのです。
 
しかし、今日の聖句は、だからこそダビデがどこを向こうとしていたのかということに、私たちは注目することができるのだと思うのです。その方向とは「神の仰せ」であったとダビデは自分自身を振り返りつつ歌を歌いました。神が私たちに何を思い、何を期待し、何を願っておられるか。ご自分の言葉を通して私たちの心にそれを響かせてくださるというのです。ダビデはそれゆえに、自分の気の迷いが晴れていく姿というものに発見できたのでしょう。神とともに生きる幸いというものを自己発見できたダビデ。それは迷いに対して自分自身で解決するのではなく、あくまで神の助けがあるからこそ、それが無ければ自分自身は生きていくことはできないのだというダビデの深い確信というものがあったことを、この聖句から知ることができるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスがその弟子ペトロに対して、ご自分の弟子たちを養いなさいという勧めをしているシーンです。つい最近、ペトロはイエスを裏切ったばかりでした。しかし、復活されたイエスがふたたびペトロのもとに近づかれてその関係性は回復されました。それだけでなく、今ペトロは大切な務めをイエスから託されようとしているのです。
 
ペトロの心境は複雑だったかもしれません。気の迷いというものがあったかもしれません。しかし、ペトロはそんななかでもイエスとの深い愛の関係性がある以上、この務めをなすことがイエスによって可能とさせられたのです。イエスはペトロに三度このことを確認するように尋ねられました。ペトロは自分自身は信頼されていないのではないかと思ったかもしれません。悲しくなったと聖書には書かれています。しかし、このことはペトロ自身の能力によるものではなく、あくまでイエスの助けがペトロの行く道を確かなものとすることへの強調だったのではないか。私はそう受け止めたいのです。
 
私たちの迷いをすべてご存知であり、その迷いをともに担ってくださるイエスの助けが、今日も私たちを活かす確実な根拠となりますように。暑い一日が今日もやって来ますが、そのときにも私たちの心身が安らかなものでありますように。お祈りします。

20/07/2025

2025.7.20(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書14章9節
主よ、あなたは私たちの中におられます。
私たちは御名によって呼ばれています。
私たちを見捨てないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録11章26節
このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間が始まりました。梅雨も明けて本格的な真夏も始まりました。この七日間の旅路もまた、神とともに生きる幸いを私たちが生活のあらゆる場面で楽しむことができますように。そして、その先駆けとなる今日の礼拝が祝福のうちにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、すばり「神とともにある幸い」についてです。そのことをつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書は預言者エレミヤによる神への願いです。ここでエレミヤは神のお名前に言及しています。そのお名前が指し示すところの意味が「私たちとともにいてくださる」であることをエレミヤは知っておられるからこそ、私たちを見捨てないでくださいと神に祈ることができました。
 
神である「主」というお名前は、それが主人であるということ以上に「私はいる」という意味をもったお名前であるということです。私はいる。神は私たちとともにいてくださることで、私たちの神となってくださることを明らかにしています。ご自分が愛を込めてご自分の姿かたちに似せた存在としてつくられたのですから、神の側からすれば、そんな簡単に人間のことを見捨てるはずがないのです。
 
しかし、エレミヤがこのような祈りの言葉を神に向けている背景には、神が私たちを見捨てるというよりも、私たちが神を見捨てて歩んでいたことへの深いざんげの念が含まれていることを是非知りたいのです。見捨てられてもおかしくない私たちであるという極めて謙遜な姿勢が、エレミヤの心中にはあったのでしょう。イスラエルの民の現実をみたうえで、神にそのような願いの言葉を祈りにしたためたのでした。
 
この後、イスラエルの民は神を見捨てたことでさまざまな辛苦というものを味わいました。自分自身ではどうにも解決できない問題が彼らを襲ったのでした。しかし、神はそんな人間に憐れみを示してくださり、私たちのことを見捨てたりはなさらなかったのです。再びご自分の名に示された「神とともに生きる者」として、人間を祝福のうちに導かれたのでした。
 
その歴史的事実が、イエス・キリストの登場によってなお明らかにされました。キリスト(救い主)が、私たちの命を救い、私たちが心からそのことを望めば神は私たちとともにいてくださることが明確に、そして具体的なかたちで私たちに与えられたのでした。キリストの救いを自分の人生の中心に据える者。そういう意味で「キリスト者(クリスチャン)」という呼ばれ方が、パウロによる伝道旅行を通じて人々のあいだに知られるようになったのでした。
 
私たちが自分たちのことを「クリスチャン」であると自覚し、その言葉を使うときに、キリストとともに生きる自分自身であるということへの告白ともなるのです。この意識を大切にしたいと、私は今日の聖句を受け止めたいと思いました。
 
私はクリスチャン。そんなことを喜びをもって告白できる私たちでありますように。皆さんの、そして私自身のためにも祈りつつ。

19/07/2025

2025.7.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編62編2節
私の魂はただ神に向かって沈黙する。
私の救いは神から

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二1章6~7節
あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。
今週も最終日を迎えました。今日は午前を少しゆっくりと過ごしましたので、朝のうちに配信することができませんでしたが、午後の活動をするにあたって、ローズンゲンに示された聖書の言葉に聴いて、活動の源にしたいと思いました。皆さんにとっても午後のひと時が、神の守りと平安がともに豊かにありますことを、心からお祈りします。
 
私が今日示されたふたつの聖句から得たいと思ったのは「私たちがあえて復讐する必要はない」ということでした。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
昔「復讐するは我にあり」という小説があり、映画やテレビドラマ化されたのをお覚えの方もおられるかと思います。ある連続殺人犯を題材にした作品でしたが、このタイトルこそ新約聖書「ローマの信徒への手紙」の一節から取ったものであることもご存知かと思います。私たちの世界にある不条理を、神が必ず解決してくださる。だから、あえて私たちが憎しみをもって復讐する必要はないということを、私たちに思い起こさせる聖書の言葉に他なりません。
 
昨晩、私はあることについてずっと思いを巡らせていました。私のなかにあるやるせない思いについてです。人の憎しみや自己保身に巻き込まれたことを思い出していました。それは私にとってとても辛い出来事でしたが、そのことは今でも尾を引いているものであって、時々私の心を苦しめることがあります。そんな時に、どうすれば私の心はこのことに冷静に向き合うことができるのだろうか。そんなことを思い巡らせていたのです。
 
