くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章28節
あなたが造った神々はどこにいるのか。
災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら
彼らが立ち上がればよい。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章14節
私の愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
今日からウィークデイの日々が始まります。世の中で生きる毎日が、神が私たちとともにいてくださるがゆえに、充実したものとなりますように。心からお祈りします。東北・関東地方は台風が接近しているため、天候が荒れることが予想されています。そんなときに、今日は東京出張。トラブルがないことをただ祈るばかりです。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「あらためて偶像礼拝とはなにか」というものです。それは、単に像を拝まないとか、キリスト教以外の宗教的行事や習慣を忌避するといったことだけで、遇層礼拝を避けることにつながるのかという問題提起とともに、このことをつづってみたいと思います。
偶像礼拝とは、神以外のものに「心が引き寄せられる」ことであると私は考えています。それは行為だけを示すものではありません。行為というのはあくまでその結果論であって、もっと大切なのは「私たちの心がどこにあるのか」ということなのだと私は考えています。
ですから、この世の中で私たちが生きるに際して、神が私たちに与える価値観というものと異なる価値観がこの世の中に存在していて、では、私たちはあらゆる価値観のうちどれを大切にしていきたいかと問われた時に、その両立や兼ね合いの難しさを感じたとしても、それで困難さを覚えたとしても、最終的には神の与える価値観を選び取るのであれば、それは偶像礼拝を避けるということになるのだと私は思うのです。
たとえ、表面的な行為で「私はクリスチャンである」と称していても、心の中が神の価値観以外のものに囚われ、それによって生きようとするのであれば、その行為自体が表面的なもので終わってしまうということなのです。もちろん、それらのすべては決して無駄なものではありませんから、表面的なものであっても続けることでいつか自分自身の心が気付かされるならば、それはそれで大きな意味があるというものです。
ですから、私たちが偶像礼拝という言葉について考えるときに、このことを表面的なことだけにとどめてしまうようなとらえ方というものを、是非とも避けたいと私は思います。私の心が神の御心以外の何かに毒されていないだろうか。そうだとしたらそれはいったい何か。そのことをじっくりと検証することが大切なのです。その時に、私たちは神の言葉を頼りに神に聴き、祈りをもって神と対話することができるのです。聖霊の助けが私を包むときに、私自身に神が大きな気づきを与えてくださることを信じつつ、です。
偶像礼拝を避けなさいという言葉の本質が、今日も私たちひとりひとりに気づきを与え、神とともに生きる幸いを味わうことができますように。皆さんのために、そして私のために祈りたいと思います。
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