くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編39編13節
主よ、私の祈りをお聞きください。
私の叫びに耳を傾けてください。
私の涙に黙していないでください。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書7章38,50節
ひとりの罪深い女がイエスの背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
今日も暑い一日が始まりました。皆さんそれぞれのご予定に、神の守りと祝福が、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「神は必ずその悲しみを分かっていてくださる」ということでした。そのことについてつづってみたいと思います。
今日の新約聖書の箇所は「罪深い女を赦す」という表題がついている物語の一節です。イエスが食卓に招かれたときの場面です。この町で「罪深い者」とされていたひとりの女性が登場します。この女性がどのような罪を抱えていたか、聖書は詳しいことを記してはいません。しかし、当時の世界で「罪深い」という言葉が、具体的には律法の言葉に著しく違反していた場合に、そのような言われ方がなされていたことは確かです。律法の言葉には神の思いや願いというものが込められていたと考えられていたからです。それは間違いのないことなのです。
そして、罪が赦されるためには、神殿で犠牲のささげものをすることも含めて、律法に記されていることを「遵守」することでそうなると考えられていたわけです。もちろん、律法を守ることは、その人の心がともなっているわけですが、ただ単にルールを守るという外面的な行動だけでとどまらない、その人の「心」というものが大切であることをイエスはこの女性とのやり取りを通して明らかにされたのでした。
女性は香油の入った壺を携え、自分の涙と髪の毛でイエスの足を拭って、香油をその足に塗るという行為をします。この行為は決して律法に記された規程ではありません。しかし、この行為は後のイエスの言葉からも分かるように、女性のイエスに対する「愛」に基づく敬意から起こされた行為であることが分かります。そしてイエスは、この女性が示された愛こそ、律法の中核にある本質であって、愛こそ罪が赦されるために無くてはならないものであることを、その場に居合わせた人々に告げたのでした。
女性はおそらく、自分が抱えた罪ゆえに自分自身を責め続けたのだろうと思います。しかし、人間社会のなかではなかなか許してもらえない。それがイコール神から赦されていないのだという思いへと発展したのかもしれません。人から責められ続けて生きるというのは、その人がその苦しさから解放されて、脱出しようという気持ちすら削いでしまうものであると私は思うのです。こんなに辛いことはないのです。
しかし、イエスはこの女性の心の奥にある慈愛を見抜かれました。だからこそ、この人が抱え続けていた罪の苦しみから解放されて癒されることを、「罪の赦しの宣言」というものを通して人々の前で明らかにされたのです。外面だけでは分からない行動の本質というものを大切にしようとしたイエスの思いというものゆえに、私たちは大きな慰めを得ることができるのです。こうして女性は自分の罪が赦されて、心の苦しみが癒されて、神とともに歩む人生の道筋が与えられたのでした。神はこの女性のことをちゃんと分かっていてくださったのです。
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデによる切なる懇願の祈りでした。私の思いに心を傾けてくださいという必死な祈りの言葉なのです。私たちの生活の中で、このような祈りを私たちは神に向けることがあるでしょうか。神は私の懇願に応えてくれないと感じることはあるでしょうか。私はあります。だから神に祈ります。しかし、神に祈ることができるのは、神は分かっていてくださるという希望が多分にあるからです。必ず神は道を備えてくださるのだ。その一心で、神に祈り続けたいのです。そして自分自身の心にあるものを確かめながら、神が与えてくださった愛というものを大切に守り続けていきたいのです。そんなことを、今日黙想することができました。
どうか今日の一日もまた、神の与えてくださる愛といつくしみに生かされる喜びにあふれる者とならせてくださいますように。皆さんの一日にも、そのような神の慈愛が豊かにありますように。お祈りします。
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