憎しみの感情をぶつけられることほど気持ちの悪いものはありません。もちろんそこに至る理由があるのですし、憎しみをぶつけたくなるような要因が私にもあることを思うと、私は決して悪くないとは言えないことも確かです。しかし、それにまつわる諸事には、あまりにも不条理で、納得がいかず、そのことを理解してもらえないということへの悔しさというものが自分自身を襲うことも、また偽らざる事実なのです。
 
そういう時に、私は叫びたくなることがあります。そして、そのような叫びや怒りの感情や憎しみをともないながら発せられることが往々にしてあるわけですが、しかし同時にこうも思うのです。そんな怒りや憎しみをぶつけたところで、そこに生産的なものは何も生み出せないのだと。憎しみに憎しみを返すことが、かえって後味の悪いものであることを散々経験してきたからです。
 
だからと言って、そのことを胸中でぐっとこらえていさえすれば良いのかと言えば、そんなはずもないのです。そんなことをしたらストレスがたまる一方であり、ゆがんだ感覚というものを助長させてしまうことになるのは目に見えるからです。だからこそ、すべてをご存知であり、最終的な決着をつけることができる神のなさることに、自分自身を委ねることができるのでしょう。
 
ただ黙して神に向かうという今日の旧約聖書の言葉は、私たちがたとえ物事を語ることがなくてもすべて神がご存知であるという安心感ゆえに起きる、私たちの姿勢を物語る聖書の言葉なのだと私は受け止めました。神は必ずこの状況に答えを与えてくださる。だからこそ、今自分自身にとって必要な言動というものが、健全に私の心身から表現されていくことを私は心から望みたいし、実践する者でありたいと心から願わされるのです。
 
それは決して復讐を神にすべてお任せするということでもありません。私たちの神が、私たちの人間世界に与えてくださる指し示しというものが、時には苦痛を明らかにし、私たちに安らぎを与え、本当の意味での平和というものに私たちを導いてくださることを心から期待しつつ、神にすべてを委ねながら、自分自身に与えられた持ち分というものを果たすことができるのだということなのだと思います。
 
そんな思いを抱きながら、この一週間に起きたいことをあらためて振り返りつつう、新しい一週間の始まりに備える者でありたいと思いました。皆さんの一切にも、そのような神の導きがともにありますように。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

18/07/2025

2025.7.18(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書59章12~13節
私たちの背きの罪はあなたの前に多く
自らの過ちを、私たちは知っている。
私たちは主に背いて欺いた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい朝を迎えました。一週間の日々があっという間に過ぎていくのを実感させられます。私は今日、教区センターで2つの集会と会議が控えています。今日も出会うひとつひとつのことに心を寄せ、心を込めながら一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの出会うすべてのことに、神の守りと祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「罪」でした。そのことを中心に黙想をしたいと思います。
 
罪とはなんでしょうか。聖書で語られる罪とは、私たちをつくられた神の願いに背を向けることえであり、神がいなくても自分たちは独立独歩の道を歩むことで幸福になれるのだと私たちが望み、行動すること全般を指す言葉です。こうして人間は実際に幸福になれたのかというテーマが、私たち人間の歴史全体に問いかけられているのです。
 
神を除けても幸福になれると確信した人間の歩みは、ある程度の幸福に寄与したのかもしれません。しかし、それと同等に、いやそれ以上に私たちの生活にさまざまな「ゆがみ」というものを生じさせているのもまた事実であることは、人間の歴史が物語っていると私は思います。神を押しのけるということは、私たちが向き合う相手は人間しかいないのです。人間と人間が向き合おうとしたときに、必ずそこには支配・被支配の関係が生まれます。これが健全に働かないと、さまざまな支障が生じるのです。あらゆる経済格差、人種・民族差別、そしてそれを獲得するためにたびたび起こされる戦争、そして無用な犠牲。それらすべては、私たち人間の産物なのです。
 
いや、聖書にも神が戦争を起こさせているだろうという意見がありますし、それは聖書を通して語られていることを私たちは決して否定できません。確かにその通りなのです。しかし、そのような旧約聖書に記されている出来事は徐々に消え去り、私たちは救い主であるイエスが私たちのもとに来られてからは、人間同士の小競り合い、戦いによらない平和のスタイルというものを一貫して提示していることは、新約聖書を通して知ることができるのです。私たちはイエス・キリストが私たちに対して何を思い、何を願い、何をなされたかということを通して、神の本来の願いというものを知り、理解し、それを自分自身の生き方としたいのです。これこそが「神に背を向けない生き方」なのだと、私は強く受け止めたいのです。
 
とはいえ、私たちは物事を「完璧」に行うことはできません。もし私たちが完全無欠な存在であるならば、その時点で私たちは神の助けを必要としなくなります。つまり、自分自身が神として歩むということなのです。この勘違いこそがゆがみを生み続けてきたのですから、私たちは自分自身のありようというものを見つめ続け、また神との関係性というものを問い続けていくことは本当に必要な営みなのだと思うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神無しでも生きていけると思っていた、神とともに歩んでいると自称しながら、結局神の願いをそっちのけにしていた人々が自分の現実に気付かされて、悲惨な状況のなかで再び神とともに歩もうと決意したその思いがつづられた一文です。いわゆる「悔い改め」の言葉であるわけですが、ここにこそ、私たちのことを守ってくださる神が私たちとともにいてくださるという本来のかたちが回復することを意味しています。
 
その守りが今や、イエス・キリストが私たちのために与えてくださった「弁護者」、つまり聖霊の助けと導きが私たちの行く末を守り続けてくださるというのです。聖霊が私たちの思いにとどまり、軌道修正しながら私たちが歩むべき道を提示してくださるのです。今日の一日をもです。
 
そんな思いを胸にしつつ、今日の一日を神とともに歩むことができますように。そしてその向こうには、神が実現させてくださる平和を私たちが喜び、味わうことができますように。心からお祈りします。

17/07/2025

2025.7.17(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書17章14節
主よ、私を癒やしてください。
そうすれば私は癒やされます。
私を救ってください。
そうすれば私は救われます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章24~25節
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に、「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も暑い一日を迎えますが、どうか皆さんの健康が神である主によって守られますよう、心からお祈りします。私はこの黙想を書き終えたら、近くの中学高校礼拝へ行ってまいります。歳若い方々に御言葉をお届けできるのが本当に楽しみです。そして、帰宅後は午前に祈祷会、午後には家庭集会と訪問聖餐が控えています。今日も一日楽しみつつ主の御用に当たりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神に赦されること」についてです。そのことをつづってみたいと思います。
 
