くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編11節
天が地よりも高いように
主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章20~21節
しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
早いもので7月も最終日を迎えました。猛暑に見舞われたこのひと月でしたし、昨日はカムチャツカ半島の地震の影響で、津波への不安が私たちの思いをよぎる一日でした。私の住む仙台は14年前の震災で、津波に対してはいまだに私たちの心に傷跡を残していると私は感じています。私たちの不安をすべてご存知である神が、私たちの心と身体を見守り続けてくださいますようにと祈りつつ、朝を迎えました。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「私たちの努力を超越した神の慈愛」についてでした。そのことを黙想としてつづりたいと思います。
私たちの努力ではどうしようもないことがあります。ある程度の問題解決ができたとしても、究極的には解決しがたい問題があることを私たちはよく知っています。地震や津波などの自然災害に対しては、私たちは自然の脅威を目の前にしては、ある程度の予測や予防、対策ができたとしても、それを完全に無くすことはできません。不安が私たちを容赦なく襲うのです。
それは物理的なものにとどまりません。私たちの人間関係におけるさまざまな差し障りがあります。格差ゆえに苦しむことがあります。人の傍若無人な態度に辟易することもあります。それを私たちは不断の努力によって解決に向かおうとしても、100%差しさわりのない世界を実現することはどの時代でも不可能でしたし、どんなに科学技術が発展した現代においても、私たちの努力がすべてを解決することは、やはり難しいのだと思わされます。
今日の聖書の言葉は、私たちの努力に限界を感じたとしても、いや、限界を感じるからこそ、それを超越した神の力といつくしみが、神御自身の愛をともなって私たちのひとりひとりに豊かに臨み、また及ぶことを伝えるものであると私は受け止めました。私たちの想像をはるかに超えた神の助けが、神のいつくしみを受けて生きようとする人々に明らかに注がれるというのです。罪の増し加わるところにこそ、神の恵みがあふれるのだと、使徒パウロは手紙をつづりました。多くの差しさわりで落胆し、絶望することもあるでしょう。しかし、だからこそ見えてくるものがあるというのです。それが神の慈愛であるということです。
私も今月一か月間を振り返る時に、やはり落胆することもありましたし、己の限界というものを痛感させられる場面が幾たびもありました。だからと言ってそのことが私を前に進ませないわけではないのです。明らかに時が進み行くなかにあって、神が私の足取りを一歩、一歩進ませてくださるのです。私は神が道を歩むその力を与えてくださるからこそ、たとえ限界のなかにあったとしても、神のなさることに希望を託しておぼつかない歩みでも、確かに前進していることを感じ取りたいし、そのことを心から受け取りたいと願うのです。
今日の御言葉はそのことを感じることのできるものでした。このような御言葉が与えられたことに心から感謝しつつ、一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一切に、私たちの足取りを少しでも軽くし、ご自身の慈愛という力をもって歩ませてくださる神が祝福してくださいますように。心からお祈りします。
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