25/07/2025

2025.7.25(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編44編2節
神よ、この耳で私たちは聞きました
先祖が私たちに語り伝えたことを
先祖の時代、いにしえの日々に
あなたのされた業について。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二4章3節
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も猛暑の一日が始まりました。雨ひとつないお天気のおかげで、土用干しをしていた梅干しもいい具合にしぼんできました。この後天日にさらして、仕上げていきたいと思います。楽しみです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「耳の用い方」についてです。そのことを黙想したいと思います。文字通りの耳もあれば、心の耳もあります。ですから、ここでは「私たちの聴覚」という意味も込めて、つづりたいと思います。
 
私たちは見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くということを、日常生活のなかでごくごく当たり前のように行っています。私自身もそうです。どんなことも全部目を凝らし、耳を傾けていたのでは、身がもたないことも正直言ってあるのです。そのことで聞かなければならないことまで聞けなくなってしまったら、それこそ健全な日々を過ごすことができなくなってしまうからです。
 
しかし、今日の聖句が言わんとしていることは基本的に違うものです。聞かなければならないことまで、自分のえり好みによって耳を閉ざすことがあるならば、それはかえって不健全であるということを、今日の聖句は私たちに示しているのではないかと思うのです。今日の新約聖書の言葉は、まさに私たちにそのことを伝えているのだと思います。
 
私たちにとって「おのれが願望すること(I want)」を聞くことよりも、「おのれが必要とすること(I need)」を聞く。一見すると似たようなことかもしれませんが、私たちが健全に生きていくうえで必要とすることは、必ずしも私たちの願望と一致するわけではありません。良薬口に苦しと言ったように、私たちには耳の痛いことでもそれが私自身の健全な成長に欠かせないこともまた真実なのだと私は思うのです。
 
しかし、私たちはその苦さを嫌います。進んでそれを聞こうとなどという奇特さが私たちにはなかなか芽生えて来ないのです。だから、耳障りの良いことを聞き続けようとする私たちの態度があります。なかなかそのことを謙虚な心をもって受け入れられない私自身の姿というものを発見してしまうのです。
 
しかし、その発見、つまり気づきこそ大切なのだということも思わされるのです。この気づきは、私たち人間に対して、神がどのように扱われてきたかということと連動するのだと私は今日の聖句を通して、あらためて気づかされました。神が私たちに救い主イエスを与えてまでその御声が届くように私たちに語りかけてくださったそのことを、私はどのように聴くことができるのだろうか。今日の聖句はそんなことを私自身に問い、促しているのだと受け止めたいのです。
 
今日の神とともに歩むことのできる一日が、そのような神の発せられる御声に耳と心を傾けて聴くことができますようにと祈ります。そして、皆さんとともに、神の善いものを受け入れることができますように。お祈りします。

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