神に赦されるというのは、具体的には私たちが神無しでも生きていくことができるという確信のもと、隔絶されていた神との関係性が回復されるために、神が私たちに対して働きかけてくださった「大いなる譲歩」なのだと私は考えています。この譲歩なくしては、私たちは再び神のもとに帰ろうと思うことも無ければ、神とともに生きたいと願うことすら無かったでしょう。神は常にご自分の譲歩をもって、私たちに近づかれ、私たちに気付きを提供し、私たちが自分の判断と決断によって神の差し伸べられた手に、我が手を伸ばすことができるようにしてくださいました。これが究極的な「赦し」なのだと思うのです。
 
私たちには神がなされたような完全無欠の赦しを行うことはできません。ある程度の譲歩ができたとしても、神のような極めて一方的な赦しを提供することなど、本当に難しいことなのです。しかし、私たちは神がなされた赦しにひとつのモデルを見ます。神が差し伸べられた手に、私たちは自分の手を伸ばすことができる、ということです。
 
私たちは人間関係のなかで、許しを実行することを極めて困難にさせる多くの出来事があるのをよく知っています。私自身、なかなか許すことのできない相手がいます。しかし、許せないという気持ちを抱き続けることは、本当に労力のいることですし、疲労とストレスを抱えながら負のパワーというものに付き合わなければなりません。だから、私たちはこの「許せない感覚」から、少しでも解放されたいと心から願うはずなのです。
 
だからこそ、私たちには「赦される体験」が必要なのです。神の譲歩によって私たちが今生きているということを自分自身を確かめようとしたときに、そこには得も言われぬ安心感というものを手にすることができるのだと。この安心感こそ癒しの結果であり、救いへの道なのだと私は受け止めたいのです。
 
私たちは神の一方的な赦しを自分自身に応用することは難しいでしょう。しかし、神によって赦され、癒され、救われたという経験を持った者同士が、互いに譲歩しあうことは可能でしょう。ここに神のモデルというものに自分自身を沿わせながら生きることができるのだと。私はそういう生き方というものを今日の聖句を通して確認して歩みたいと願わされました。
 
どうか今日一日の歩みも、神がくださった譲歩ゆえに喜びを抱けるような時でありますように。皆さんの主にある守りと祝福を心よりお祈りします。

16/07/2025

2025.7.16(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編127編1節
主が町を守るのでなければ
守る人は空しく見張ることになる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章2節
王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
夏の暑い日々のなかでも、不安定な天候が続くここ数日です。大雨などで不安を抱えているすべての方に、その安全が神によって守られますように心からお祈りします。今朝はゆっくりと起きることができました。そして今日は教会でゆっくりと過ごすことのできる一日ですので、資料や原稿づくりに励みたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、今参議院議員選挙のさなかにあって、私たちが政治に対する私たちの態度について深い示唆を与えることばであると私は受け止めました。そのことをつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロが若き同労者であるテモテへ書いた手紙の一節です。この節だけだと少しわかりにくいと思いました。「王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい」とありますが、一体何を献げるのでしょうか。その答えはこの節の前に記されています。

テモテへの手紙一2章1節
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。
 
つまり、私たちが献げるものとは「願いと祈りと執り成しと感謝」であることが分かります。では、誰に対して私たちは献げるのでしょうか。それはすべての人や王たち、高位の人々に対して献げるのではなく、神にに対して私たちが献げることができるものであるということです。つまり、私たちがこの世界の人々のために、また政治家や権力をもった人々のために、平和かつ安寧であり、品位が保たれるなかで、誰もが幸せな生活を営むことができるように、人々に神が働きかけてくださることを切に願い、私たちはこれらのものを神に献げるのです。
 
私たちにとっては、あらゆる政治思想をもった方々に対して、好意をもって受け入れることのできる方々や政党があれば、その逆もあるでしょう。その際に、私たちに求められる態度とは何でしょうか。自分の意見を隠してまで世の中に迎合する必要はないと私は考えています。しかし、私たちはあくまで神の国による統治に守られた者として生きるときに、神の国が指し示す価値観や態度というものを大切にして、自らの意見というものを是非大切にしていきたいのです。
 
今日の新約聖書の聖句後半には「私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです」と記されています。神の態度に聴き、ともに歩みたいと心から願う敬虔さ、そこからにじみ出るキリストによって練られた品性は、いたずらに挑戦的にならず、好戦的にもならず、しかし是々非々な態度で世の中に向かって歩もうとする態度が、穏やかさであるとか極めて動的な静けさというものを神の助けによって生み出すことができるのだと、私は積極的に受け止めたいのです。
 
この手紙が書かれた時代、イエスを救い主と告白し、それを伝えることは、ときに命の危険にさらされなければいけないくらいのものでした。ローマ帝国という権力が、いまだ残存していたであろうユダヤ教の影響が、彼らにとって大きな逆風となったからです。そのようななかで、パウロが指し示した態度とは、相手に牙をむくことではありませんでした。あくまで神の御心に聴き、平和の主であるキリストを伝えることに、心を寄せて歩もうというものでした。
 
今日の聖句は、選挙中の日本にあって実にふさわしい聖句であると私は感じました。私たちの国をも守ってくださる神である主がおられることに心を寄せつつ、神の御心を尋ね求め、その態度を今日一日の生活でも明らかにし、その態度を示していくことができますように。皆さんのために、また私自身のために神に祈ります。

15/07/2025

2025.7.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上6章27節
見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章23節
まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日は、私の所属する日本基督教団の仕事で、ふたつの神学校を訪問しました。そのうちのひとつは私の母校だったのですが、今の神学校で展開されている神学教育の詳細を知ることができ、とても学ばされるひと時を持つことができました。神学校を卒業して20年が経ちますが、こうして神の国に向かって歩みを進めている働きを担っておられる先生方や、そのもとで学びを進めている学生の皆さんのために祈らなければならないことを心から想わされた次第です。私は神学生時代はろくに勉強をしなかったことを思い出しながら、しかし、神学校で得たひとつひとつの思い出はとても尊いものだったことを再確認することができて、本当に良かったです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神を礼拝する真実」であると私は受け止めました。そのことを少しつづってみたいと思います。今日の旧約・新約の両方に記されているエピソードは、それぞれに興味深いことを私たちに知らせています。
 
今日の旧約聖書の箇所は、ダビデ王の時代から構想のあった神殿が、その息子であるソロモン王の時代に完成した時の話です。親子二代にわたる偉業を成し遂げたということは、それだけ当時のイスラエルが栄華を誇っていたことを示す象徴であったと言っても良いでしょう。その神殿がいよいよ奉献されようとしていたとき、王であるソロモンの祈りの一部が、今日のローズンゲンに示されているというわけです。
 
