くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上6章27節
見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章23節
まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
昨日は、私の所属する日本基督教団の仕事で、ふたつの神学校を訪問しました。そのうちのひとつは私の母校だったのですが、今の神学校で展開されている神学教育の詳細を知ることができ、とても学ばされるひと時を持つことができました。神学校を卒業して20年が経ちますが、こうして神の国に向かって歩みを進めている働きを担っておられる先生方や、そのもとで学びを進めている学生の皆さんのために祈らなければならないことを心から想わされた次第です。私は神学生時代はろくに勉強をしなかったことを思い出しながら、しかし、神学校で得たひとつひとつの思い出はとても尊いものだったことを再確認することができて、本当に良かったです。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神を礼拝する真実」であると私は受け止めました。そのことを少しつづってみたいと思います。今日の旧約・新約の両方に記されているエピソードは、それぞれに興味深いことを私たちに知らせています。
今日の旧約聖書の箇所は、ダビデ王の時代から構想のあった神殿が、その息子であるソロモン王の時代に完成した時の話です。親子二代にわたる偉業を成し遂げたということは、それだけ当時のイスラエルが栄華を誇っていたことを示す象徴であったと言っても良いでしょう。その神殿がいよいよ奉献されようとしていたとき、王であるソロモンの祈りの一部が、今日のローズンゲンに示されているというわけです。
ソロモンは、自分自身の偉業であるといくら誇っても誇り切れないくらいの神殿に対して、決してそのことを誇ることのない、大変へりくだった態度をもって神へ祈りました。私などの人間によってつくられた神殿に、果たしてあなたはお住まいになられるのでしょうかとソロモンは祈ります。ここに、ソロモンのあくまで本質に帰ろうとする態度を見ることができるのです。どんなに立派な神殿であっても、その本質は神を礼拝することにあります。
私の卒業した神学校は、約15年ほど前に新しい礼拝堂を建設しました。とても豪華なつくりとなっている礼拝堂です。建設時はブライダル事業などにも使用することを想定してそのようになされたものですが、その後紆余曲折があって、しかし、その紆余曲折を通して、神学校が礼拝堂を持つことの意味というものを問わされてきたということを、昨日の神学校訪問で伺うことができました。礼拝堂は多岐にわたる用い方がされることに何の異論もありませんが、本質は「霊とまことをもって神を礼拝する空間」であり、そこで私たちが神と向かい合うドラマが展開されることが本質そのものなのだと。この本質なくしては、。単なる建物で終わってしまうのだと思わされたのでした。
今日の新約聖書の言葉は、イエスとサマリア人の女性との出会いのシーンから取られたものです。イエスは井戸にいたサマリア人の女性から水を求めます。それは女性にとっては意外なものでした。サマリア人はユダヤ人から「忌避すべき外国人」という扱いを受けていたからです。いわゆる排外的な扱いを受けていたサマリア人の女性が、排外的であるユダヤ人であるイエスからのアプローチがあったのですから。
しかし、イエスはその水を通して、この水こそ人間を活かす無くてはならないことを女性に伝えます。それは単に渇いた喉をいやすだけの役割にとどまらない、私たちの命を根本的にうるおす活ける水であるということを、イエスはこの女性に伝えたかった。それが父なる神を礼拝することなのだという、礼拝の本質に沿った目的そのものだったのです。
私たちはこのような礼拝を、今日も御言葉を通して神と向き合い、聖なる礼拝のひと時を持つことができるのだと私は受け取りました。たったひと言の聖句でも、私たち一人ひとりを活かす神の助けであることを心から受け入れつつ、神とともにある幸いを味わうことができますように。皆さんの一日のために、そして私自身のためにも祈りたいと思います。
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