19/07/2025

2025.7.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編62編2節
私の魂はただ神に向かって沈黙する。
私の救いは神から

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二1章6~7節
あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。
今週も最終日を迎えました。今日は午前を少しゆっくりと過ごしましたので、朝のうちに配信することができませんでしたが、午後の活動をするにあたって、ローズンゲンに示された聖書の言葉に聴いて、活動の源にしたいと思いました。皆さんにとっても午後のひと時が、神の守りと平安がともに豊かにありますことを、心からお祈りします。
 
私が今日示されたふたつの聖句から得たいと思ったのは「私たちがあえて復讐する必要はない」ということでした。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
昔「復讐するは我にあり」という小説があり、映画やテレビドラマ化されたのをお覚えの方もおられるかと思います。ある連続殺人犯を題材にした作品でしたが、このタイトルこそ新約聖書「ローマの信徒への手紙」の一節から取ったものであることもご存知かと思います。私たちの世界にある不条理を、神が必ず解決してくださる。だから、あえて私たちが憎しみをもって復讐する必要はないということを、私たちに思い起こさせる聖書の言葉に他なりません。
 
昨晩、私はあることについてずっと思いを巡らせていました。私のなかにあるやるせない思いについてです。人の憎しみや自己保身に巻き込まれたことを思い出していました。それは私にとってとても辛い出来事でしたが、そのことは今でも尾を引いているものであって、時々私の心を苦しめることがあります。そんな時に、どうすれば私の心はこのことに冷静に向き合うことができるのだろうか。そんなことを思い巡らせていたのです。
 
憎しみの感情をぶつけられることほど気持ちの悪いものはありません。もちろんそこに至る理由があるのですし、憎しみをぶつけたくなるような要因が私にもあることを思うと、私は決して悪くないとは言えないことも確かです。しかし、それにまつわる諸事には、あまりにも不条理で、納得がいかず、そのことを理解してもらえないということへの悔しさというものが自分自身を襲うことも、また偽らざる事実なのです。
 
そういう時に、私は叫びたくなることがあります。そして、そのような叫びや怒りの感情や憎しみをともないながら発せられることが往々にしてあるわけですが、しかし同時にこうも思うのです。そんな怒りや憎しみをぶつけたところで、そこに生産的なものは何も生み出せないのだと。憎しみに憎しみを返すことが、かえって後味の悪いものであることを散々経験してきたからです。
 
だからと言って、そのことを胸中でぐっとこらえていさえすれば良いのかと言えば、そんなはずもないのです。そんなことをしたらストレスがたまる一方であり、ゆがんだ感覚というものを助長させてしまうことになるのは目に見えるからです。だからこそ、すべてをご存知であり、最終的な決着をつけることができる神のなさることに、自分自身を委ねることができるのでしょう。
 
ただ黙して神に向かうという今日の旧約聖書の言葉は、私たちがたとえ物事を語ることがなくてもすべて神がご存知であるという安心感ゆえに起きる、私たちの姿勢を物語る聖書の言葉なのだと私は受け止めました。神は必ずこの状況に答えを与えてくださる。だからこそ、今自分自身にとって必要な言動というものが、健全に私の心身から表現されていくことを私は心から望みたいし、実践する者でありたいと心から願わされるのです。
 
それは決して復讐を神にすべてお任せするということでもありません。私たちの神が、私たちの人間世界に与えてくださる指し示しというものが、時には苦痛を明らかにし、私たちに安らぎを与え、本当の意味での平和というものに私たちを導いてくださることを心から期待しつつ、神にすべてを委ねながら、自分自身に与えられた持ち分というものを果たすことができるのだということなのだと思います。
 
そんな思いを抱きながら、この一週間に起きたいことをあらためて振り返りつつう、新しい一週間の始まりに備える者でありたいと思いました。皆さんの一切にも、そのような神の導きがともにありますように。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

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