ソロモンは、自分自身の偉業であるといくら誇っても誇り切れないくらいの神殿に対して、決してそのことを誇ることのない、大変へりくだった態度をもって神へ祈りました。私などの人間によってつくられた神殿に、果たしてあなたはお住まいになられるのでしょうかとソロモンは祈ります。ここに、ソロモンのあくまで本質に帰ろうとする態度を見ることができるのです。どんなに立派な神殿であっても、その本質は神を礼拝することにあります。
 
私の卒業した神学校は、約15年ほど前に新しい礼拝堂を建設しました。とても豪華なつくりとなっている礼拝堂です。建設時はブライダル事業などにも使用することを想定してそのようになされたものですが、その後紆余曲折があって、しかし、その紆余曲折を通して、神学校が礼拝堂を持つことの意味というものを問わされてきたということを、昨日の神学校訪問で伺うことができました。礼拝堂は多岐にわたる用い方がされることに何の異論もありませんが、本質は「霊とまことをもって神を礼拝する空間」であり、そこで私たちが神と向かい合うドラマが展開されることが本質そのものなのだと。この本質なくしては、。単なる建物で終わってしまうのだと思わされたのでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスとサマリア人の女性との出会いのシーンから取られたものです。イエスは井戸にいたサマリア人の女性から水を求めます。それは女性にとっては意外なものでした。サマリア人はユダヤ人から「忌避すべき外国人」という扱いを受けていたからです。いわゆる排外的な扱いを受けていたサマリア人の女性が、排外的であるユダヤ人であるイエスからのアプローチがあったのですから。
 
しかし、イエスはその水を通して、この水こそ人間を活かす無くてはならないことを女性に伝えます。それは単に渇いた喉をいやすだけの役割にとどまらない、私たちの命を根本的にうるおす活ける水であるということを、イエスはこの女性に伝えたかった。それが父なる神を礼拝することなのだという、礼拝の本質に沿った目的そのものだったのです。
 
私たちはこのような礼拝を、今日も御言葉を通して神と向き合い、聖なる礼拝のひと時を持つことができるのだと私は受け取りました。たったひと言の聖句でも、私たち一人ひとりを活かす神の助けであることを心から受け入れつつ、神とともにある幸いを味わうことができますように。皆さんの一日のために、そして私自身のためにも祈りたいと思います。

14/07/2025

2025.7.14(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章28節
あなたが造った神々はどこにいるのか。
災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら
彼らが立ち上がればよい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章14節
私の愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日からウィークデイの日々が始まります。世の中で生きる毎日が、神が私たちとともにいてくださるがゆえに、充実したものとなりますように。心からお祈りします。東北・関東地方は台風が接近しているため、天候が荒れることが予想されています。そんなときに、今日は東京出張。トラブルがないことをただ祈るばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「あらためて偶像礼拝とはなにか」というものです。それは、単に像を拝まないとか、キリスト教以外の宗教的行事や習慣を忌避するといったことだけで、遇層礼拝を避けることにつながるのかという問題提起とともに、このことをつづってみたいと思います。
 
偶像礼拝とは、神以外のものに「心が引き寄せられる」ことであると私は考えています。それは行為だけを示すものではありません。行為というのはあくまでその結果論であって、もっと大切なのは「私たちの心がどこにあるのか」ということなのだと私は考えています。
 
ですから、この世の中で私たちが生きるに際して、神が私たちに与える価値観というものと異なる価値観がこの世の中に存在していて、では、私たちはあらゆる価値観のうちどれを大切にしていきたいかと問われた時に、その両立や兼ね合いの難しさを感じたとしても、それで困難さを覚えたとしても、最終的には神の与える価値観を選び取るのであれば、それは偶像礼拝を避けるということになるのだと私は思うのです。
 
たとえ、表面的な行為で「私はクリスチャンである」と称していても、心の中が神の価値観以外のものに囚われ、それによって生きようとするのであれば、その行為自体が表面的なもので終わってしまうということなのです。もちろん、それらのすべては決して無駄なものではありませんから、表面的なものであっても続けることでいつか自分自身の心が気付かされるならば、それはそれで大きな意味があるというものです。
 
ですから、私たちが偶像礼拝という言葉について考えるときに、このことを表面的なことだけにとどめてしまうようなとらえ方というものを、是非とも避けたいと私は思います。私の心が神の御心以外の何かに毒されていないだろうか。そうだとしたらそれはいったい何か。そのことをじっくりと検証することが大切なのです。その時に、私たちは神の言葉を頼りに神に聴き、祈りをもって神と対話することができるのです。聖霊の助けが私を包むときに、私自身に神が大きな気づきを与えてくださることを信じつつ、です。
 
偶像礼拝を避けなさいという言葉の本質が、今日も私たちひとりひとりに気づきを与え、神とともに生きる幸いを味わうことができますように。皆さんのために、そして私のために祈りたいと思います。

13/07/2025

2025.7.13(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書26章9節
私の魂は夜にあなたを慕い
私の中で霊があなたを捜し求めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章35節
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。それぞれの場所で朝の礼拝を終えたことと思います。私が働く仙台宮城野教会でも礼拝が終わって、メッセージ動画の編集も終えてアップロードを済ませ、ローズンゲンの言葉に触れたところでした。久しぶりに暑さが戻った、皆さんが帰られて静けさのなかにある礼拝堂でキーを叩いています。午後と夜のひと時に、神の守りと祝福が皆さんとともにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して私が聞きたいと思ったメッセージは「神は静けさのなかでその姿を現わされる」というものでした。そのことについてつづってみたいと思います。
 
私たちにとって神が現臨される、つまり私たちに分かるような仕方で現れ、神としての力を発揮してくださるということに対して、どのようなイメージというものを抱いているでしょうか。究極的には神は静けさの中にも、にぎわいの中にあっても、ご自分の姿というものを私たちにわかるような仕方で現わしてくださると私は受け止めています。ですから、どちらかしかないということは決してないのです。
 
ただ、私たちはどうしても動的なもの、にぎやかなもの、元気なものが分かりやすいという理解があるかもしれません。動いていない人よりも動いている人のほうが私たちの記憶に残りやすく、説得力や影響力もあったりするものなのです。しかし、そこに私たちが注目しすぎてしまうことは、神が静けさのなかにも現れる御方なのだという深い理解を欠落させ、失わせてしまうきらいがあるということを、決して忘れてしまってはならないのだと、今日の聖書の言葉から想わされた次第です。
 
