くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書21章14節
私はあなたがたの業が結ぶ実に従って
あなたがたを罰する――主の仰せ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章14節
主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間を振り返る大切な一日として過ごしてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に誠実であること」です。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉には「罰する」という言葉が登場します。裁きという言葉が意味するひとつに「罰する」という判断があります。裁き=罰することではありません。裁きとは判断という意味がありますから、正当な判断のもとに、罰する場合もあればそうでない場合もあるのです。しかし、今日の旧約聖書の言葉で語られているのは「罰する」、つまり、その人が何を行ったかということに対する、神である主の判断があったということです。
この言葉が告げられたのは、都エルサレムのある南イスラエル王国(ユダ王国)の人々でした。神によって守られている、自分たちこそ神が選ばれた民という自負がこの国民にはありました。しかし、実際のところは神の思いや願いというものをないがしろにして、自分の願望に身を任せて行動していました。言行が一致していなかった民の姿がそこにはありました。
神との関係性において、神はご自分の正当な判断によって民たちにこのような言葉が語られました。その結果、ユダ王国の民たちはのちにバビロニア帝国の侵略に遭い、彼らは捕囚の民として祖国を去らなければなりませんでした。数十年にわたる辛苦を味わわなければならなかったのです。
しかし、神はいたずらに民たちを痛みつけるために裁きを執行されたわけではありませんでした。罰という出来事の先にあるのは、自分のしたことの重大さに気付き、そこから民たちがどのような生き方をするかというところに、神の本来の思いや願いがあったのです。最終的に神はこの民たちを祖国に戻して、この国は再興するにいたりました。そこには、民たちが神の御前に誠実になろうとした心があった。その心に神はご自分の正当な「裁き」を執行されたのでした。この場合の裁きは罰することとは対極にある判断によるものだったのです。
私たちは「神が罰する」という言葉に恐れ、おびえ、神が恐ろしい方であるという印象を抱くことはないでしょうか。確かに罰せられることは恐ろしいことなのです。誰も罰せられることを好む者はいないのです。しかし、神はご自分の判断というものを、あくまで人間が神とともに生きる幸いを味わい続けることができるように、常に働きかけてくださっているということなのです。そのことを私たちは忘れてはならないのだと私は思います。
今日の新約聖書の言葉は、イエスによるたとえ話にある一節です。長旅に出る主人が家来たちに自分の財産を預けました。ある者はその財産を運用してさらなる富を得ました。それに対する主人の言葉が今日の聖句です。
これは、家来の「実績」を評価したのではなく、あくまで家来が主人に対して誠実に仕えようとしたその心を、主人は高く評価したのでした。目に見える実績がもしふるわなくても、心が主人に対して誠実さをもって向いていれば、神の評価というものがいわゆる「罰する」方向にはいかなかったでしょう。この世の中の一般的な価値基準とは別な価値観が、神の正当な「裁き」にあふれているのです。
見た目の華々しさや実績ではなく、その心をしっかりと見ておられる神によって、私たちの生活は守られている。このことを思うだけでも大きな慰めと励ましを得るのだ。私はそのように今日の聖句を受け止めたいと思ったのです。このような思いをもって、今週の歩みを振り返って、明日の主の日への備えに向かいたいと思います。
皆さんの一日に、神の守りが豊かにありますように。お祈りします。
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