20/07/2025

2025.7.20(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書14章9節
主よ、あなたは私たちの中におられます。
私たちは御名によって呼ばれています。
私たちを見捨てないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録11章26節
このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間が始まりました。梅雨も明けて本格的な真夏も始まりました。この七日間の旅路もまた、神とともに生きる幸いを私たちが生活のあらゆる場面で楽しむことができますように。そして、その先駆けとなる今日の礼拝が祝福のうちにありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、すばり「神とともにある幸い」についてです。そのことをつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書は預言者エレミヤによる神への願いです。ここでエレミヤは神のお名前に言及しています。そのお名前が指し示すところの意味が「私たちとともにいてくださる」であることをエレミヤは知っておられるからこそ、私たちを見捨てないでくださいと神に祈ることができました。
 
神である「主」というお名前は、それが主人であるということ以上に「私はいる」という意味をもったお名前であるということです。私はいる。神は私たちとともにいてくださることで、私たちの神となってくださることを明らかにしています。ご自分が愛を込めてご自分の姿かたちに似せた存在としてつくられたのですから、神の側からすれば、そんな簡単に人間のことを見捨てるはずがないのです。
 
しかし、エレミヤがこのような祈りの言葉を神に向けている背景には、神が私たちを見捨てるというよりも、私たちが神を見捨てて歩んでいたことへの深いざんげの念が含まれていることを是非知りたいのです。見捨てられてもおかしくない私たちであるという極めて謙遜な姿勢が、エレミヤの心中にはあったのでしょう。イスラエルの民の現実をみたうえで、神にそのような願いの言葉を祈りにしたためたのでした。
 
この後、イスラエルの民は神を見捨てたことでさまざまな辛苦というものを味わいました。自分自身ではどうにも解決できない問題が彼らを襲ったのでした。しかし、神はそんな人間に憐れみを示してくださり、私たちのことを見捨てたりはなさらなかったのです。再びご自分の名に示された「神とともに生きる者」として、人間を祝福のうちに導かれたのでした。
 
その歴史的事実が、イエス・キリストの登場によってなお明らかにされました。キリスト(救い主)が、私たちの命を救い、私たちが心からそのことを望めば神は私たちとともにいてくださることが明確に、そして具体的なかたちで私たちに与えられたのでした。キリストの救いを自分の人生の中心に据える者。そういう意味で「キリスト者(クリスチャン)」という呼ばれ方が、パウロによる伝道旅行を通じて人々のあいだに知られるようになったのでした。
 
私たちが自分たちのことを「クリスチャン」であると自覚し、その言葉を使うときに、キリストとともに生きる自分自身であるということへの告白ともなるのです。この意識を大切にしたいと、私は今日の聖句を受け止めたいと思いました。
 
私はクリスチャン。そんなことを喜びをもって告白できる私たちでありますように。皆さんの、そして私自身のためにも祈りつつ。

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