夜中に魂が神を慕い求め、わが霊が神をその静けさのなかでじっくりと求めるということが、預言者イザヤの書に記されているように、私たちは誰にも妨げられることのない環境のなかで、神の言葉を介して神とじっくり向き合うことができるのです。いわゆる「デボーション」の営みとは、雑踏から離れた静けさのなかで神の現臨を肌身で感じ取り、神の言葉を我が霊に染み込ませるひと時なのだと。そう考えると、私などは礼拝堂のような空間を自宅に持っているわけですから、それはそれで本当に幸せなんだと思わされるのです。
 
イエスは朝早く、人々との出会いに先立って、ひとりしずかに祈りの時を持っていたことが、今日の新約聖書の言葉から読み取ることができます。イエスはそうでなかったとは思いますが、私たちが日々の生活のなかで感じる焦りやいら立ち、先行き見えない不安のなかでこそ、すべてをご存知である神との深い対話を楽しむことができるのだと。こうしてこの世の中で生きる冷静さというものを取り戻しながら、一日の持ち場へ神が遣わしてくださる。この時を大切にし続けてまいりたいと、今日の聖書の言葉から願わされた次第です。
 
この新しい一週間、私たちには何が待ち受けているのでしょうか。すべてを善へと導いてくださる御方の平安と祝福が、皆さんとともに、そして私自身とともにありますように。そのことを心より願いつつ、お祈りします。

12/07/2025

2025.7.12(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章8節
主はこう言われる。
私は恵みの時にあなたに応え
救いの日にあなたを助けた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章2節
今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さんおはようございます。
仙台の街は今日も涼しい朝を迎えました。今朝起きた際、久しぶりにすっきりとした目覚めを感じることができました。身体の疲れも睡眠でしっかり取れたのがとても嬉しく、明日のための準備が心地よく行えそうな気持ちで、今パソコンに向かい始めたところです。一週間も最終日を迎えました。どうか皆さんの一日も良き振り返りと備えのときとなりますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句はともに関連性のあるものであり、新約聖書・コリントの信徒への手紙二6章2節の前半部分には、今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書49章8節が引用されたうえで、パウロは自分自身の思いを後半部分でつづりました。それが今日のローズンゲンの新約聖書部分となっています。
 
このとき、パウロは自分が伝道者として働いているという事実の根拠について説明しています。コリント教会のなかには、そもそもパウロに伝道者としての資格に疑問を抱く人たちの存在がありました。パウロが伝道者としてふさわしくない。そのような批判でした。
 
私も経験のあることですが、私もかつて牧師としての資質を問われ、牧師を名乗る資格はあるのかということを言われたことが幾たびかありました。もちろん、私はそのようなことを問われると、その通りですとしか言いようのない自分自身があったことを思い出しますし、今ですら、伝道者としての資質にふさわしくない自分自身を発見することがしばしばあります。
 
私は人間が立派だから、このような仕事についているわけでは決してありません。私よりももっと素晴らしい資質を兼ね備えた方々が大勢いることを私はよく知っています。もちろん、より良い資質というものを身に付けたいという願いやあこがれはあります。しかし、それよりも大切にしたいのは、そのような資質というものはどこから来るものなのかということです。
 
自分自身のふさわしくなさというものがあるにもかかわらず、その自分を牧師として、伝道者として立ててくださったのは、ただ「神の恵み」によるものなのだと。神がその深い恩寵のなかで、神の力と助けによって今の務めをいただいているのだという自覚と認識こそ、私自身の傲慢を鎮め、自助努力だけでこの仕事はとうてい務まるものではないのだということを、いつも心に刻みながら、神から与えられた時を大切にし続けたいと思うのです。
 
もちろん、そう願いながらもたくさんの失敗を繰り返すことも、逃れきれない事実として残っています。だからこそ、神の恵みによる助けによって、神とともに働く者としてその務めを全うしたいと願わされます。それは牧師でなかったとしても、ひとりのクリスチャンとして歩むときに、是非大切にしたいものであることを思わされるし、それを大切に守り続けたいと思わされたのでした。
 
明日の主の日の備えの時が、そのような思いを確認し、温める一日でありますように。皆さんの一日にもそのような神の恵みがともに、豊かにありますように。心からお祈りします。

11/07/2025

2025.7.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編52節
主よ、あなたのいにしえよりの裁きを思い起こし
私は慰められました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章1節
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日に続いて、涼しい朝を迎えた仙台です。暑さが続いて疲れを覚えらているすべての方々に、神の守りを心からお祈りします。どうぞ引き続き健康が守られますように。そして、今日も神が与えてくださった言葉が、私たちのすべてにとって霊的な健康の源となりますようにとお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちに対して神は公正に取り扱われる」というものでした。そのことをつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は詩編の一節でした。そこには「神の裁き」という言葉が登場します。私たちは裁きと聞けば、どのような印象を持つでしょうか。一般的に裁きとは断罪をイメージすることが多いのではないでしょうか。もちろん、断罪は裁きのひとつの方向性であることに間違いありません。しかし、裁きは断罪だけを意味するのではありません。公正な判断によってすべての出来事が取り扱われることを意味します。
 
ですから神の裁きとは、神がご自分の公正さをもって世の中を取り扱われるということを意味するのです。たとえ目に見えないことが暗躍し、そのことで理不尽さを感じることがあったとしても、そのことで苦痛を味わうことがあったとしても、神はそのことをすべてご存知であり、そのことに基づいて私たち人間を公正に取り扱われるということなのです。
 
今日の詩編の言葉を歌ったダビデ王は、神の裁きゆえに慰められたという言葉を賛美しています。日々の生活のなかで経験するやるせなさ、どんなに誠意を尽くしてもわかってもらえない辛さ、自己保身ゆえにその犠牲となった人々が味わう悔しさ、それらを私たちの神はすべてご存知なうえで、私たちの誠意に応えてくださるというのです。
 
では、私たちの誠意とは何でしょうか。すべてをご存知である神の御前に誠実であるがゆえに神の思い願いを携えて生きようと心から願った時に、私たちは神の誠意を自分自身の生き方とすることができるのです。ですから、たとえこの世の中でつらい目に遭ったとしても、神の誠意が私たちを慰め、励まし、今日一日を神とともに、隣人とともに生きる力というものを与え、私たちを活かしてくださるということなのです。それゆえに、ダビデ王は大きな慰めを得たのでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、そのことを「住まい」という言葉を用いて比喩的にパウロが語ったものです。人間の思いは壊れやすく、ちょっとしたことで裏切りがあり、自分を守るためならば他をも犠牲とすることをいとわない態度が、ある意味で虚構をつくりあげることだってあるのです。しかし、神の公正に基づいた誠意によって建てられた神の国は、そのような虚構とは一線を画すものなのです。この永遠の住まいに、私たちひとりひとりが招かれているということこそ、神の裁きの結果なのです。繰り返して言いますが、この場合の裁きは断罪の結果ではなく、神が私たちを大切に取り扱ってくださるがゆえの結果であるものなのだということを、私たちは是非受け止めたい。私はそのように感じたのです。
 
