くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編21編14節
主よ、力に満ちて、高くいませ。
私たちはあなたの力強い業を歌い
ほめ歌を歌おう。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37節
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さんおはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「神の力によって賛美する喜び」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
私たちは賛美をするときに、どのような思いをもって賛美を神にささげているでしょうか。私たちにとって賛美とは、その多くは「音楽」をともなったものであるというイメージがあるかと思いますし、事実その通りだと思います。しかし、私たちにとって音楽とはいったい何かということを考えたときに、音楽というものに対する私たちの意識というものが問われているような気がしてならないのです。クラシカルな聖歌や賛美歌もあるでしょう。現代的な音楽に合わせたプレイズやワーシップもあることでしょう。そして、私はこう思うのです。神の力によってなされる賛美は、いかなる種類のものであってもそれ自体が素晴らしいものであるということです。
私たちはこのことに神への敬意を抱きつつ、自分自身のものとしているでしょうか。それとも、自分の好みや音楽性というものに気を取られて、あらゆる賛美に差異をつけてそれらの賛美に良し悪しを判定するでしょうか。この問いに私たちの各人が真剣に問い直すことは本当に大切なことであると、私は強く感じ取りたいのです。
私たちの神へ向かう心の表明として賛美の歌を歌います。ですから、その賛美のかたちはいろいろあって良いのだと思います。しかし、それは「自分自身のおごり」を表明する危険性をもはらんでいるということを、私たちは神の御前にあって謙虚に受け取っていくならば、賛美というものが神の力によってなされることを実感できるに違いないのです。
文語がかもしだす響きの良さ、口語だからこそ分かる言葉の意味、心を慰め安心へと導く緩やかな音楽もあれば、心を鼓舞するようなビートでなされる賛美もあるでしょう。そのどれもが神への賛美であることに変わりはないわけだし、この賛美は私自身の音楽力や勇ましくあろうとする力の表明では決してないのです。あくまで神が私たちに生きる力を与えておられるからこそ、その力によって賛美ができるということを、私たちは是非心に刻み込みたいのです。
賛美をすることが、私たちの傲慢さを生むことではなく、賛美する喜びというものを分かち合える素晴らしいときとなりますように。そして、私たちとともにおられる神の栄光を心からほめたたえられる機会となりますように。この賛美が、私たちの一日を生きる神からの活力となりますように。そんなことを願いつつ、皆さんの主にある守りと祝福を心よりお祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