28/07/2025

2025.7.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章7節
あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章9節
天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も猛暑の一日となりそうです。どうか今日の一日もまた、神の守りに支えられて、その時を神とともに生きる幸いに包まれますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは「神の名を『利用』してはならない」ということでした。そのことを黙想としてつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを通して民たちに与えた「十戒」の一節です。神のお名前を「みだり」に唱えてはならない、というものです。そこで、私はあらためてふたつのことを振り返りたいと思いました。「神のお名前」と「みだり」という言葉についてです。
 
神のお名前は「主」という日本語に訳されていることが多いのですが、これは単に「あるじ」という意味だけを示しているわけではありません。結果的には私たちのあるじであることには間違いないのですが、神のお名前には「私はいる」という意味があることを、神は民たちに伝えられました。
 
私はいる。この言葉には「私は神である」「私はあなたがたとともにいる」「私はあなたがたの神となる」という、存在を表す動詞(英語でいうbe)のすべてを物語る意味を私たちに与えています。つまり、神は慈愛をこめてご自分に似せて造られた人間が、御自身と歩調を合わせて生きることを人間に期待し、それを求めておられる。その思いが「主(私はいる)」というお名前に集約されているのです。
 
そのことを踏まえると、そのお名前を受け止める私たちの態度がどのようなものであることが期待されているのかを、私たちはじっくりと考えることができるのです。そこで「みだりに唱えてはならない」という神の戒めというものを意識することができるのではないでしょうか。みだりにとは「勝手気ままなさま」「欲しいまま」という意味があります。つまり、神の期待を勝手に自分好みに解釈し、自分の思い通りにことを動かそうとする態度のことを「みだりに」と表現するのです。
 
私たちとともに神がいてくださるという言葉は、もし神が頼りになる力強く、また優しい方であることを知っていれば、それは私たちに安心感を与えます。しかし、その安心感は神と歩調を合わせることにおいてこそ成立するものであることを、私たちは決して忘れてはならないのです。守ってくれるから神の思いや願い、期待というものをないがしろにして自分好みの神を造り上げて、自分の願望通りに振舞うことは、結局のところ神のことを利用して、自分自身が神となることを示しているのと同じことなのです。
 
私たちにそのような思いがあるでしょうか。全くないということは絶対にないのです。私たちは、神の期待よりも自分自身の願望というものを無意識のうちに第一にしてしまう存在なのです。そこから逃れることは決してできないのです。だからこそ、私自身の言動というものがどこから発しているものなのかを、丁寧に検証することは本当に大切な私たちの営みに他なりません。
 
神の御言葉に聴いて祈るという営み。この地味な私たちの出来事は神の期待と自分自身の願望を照らし合わせることのできるただ一つの道なのです。自分自身の合わせ鏡として、神の御言葉に聴いていくのです。自分は絶対に大丈夫だという思いを捨てるのです。絶対なのは御言葉をもって私たちを導かれる神おひとりであることを、私たちは是非意識したいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、主の祈りの一節です。御名が聖なるものとされますように。神が私たちとともにいてくださるという神の思いを、私たちは自分自身がおごることなく、その意味というものを祈りをもって問い続けるのです。だからイエスは祈りの言葉として「神のお名前があがめられますように」ということを、冒頭に置いたのではないか。私はそう思えてならないのです。たとえ神の期待に十分に応えることができなかったとしても、その切なる思いさえあれば、神は必ずや祝福をもって私たちを守り導いてくださいます。そのことを胸に抱いて、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。
 
どうぞ皆さんの一日に、私たちともにおられる神の思いがしみわたり、神の思い願いによってその時を過ごすことができますように。お祈りします。

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