今苦痛の渦中にいるならば、そのことを神は必ずや慰め、励まし、何が公正なのかを教え諭し、ときに思い誤りを矯正し、整えて、私たち一人ひとりを神とともにある喜びへと導いてくださいます。そのことを私たち一人ひとりが自分自身の希望とすることができますように。今日一日の神にある守りと平安が、私たちすべての心に届きますように。お祈りします。

10/07/2025

2025.7.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば(再掲です)

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
レビ記22章31節
私の戒めを守り行いなさい。私は主である。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章23節
私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、こんにちは。
朝に皆さんへお届けしたローズンゲン黙想ですが、私の大きなミスで、2週間前の木曜日(6月26日)のローズンゲンに示された聖句で黙想をしてしまいました。毎日読んでくださっている方からのご指摘があって、気づかされた次第です。このような失態をたびたびしてしまいますが、助けがあることに感謝しつつ、あらためて本日のローズンゲンに示された聖句を通して黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神である主の言葉を大切にする」です。とてもシンプルな言葉ですが、シンプルであればあるほど奥の深さを感じ取りたい。そこにこそ、神の言葉の味わい深さというものを見い出したいのです。
 
今日の午前中は、私が働く仙台宮城野教会の定例集会でした。去る日曜の礼拝で読まれた聖書の言葉をもう一度読み味わい、礼拝メッセージで扱いきれなかったことを解説して、その恵みを分かち合うひと時を持っています。先日の聖書メッセージはマタイによる福音書の「山上の説教」の一箇所だったのですが、ある参加者の方がおっしゃっておられたことがとても印象的でした。
 
「山上の説教は何度も読んでいる聖書箇所だし、どちらかというとうんうんと読んでしまうようなところだけど、『イエスの視点』からあらためて読み直すと、こんなにも味わい深いものとなるのですね」というコメントでした。
 
この世の中でまかり通っている価値観に合わせて、私たちは自分自身の文脈で聖書の言葉に触れます。それは当たり前のことなのですが、私たちはあらためて、この言葉を語られたイエスがどのような思いをもってこのような言葉を人々に向けて語られたのかというところに、自分自身の思いを寄せて考えたときにこそ、シンプルな言葉のなかにも実はとても味わい深いメッセージだったのだということに気付かされるのだと。この営みこそ、神の言葉を守る、つまり大切にすることが可能にさせられるのだと思うのです。
 
守るとは、何か規則を遵守することももちろん意味としてあるわけですが、機械的に守るだけでは、あまり意味がないと私は考えるのです。守るとは「大切にすること」なのだと。大切にする過程のなかには、私たちの心が問われていくのだと思うのです。私たちはよく「礼拝を守る」という言葉を用いることがありますが、私は「なぜ礼拝を『守る』のだろうか」とずっと思っていたのです。しかし、守るという言葉の根底にある「大切にする」という言葉に置き換えるならば、とても納得のいくものとなったのです。「礼拝を大切にする」。なるほど!と。
 
そして、神の言葉を大切にすることは、神の愛を大切にすることに相通ずるのだと。神の愛とは何かということに思いを寄せつつ、その意味を問いながら、自分自身の心に浸みこませようとしたときに、そこには大きな幸いがあることを心から望みたいのです。
 
私の間違いから今日二度も黙想をつづれたことを感謝しつつ、皆さんの一切に神の守りと祝福がありますように。心からお祈りします。

2025.7.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば(6月26日の日々の聖句でした!)

間違えて、6月25日のローズンゲンを掲載しまいました。
削除することも考えましたが、せっかくの黙想ですので、このまま残しておきます。
まことに失礼いたしました。


くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記4章10節
民を私のもとに集めなさい。私の言葉を聞かせよう。この地上で生きているかぎり、彼らは私を畏れることを学び、それを子らにも教えるだろう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二3章14~15節
あなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
幾分か涼しい朝を迎えました。暑さゆえに寝苦しさを感じておられる皆さんの健康が今日も守られますように、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の言葉を継承することの大切さ」というものでした。そのことを黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、出エジプトにおける長い旅路を終えようとしているイスラエルの民に対して、神が指導者モーセを通して語られた言葉です。これまでも神は事あるごとにそのことを伝え続けてきましたが、今ここで確認するように、再度モーセを通して民たちに語られました。これから約束の地にたどり着いて定住生活を始めようとするイスラエルの民たちに対して、何を大切にすべきなのかということを神はあらためて語られたのでした。
 
人間がこの地上で神から与えられた生を営むうえで、神に畏敬の念を抱くことこそが幸福への道であるということを、自分自身のみならず子へと継承させることが神の願いであり、この地に神の民が満ちあふれるという本来の目的にかなうことなのだということを、神は一貫して民たちに投げかけられました。神に対する畏敬は、決して強制的なものではありませんし、無理やりそうするようにと命じられているものでもありません。そうではなくて、神が人間を取り扱われる際に、つねに神御自身が人間をこよなく愛し、大切にしておられるというさまざまな出来事を通してこそ、人の心にあふれ出る思いこそが「畏敬」という言葉に集約されるのでしょう。
 
信仰の継承ということが叫ばれるのと同時に「二世問題」という言葉が、キリスト教会のなかにも広がっているような気がしてなりません。親が子に信仰を伝えるときに、どのような伝え方をするかということを、私たちは立ち止まって見つめ、ときに軌道修正をしなければならないこともあるでしょう。子をいらだたせることなく、神の姿を自分自身の生きる土台とすることができるようにアプローチできているだろうか?これは親が子に対するアプローチのみならず、教会という現場で神の御言葉を伝えることを務めとする私のような者にも突きつけられている課題なのだということを思わされるのです。
 
パウロの若き同労者であったテモテも、幼い頃から祖母ロイスと母エウニケの信仰的な影響を多分に受けつつ、その信仰を継承した人物です。それはとても良質のものであったことは、今日の新約聖書の言葉からも明らかです。その良い感化が現在のテモテの生き方を示していることを、この手紙の筆者であるパウロは喜んでいることが分かります。そして、この継承されたものこそ、テモテをひとりの伝道者として育む土台となっていることをあらためてパウロはテモテに示そうしており、この良いものにとどまり続けることの幸いについて述べているのです。
 
