くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言7章2節
私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書19章20節
青年はイエスに言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さんおはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御心を『瞳』のように大切にする」ということでした。そのことをつづりたいと思います。
昨朝のことです。朝起きてしばらく経って、左眼に黒い筋が蜘蛛の子を散らしたように見えてきました。「もしや?」と思ったのもつかの間、左眼がどんどん見えなくなってしまいました。眼底出血を起こしてしまいました。出血した血液がものを見るのを邪魔させてしまうのです。
昨年11月に出血を起こして以来、眼科の治療を受けています。適切な治療の甲斐もあって、これ以上の進行をとどめることができているのですが、出血だけは起きてしまう可能性があるとのことで、出血した時にはそれが治まるのを待つしかないとのことでした。毛細血管を強くする薬を飲んで毎日を過ごしており、出血が徐々に収まると視界がどんどん良くなってきて、とても快適に過ごすのを実感していました。
今回は4回目の出血であり、かなり視界が晴れてきて喜んでいただけに、また振り出しに戻ってしまったことで、昨日は不便さとなかなか状況が改善しないことにいささか気落ちをしておりました。ただ右眼は問題なく見えていますので、そのことに感謝して今朝もパソコンに向かっている次第です。
そんな朝に開いたローズンゲンの言葉には「瞳」という文字が私の眼前にあったことで、今の自分自身の状況に照らし合わせてこの言葉を読むことができました。あらためて「見える」ということの大切さに思いを深く寄せることができたのです。それは単にものが見えるという物理的なことのみならず、見えることで自分自身の心情であるとか何を大切にしなければならないかということに対してじっくりと考えることができるという意味で、見えるということへの幸いというものを実感させられたのでした。
今日の旧約聖書の言葉を私は、神の掟、つまり神の私たちの御心に対して、物事の本質をとらえるように自分自身の見える力、つまり瞳を大切にし続けなさいという意味で受け止めました。文字面だけで守ったような気持ちになるのではなく、その本質をとらえ続けることの大切さというものを自分自身のなかで求め続けていきたい。そのように思ったのでした。
それに対応する今日の新約聖書の言葉は、律法の言葉をおそらく誠実に守り続けていた青年がイエスに言ったセリフが選ばれています。おそらく彼はまじめに律法の言葉を守り続けてきました。しかし、イエスにこの後言われた言葉に、青年は失望してイエスのもとを去ってしまいます。それは、青年にとってはあまりにもチャレンジングな、守ることの難しい勧めをイエスから受けたからでした。
神の掟を文字だけで守ることができやすい環境というものがあるかもしれません。しかし、神はその文字の奥にあるご自身の心を受け取って欲しい。そのように私たちに問いかけておられるのだと私は思えてならないのです。このことは決してたやすいことではないこともあります。しかし、神と心が通い合うことは、たとえその律法の言葉が実現困難なものであったとしても、だからこそ神の助けと支えを私たちが心から求める素晴らしい契機ともなるのではないか。そのように私は受け止めたいと思ったのでした。
神と心を通い合うことが、私の心の中にある瞳を大切に守り続けることのできる第一歩なのだと。そのことを胸に、今日も少しだけ不自由な生活を喜びつつ営みたいと思います。皆さんのなかに不自由なことがあるとすれば、それを支え導いてくださる神がともにおられることを、今日の一日を生きる柱とすることができますように。心からお祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