07/12/2025

2025.12.7(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編146編8節
主はうずくまる人を立ち上がらせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章20節
よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。そして、主の御降誕を待ち望むアドヴェントも2回目の日曜を迎えました。世界中でおこなわれる主の日の礼拝や集会のすべてが、救い主を待ち望む喜びで満たされますように。主にある一日の平安を心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「悲しみが悲しみのままで終わることがない」というメッセージでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、詩編の一節です。詩編146編はその全体が「神である主ヤハウェを賛美する」というテーマのもとに、一貫してその思いが詩人によって歌われています。しかし、その賛美とは、私たちの苦しみや悲しみというものが背景にあって、そのような苦痛から逃れることのできない私たちの現実に目が向けられたうえで、神が与えてくださることに私たちの希望を寄せて生きることの幸いが賛美となるということについて歌われていることが分かります。
 
今日の聖句では「うずくまる人を」とあります。その場から歩き出すことのできない状態です。どう歩んでよいか分からないがゆえに、ただただうずくまるしかなくなってしまうのです。私は思いました。うずくまってしまう経験をです。ごくごく小さい出来事ではありますが、10数年ぶりに東京・渋谷駅の構内を歩くということが昔ありました。学生時代はよく使用していただけに、駅を迷わず歩くことに自信がありました。しかし、十数年のあいだに駅が整備されて出口や入口、通路自体が変わってしまっていたのです。前の知識はまったく役に立ちません。道案内をたどっても分からない。ついついその場にうずくまってしまいました。
 
自分の経験が邪魔したのでしょう。「こんなはずはない」という思いが強すぎて、かえって前を歩くことを難しくさせました。そんなときに、私たちは自分自身のなかでつくりあげられた限界を打ち破る必要があったのです。まずは自分自身の固定観念を捨てて、地図通りに、人に尋ねながら歩きだそうとした結果、無事に行きたいところへたどり着くことができました。
 
私は思ったのです。自分以外の何かに頼ることの大切さをです。これこそ、私を立ち上がらせてくださる神が、今日も私の命を保ち、歩ませてくださるのだと。たとえ苦しみにさいなむことがあろうとも、すべてをご存知である神がおられるがゆえの安心感が、悲しみから喜びへと変えてくださるのだ。その思いを胸にして、今日の一日を歩みたいと思わされたのです。
 
こうして私たちはアドベントの一日を過ごすことができるのです。皆さんにとってもこの一日が祝福に満たされた者でありますように!

05/12/2025

2025.12.5(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編85編8節
主よ、慈しみを私たちに示し
救いを与えてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章22節
救いはユダヤ人から来る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日も自宅でゆっくりと休んでいたため(午前中は教会の祈祷会に参加して、参加者の方々に祈っていただきました!)、昨日よりもなお体調が戻ってきた実感があります。ちなみに昨晩、現在お怪我をされておられる教会メンバーの方とお話をしていましたが、「今日の祈祷会でも祈りましたよ」とお話しましたら、その方から「祈りの力を感じます!」とのお返事をいただきました。とても心強い思いが、自分自身を内側から元気にされていくのを感じているとのことでした。神に見守られていることの幸いを噛みしめながら、今日も御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の聖書のことば、特に新約聖書の言葉は、決して「ユダヤ至上主義」を謳ったものではないということを、最初に申し上げたいと思います。言葉というものは時に恐ろしい力を発揮することがあります。あるフレーズを「切り取る」ことによって、その文脈を無視した言葉の意味というものを利用することができるからです。今日の新約聖書の言葉などは、私たち人間の救いというものがユダヤ(イスラエル)から来る、などと聞けば、現在世界の話題となっているイスラエルによる武力行使を正当化するような言葉にも聞こえてくると思うのは、私だけでしょうか。
 
イエスがこの言葉を語られたのは、いわゆる「サマリア人の女」に対してでした。サマリア人はユダヤ人にとって忌避されていた存在でした。そのような存在であった人物に対して、イエスは「救いはユダヤ人から来る」と仰せられました。しかし、その意図は、決してユダヤ人をサマリア人に勝ったものとして言いたいのではありませんでした。むしろ逆であり、サマリア人に神の救いが豊かに臨むことを示すイエスの意図が大いに含まれていたことを示すひと言だったのです。
 
サマリア人の女は、この会話に続いて、霊と真理をもって父なる神を礼拝する時が来たことを実感します。そして、目の前におられるイエスこそ、私にとっての救い主であることを確信するにいたりました。そこにはユダヤ人であるイエスに対する、民族的優劣のようなものは何も見い出せません。ただ、神の御子であるイエスを何の妨げもなく受け入れる一瞬があったことを私たちに思い起こさせるのです。
 
私たちは見えるところで、人と人とを分け隔てます。優劣を定めて格差を決め、他者に対してゆがんだ見方をしてしまう存在なのです。しかし、神の目から見たら、そんなことは甚だくだらないことで、私たちはそういう些細なところで一喜一憂してははしゃいでみたり落ち込んでみたりするような哀れな存在なのだと思うのです。
 
