17/07/2025

2025.7.17(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書17章14節
主よ、私を癒やしてください。
そうすれば私は癒やされます。
私を救ってください。
そうすれば私は救われます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書5章24~25節
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、体の麻痺した人に、「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さんおはようございます。
今日も暑い一日を迎えますが、どうか皆さんの健康が神である主によって守られますよう、心からお祈りします。私はこの黙想を書き終えたら、近くの中学高校礼拝へ行ってまいります。歳若い方々に御言葉をお届けできるのが本当に楽しみです。そして、帰宅後は午前に祈祷会、午後には家庭集会と訪問聖餐が控えています。今日も一日楽しみつつ主の御用に当たりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神に赦されること」についてです。そのことをつづってみたいと思います。
 
神に赦されるというのは、具体的には私たちが神無しでも生きていくことができるという確信のもと、隔絶されていた神との関係性が回復されるために、神が私たちに対して働きかけてくださった「大いなる譲歩」なのだと私は考えています。この譲歩なくしては、私たちは再び神のもとに帰ろうと思うことも無ければ、神とともに生きたいと願うことすら無かったでしょう。神は常にご自分の譲歩をもって、私たちに近づかれ、私たちに気付きを提供し、私たちが自分の判断と決断によって神の差し伸べられた手に、我が手を伸ばすことができるようにしてくださいました。これが究極的な「赦し」なのだと思うのです。
 
私たちには神がなされたような完全無欠の赦しを行うことはできません。ある程度の譲歩ができたとしても、神のような極めて一方的な赦しを提供することなど、本当に難しいことなのです。しかし、私たちは神がなされた赦しにひとつのモデルを見ます。神が差し伸べられた手に、私たちは自分の手を伸ばすことができる、ということです。
 
私たちは人間関係のなかで、許しを実行することを極めて困難にさせる多くの出来事があるのをよく知っています。私自身、なかなか許すことのできない相手がいます。しかし、許せないという気持ちを抱き続けることは、本当に労力のいることですし、疲労とストレスを抱えながら負のパワーというものに付き合わなければなりません。だから、私たちはこの「許せない感覚」から、少しでも解放されたいと心から願うはずなのです。
 
だからこそ、私たちには「赦される体験」が必要なのです。神の譲歩によって私たちが今生きているということを自分自身を確かめようとしたときに、そこには得も言われぬ安心感というものを手にすることができるのだと。この安心感こそ癒しの結果であり、救いへの道なのだと私は受け止めたいのです。
 
私たちは神の一方的な赦しを自分自身に応用することは難しいでしょう。しかし、神によって赦され、癒され、救われたという経験を持った者同士が、互いに譲歩しあうことは可能でしょう。ここに神のモデルというものに自分自身を沿わせながら生きることができるのだと。私はそういう生き方というものを今日の聖句を通して確認して歩みたいと願わされました。
 
どうか今日一日の歩みも、神がくださった譲歩ゆえに喜びを抱けるような時でありますように。皆さんの主にある守りと祝福を心よりお祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