私たちは何をもって、良いものを次の世代を担う方々に継承することができるのだろうか。私も周囲からはまだ若いと言われても、もう来年50歳を迎える者となります。私が幼い頃、50歳と言えば決して若いとは思えない世代でした。このイメージは今の若い人が私のような者を見る時に感じるそれと同じだと思うのです。だからこそ、私自身も継承するという言葉が決して自分には関係のないものだというところから離れて、決して他者をいらだたせることなく、継承の担い手として畏敬に値する神の姿というものを生き方で表していきたいと思わされた次第です。
 
今日も皆さんにとって、そして自分にとって良い一日でありますように。神の守りと祝福をあらためてお祈りします。

09/07/2025

2025.7.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章28節
かつて、引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張る――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章11~12節
救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて、今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日も暑い一日となりました。今日は早朝から所用があったため、黙想をつづるのがこの時間帯になってしまいました。今は午前11時をまわったところです。これから気温がさらに上がると思いますが、どうぞ健康が守られますように。お祈りいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、これらの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちに再生の道を提供し、その道を私たちが歩むことができるように見守り続けてくださる」というものです。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉であるエレミヤ書31章は、バビロニア帝国によって荒廃を味わったイスラエルの民に、神が再生の約束をされるその言葉が収められています。荒れ果てたものが荒れ果てたままにはしておかれない。神は必ず荒廃から再生への道を備えてくださる、この象徴的な出来事が、預言者エレミヤの時代に起きました。
 
荒れ果てた地に人間の種と動物の種を蒔くと神は言われました。命の種こそ芽生えへの第一歩であり、私たちの命の与え主である神が、その命の尊さと喜びを原点から私たち一人ひとりに気付かせてくださるというのです。この気づきこそが、現代に生きる私たちにとっても、生きる道というものを模索するために無くてはならない大切なことであるということを、私たちはこの聖書の言葉から黙想したいのです。
 
私は神がいなくても生きていくことができるという人間の歴史のなかで、ある程度私たちの幸福は寄与できたとしても、誰かが必ず犠牲をともなうという負の遺産というものも決して忘れてはならないのだと思うのです。私たち人間が味わうべき幸福とは、自分ばかり幸せになってその影に割を食う人たちがあっては決してならないのだということです。誰もが幸福を味わうべきなのです。しかし、この世界がそのことを許さないのです。
 
だからこそ、私たちは神が備えてくださる再生と幸福の道を虚心坦懐の思いを抱いて、心から受け入れる者でありたい。そしてその道を闊歩したいと思わされたのでした。私たち人間だけでは成し得ないことをなしてくださる神の助けに感謝しつつ。
 
今日の残りの時にも、主がともなってくださいますように。皆さんのために、私自身のためにもお祈りいたします。

08/07/2025

2025.7.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書2章22節
神は奥義と秘義を啓示される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章25節
正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
毎日暑い日が続きますね。昨日は所用で東京へ出かけましたが、夕方に仙台へ戻っても、その暑さは変わることがありませんでした。いよいよ夏、と思いたいですが、まだ梅雨空があるとのことですので、じめじめした季節をもう少し過ごさなければなりません。いずれにせよ、健康が私たちのあいだで守られることを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖句ヲ通して黙想したいと思います。
 
神はご自分の深い御心をお持ちであり、それをこの世の中の常識ではなかなか受け入れられない形であっても、そのことを明らかにしてご自分の計画を果たされるのだ。今日の旧約聖書・新約聖書に示された両方の聖句が共通して私たちに伝えていることをあらためて知らされました。神は決して、その場の雰囲気や感情的なところに揺り動かされることなく、大局をもって私たちにご自分の思いを示しておられるのだということです。
 
今日の旧約聖書の言葉であるダニエル書では「奥義」と「秘儀」という言葉を使い分けています。どちらも似たような意味を持つ日本語ですが、微妙にニュアンスの違いというものを感じます。奥義という言葉は、「深妙」「深淵」という言葉でも翻訳されています。原語であるヘブライ語でも「深み」という意味で知られている言葉が用いられています。また「秘儀」とは文字通り、秘められたこと、隠されたことという意味を持っています。
 
私はここにふたつの意味が存在していると理解しました。第一に「神のお考えは深みをもっている」ということです。決して表層的なものではなく、味わい深さがあるということです。私たちは日々の生活のなかで、表面的なことだけに眼を向けていないだろうかという黙想が与えられました。物事を語る時には、私たち人間は断片的なこと、人が語った断定的な言葉に引きずられていないだろうかということを思わされるのです。それが独り歩きしてしまうばかり、本質を見失うことが私たちにあるとすれば、神が抱かれる深みに自分自身を投じこむことができなくなるし、神とともに生きるという味わい深さをどこかで忘れ去ってしまうのではないかと感じたのです。
 
また、神の思いは神の味わい深さを理解した時にこそ、その深みゆえに隠されたように見えるさまざまな出来事の真意というものをくみ取ることができるのだということです。神はその秘められたこと、隠されたことを必ず私たちが理解できるようなかたちで明らかにしてくださるというのです。イエスは十字架に架けられる前に神へ祈りをささげました。今、神の秘儀がイエスを通して明らかにされるときに、人々はその秘儀の味わい深さを理解できず、十字架にかけられた犯罪人としてでしかイエスを見ることができない。しかし、そこには多くの命のためにささげられた犠牲であるという大義があったのだということを、のちにイエスの弟子たちは知るに至りました。
 
大切なことは、世の中で、身の回りで起きていることに振り回されるより、神が私たちに与えようとしていることに、自分自身がいかに心を寄せて生きることができるだろうかということなのだと私は受け止めたいと思いました。そうすれば、神は必ずこの世界にある矛盾や不条理さに、理解の光を投じさせてくださるということを、私自身の生きる希望にしたいと思わされたのでした。
 
今日一日の生活に、神のそのような光が投じられることで、少しでも健やかな一日を過ごすことができますように。皆さんのために、そして私自身のために祈りをささげたいと思います。

07/07/2025

2025.7.7(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編136編23節
私たちが低くされていたとき
(主は)私たちを思い出し(てくださった)
(主の)慈しみはとこしえに(あるからだ)