しかし、そんな私たちに神は憐れみを示してくださいました。イエスという救い主を与えてくださることによってです。私たちの哀れな姿から少しでも逃れることができるように、そして、ゆがんだ見方から私たちを解放させるために、イエスは私たちのもとに来てくださいました。そのイエスが今日も、私たちとともに生き、そして働いてくださる。本当に感謝なのです。このイエスとともに歩みたい。そんな思いに導かれたことは言うまでもありません。
 
今日の皆さんの大切な一日が、そのような神の憐れみにしっかり守られながら歩むときでありますように。お祈りします。

04/12/2025

2025.12.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記31章13節
まだ知らない子どもたちが律法の言葉を聞いて学び、あなたがたの神、主を畏れるようになるためである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章4節
父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
一昨日に無事に帰国してまいりましたが、風邪の具合が思わしくなく、二日間床に臥せておりました。しかし、しっかりと休んだおかげで、体調もかなり回復してきました。朝の目覚めも良くなりましたので、黙想を再開したいと思います。ここのところ休み勝ちで申し訳ありません。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「子は親の背中を見て育つ」ということでした。それについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトからの脱出ののちに40年もの長い間にわたって約束の地に向かってさまよい歩いたイスラエルの民たちを指導したモーセによる遺言の一節です。これから時代を担うこどもたちのために、おとなである一人ひとりがしなければならないことについてモーセは告げました。それは「律法の朗読」でした。
 
律法の朗読。それは「神の言葉が語られること、そして聴かれること」でした。神の言葉が人々の心のなかにしみわたるように、その言葉が明らかにされることは人々が生きるためには無くてならないものであることを、モーセは神の御心として語ったのでした。
 
ここで重要なのは、神の言葉が語られるときに、それは「聴く」ためのものである、ということです。「聞こえる」のではなく「聴く」のです。心を込めて神の御声に耳と心を傾けながら、自分自身に語られた言葉として、じっくりと心のうちにしみわたらせるのです。なぜでしょうか。その言葉が私たちの日々を豊かにさせるために無くてはならないものだからです。少なくともモーセはそのような思いで、この勧めを民たちに語ったのでした。
 
そして、もうひとつ理由があります。それは「こどもたちに自分自身の『背中』を見せるため」でした。つまり、律法の言葉によって生かされる姿、それは人の模範として生きるというよりは、神が一緒にいてくださるから自分自身がどんな時にあっても生きていくことができるのだという安心感に満ちあふれた姿が背中ににじみ出るときに、それはこどもたちの人間形成にも大きく影響するのだ、ということなのだと私は受け止めました。
 
どんなに口で律法の言葉を子供に伝えたとて、その言葉がその人の生きる姿から醸し出されていないのであれば、その言葉ほど空しいものはないでしょう。今日の新約聖書の言葉にもある通り、こどもをいらだたせるのは、そのような親の態度に起因することだってあるのです。だからこそ、キリストの言動に倣う者でありなさいと手紙に勧められているのです。
 
繰り返しますが、それは「完璧でありなさい」という意味では決してありません。神によって生かされているということへの実感が私たちの内からあふれ出るときに、それが他者にも多分に影響されるということなのです。そんな思いを胸にして、今日も神の言葉に聴く者でありたい。そんなことを受け止めたいと思いました。
 
皆さんの今日の一日が、そのような実感を喜べる時でありますように。お祈りします。

01/12/2025

2025.12.1(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編43編3節
あなたの光とまことを遣わしてください。
それらは私を導き
聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章29~32節
シメオンは言った。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 私はこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民の前に備えられた救いで
 異邦人を照らす啓示の光
 あなたの民イスラエルの栄光です。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けできまでした。申し訳ありませんでした。一週間にわたる台湾出張も今日が最終日です。お昼前にホテルに出て空港に向かいます。昨日より風邪をひいてしまったようですが、最後まで健康が守られて感謝でした。お祈りくださった皆さまへ、心から感謝します。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の御業を待つことの幸い」というものでした。救い主イエス・キリストの御降誕を祝う待降節(アドヴェント)らしい聖句が選ばれたと思いました。そして、今日は新約聖書・ルカ福音書2章に収められている老人シメオンの言葉から、神の御声に耳と心を高向けたいと思いました。
 
救い主イエスの先駆者として与えられた、のちに洗礼者ヨハネとなる赤ちゃんの誕生は、このことを神によって約束されていたシメオンにとって大きな喜びであったに違いありません。。
 
神に決して見捨てられているわけではありませんでした。神にはその人たちにとって明らかな「ベストタイミング」というものをお持ちだったのです。そのことを私たち人間は知りません。だから疑います。迷います。惑うのです。神は必ず私たちが神によって祝福されているその瞬間を、きちんと準備してくださっているのです。シメオンの賛美の祈りは、そのことを明らかにするものなのです。
 
私たちにとってのアドヴェントが、まさにそのようなことに思い巡らせるような時となりますように。今日一日の主にある平安と祝福を心からお祈りします。