18/07/2025

2025.7.18(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書59章12~13節
私たちの背きの罪はあなたの前に多く
自らの過ちを、私たちは知っている。
私たちは主に背いて欺いた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さんおはようございます。
新しい朝を迎えました。一週間の日々があっという間に過ぎていくのを実感させられます。私は今日、教区センターで2つの集会と会議が控えています。今日も出会うひとつひとつのことに心を寄せ、心を込めながら一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの出会うすべてのことに、神の守りと祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「罪」でした。そのことを中心に黙想をしたいと思います。
 
罪とはなんでしょうか。聖書で語られる罪とは、私たちをつくられた神の願いに背を向けることえであり、神がいなくても自分たちは独立独歩の道を歩むことで幸福になれるのだと私たちが望み、行動すること全般を指す言葉です。こうして人間は実際に幸福になれたのかというテーマが、私たち人間の歴史全体に問いかけられているのです。
 
神を除けても幸福になれると確信した人間の歩みは、ある程度の幸福に寄与したのかもしれません。しかし、それと同等に、いやそれ以上に私たちの生活にさまざまな「ゆがみ」というものを生じさせているのもまた事実であることは、人間の歴史が物語っていると私は思います。神を押しのけるということは、私たちが向き合う相手は人間しかいないのです。人間と人間が向き合おうとしたときに、必ずそこには支配・被支配の関係が生まれます。これが健全に働かないと、さまざまな支障が生じるのです。あらゆる経済格差、人種・民族差別、そしてそれを獲得するためにたびたび起こされる戦争、そして無用な犠牲。それらすべては、私たち人間の産物なのです。
 
いや、聖書にも神が戦争を起こさせているだろうという意見がありますし、それは聖書を通して語られていることを私たちは決して否定できません。確かにその通りなのです。しかし、そのような旧約聖書に記されている出来事は徐々に消え去り、私たちは救い主であるイエスが私たちのもとに来られてからは、人間同士の小競り合い、戦いによらない平和のスタイルというものを一貫して提示していることは、新約聖書を通して知ることができるのです。私たちはイエス・キリストが私たちに対して何を思い、何を願い、何をなされたかということを通して、神の本来の願いというものを知り、理解し、それを自分自身の生き方としたいのです。これこそが「神に背を向けない生き方」なのだと、私は強く受け止めたいのです。
 
とはいえ、私たちは物事を「完璧」に行うことはできません。もし私たちが完全無欠な存在であるならば、その時点で私たちは神の助けを必要としなくなります。つまり、自分自身が神として歩むということなのです。この勘違いこそがゆがみを生み続けてきたのですから、私たちは自分自身のありようというものを見つめ続け、また神との関係性というものを問い続けていくことは本当に必要な営みなのだと思うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神無しでも生きていけると思っていた、神とともに歩んでいると自称しながら、結局神の願いをそっちのけにしていた人々が自分の現実に気付かされて、悲惨な状況のなかで再び神とともに歩もうと決意したその思いがつづられた一文です。いわゆる「悔い改め」の言葉であるわけですが、ここにこそ、私たちのことを守ってくださる神が私たちとともにいてくださるという本来のかたちが回復することを意味しています。
 
その守りが今や、イエス・キリストが私たちのために与えてくださった「弁護者」、つまり聖霊の助けと導きが私たちの行く末を守り続けてくださるというのです。聖霊が私たちの思いにとどまり、軌道修正しながら私たちが歩むべき道を提示してくださるのです。今日の一日をもです。
 
そんな思いを胸にしつつ、今日の一日を神とともに歩むことができますように。そしてその向こうには、神が実現させてくださる平和を私たちが喜び、味わうことができますように。心からお祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