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章19~20節
私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘義を知らせることができるように、私のために祈ってください。私はこの福音のための使者として鎖につながれてい(るからです)
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日の疲れを眠りで癒すことができました。少し遅めですが一日の開始です。すでに勤めに就かれている皆さん、それぞれの予定を過ごしている皆さんの予定が、神様の祝福のうちにありますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンの言葉を通して、私にとって今必要としている御言葉であったことを実感できました。何も神は私が今必要としていることに合わせてローズンゲンの言葉を与えているわけではありません。この言葉は2年前の5月にくじびきで決められたものですから。別にローズンゲンに予言能力があるわけでもありません。しかし、今日ここに立つ、そして生きる私へ確実に、この御言葉は生きる力を与えてくださっている、そう思わずにはいられなかったのです。
 
私は今、2年あまり続いているある出来事で、苦痛の足かせをはめながらその日々を過ごしています。状況が好転することがなかなか見えないなかで、普段は冷静に平静さを保ちながら生きようと思っても、ちょっとしたことで落胆してみたり、出口の見い出せない状態に恨み節が心のなかを駆け巡ってみたりと、気持ちがぐちゃぐちゃになることもしばしばあります。精神的にも、経済的にも大きなストレスがのしかかっている。まさに鎖につながれているような気分になるのです。
 
ここ数週間ほど、そのことでいろいろ動かなければなりませんでした。今日もそのことの関係で東京へ出かけなければなりません。そのたびに神へ問い続けます。神様、このことを通してあなたは私に何を教えようとしているのですかと。いつまでこの苦痛が続くのだろうかという不安のなかにあっても、私はそうやって神が何かを指し示してくださることをただ願い、祈り続けていくしかないのです。それが最高の道であることを経験上知っていますし、そのことで具体的に自分自身がしなければならないことが何であるかも整理されていくからです。
 
神が私に求められていることは下手な自己保身ではなく、偽り、他者が貶められても自分自身が何かを勝ち取ることでもなく、イエス・キリストがこの世界を救われるという福音の事実が真実として光り輝くべく、自分自身に与えられた使命をもって神の助けによって生きていくことなのだと。神のいつくしみは永遠なのだから、そこに希望を託して今日も生きて行こうと思ったのでした。今日の黙想でした。

06/07/2025

2025.7.6(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章7節
悪しき者はその道を捨て
不正な者は自らの思いを捨てよ。
主に立ち帰れ
そうすれば主は
寛大に赦してくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章20節
神の和解を受け入れなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日からローズンゲン黙想を再開します。御言葉を真ん中にして皆さんと交流できることを心より感謝しつつ、今後ともよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句のうち、新約聖書である第二コリント書の言葉は、和解という言葉の意味について、あらためて考えさせられるものとなりました。私がこれまで使用していた聖書は『聖書 新共同訳』ですが、それによると、今日の当該聖句についてはこのように訳されています。
 
新共同訳聖書  神と和解させていただきなさい。
 
しかし、この黙想で使用している聖書『聖書 聖書協会共同訳』、また新共同訳聖書よりも以前に翻訳された『聖書 口語訳』には、この聖句を以下のように翻訳しています。
 
聖書協会共同訳聖書  神の和解を受け入れなさい。
口語訳聖書      神の和解を受けなさい。
 
これらの違いは私たちにどのような印象を与えるでしょうか。和解する対象が神と私たち人間であることは分かるのですが、この関係が決してフラットなものではないことに気付かされます。つまり、和解しようとその手を差し伸べたのは私たち人間ではなく神の側にあったということです。
 
では、神は私たちに対して何か悪いことをしたのでしょうか。少なくとも聖書に示されている歴史は、私たち人間が「神無しでも生きていける」という願望のもとに、神から離れ、隔絶し、自分たちだけの世界をつくりあげようと試行錯誤し続けてきたものであることが分かります。しかし、それら人間による努力は究極的には徒労を得るものとなっている。これが現実なのです。
 
現に私たち人間のあいだですら、和解することのできない多くの差しさわりがあることを、私たち自身がよく知っているのではないでしょうか。誰が正しいか正しくないか、自分の正しさを主張するあまり、他人を容赦なく傷つけ自分を守ろうとしていないでしょうか。意識的無意志的にかかわらず、私たちはこのような生活をすることによって、和解という道を歩むことを徹底的に嫌ってしまうのです。ならば、どうして今日の聖句のように神と和解することができるのでしょうか。
 
しかし、そんな人間に対して神は、みずから和解の道を提示し、私たちに臨んでくださるというのです。顔に泥を塗ってそこから離れて行ったのは私たち人間であるにもかかわらずです。そのために、最愛の御子の命を私たちのために惜しみなく与え、そのうえ本来私たちから和解を申し出るべきところを、神の側から和解を申し出られた。まさにあっぺとっぺなのです。
 
その神が自ら差し出された和解を、イエス・キリストによる命の犠牲と復活の出来事をもって私たちが受け入れることがゆるされている。この和解を受け入れなさいということなのです。自分が悪くないのにその道を提示してくださる神が、今日も私たちとともにおられる。これこそ、私たちが安心して神に立ち返ることのできる根拠なのです。私たちの心のかたくなさをすべてご存知なうえで、神が私たちに臨んでくださる。ここにこそ私たちが日々を生きる慰めとなるのです。
 
今日も私たちに神の言葉が与えられていることに感謝しつつ、私たちもまた日々の出来事のなかで起きる和解の出来事に前向きな思いを神が与えてくださいますように。そのことを祈りつつ、一日を歩むことができますように。そして、私たちのあいだに神の和解を喜ぶことができますように。皆さんの、そして私自身の平安を心からお祈りします。

05/07/2025

ローズンゲン黙想に関するお知らせ


私の公式アカウントを登録してくださっている皆さまへ

こんにちは。齋藤篤です。暑い毎日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。ご健康が守られますようにお祈り申し上げます。

さて、しばらく「ローズンゲン黙想」をはじめ、皆さんにこちらからの発信をお届けすることができず、まことに申し訳ありませんでした。5月末から約ひと月半の間、公私ともに取り組まなければならない課題が山積してしまい、なかなか朝に夕に黙想の時間を取ることができませんでした。その間、こちらからそのことをお知らせすることもできず、ご心配の声もいただいておりましたが、今週一週間のあいだにそのことの整理もついて日常に戻りつつありますので、明日よりローズンゲン黙想を再開したいと思います。こちらは決して無理することなく、聖書を通して神との黙想の時を楽しみ、皆さまとその喜びを分かち合いたいと願っておりますので、今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。

どうぞ明日の主の日が皆さんにとって素敵な時となりますように。心よりお祈り申し上げます。

齋藤 篤(あっちゃん牧師)