31/12/2025

2025.12.31(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編147編14節
主はあなたの領土に平和をもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章9節
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
いよいよ2025年も最終日を迎えました。最後をしめくくる一日を振り返りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思いますが、私自身も今年はいろいろと変化があるなかにあっても、こうして最終日まで信仰と健康が守られ続けてきたことに、ただ感謝する一年だったと思っています。もちろんやり残したこと、積み残したこともいろいろあるのですが、それらは来年へ持ち越しつつ、年越しを迎えたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「平和」という共通するキーワードについて考えてみたいと思いました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書である詩編147編の聖句に注目したいと思います。ここで「領土」と訳されている言葉ですが(ヘブライ語原語:ゲブール)、長く日本語聖書では「国境・地境」と訳されてきた言葉です。ドイツ語聖書でもそのように訳されています。つまり境界線を表す言葉が「領土」と訳されていることに、大きな興味を覚えました。
 
実際に辞書で調べてみると、もともとこのゲブールというヘブライ語は「よじれたひも」という意味の言葉なのだそうです。そこから境界線を表す言葉として用いられるようになり、その境界線を囲むエリア、つまり領土と解されるようにもなったようです。
 
つまり、境界線が平和であれば、その領土そのものも平和となるというひとつの示唆を、今日の詩編の言葉は私たちに教えてくれているのだと私は受け止めることができました。このことを踏まえて、領土を「私」という言葉に置き換えて考えてみるならば、こんな風にとらえることができるのではないかとも思えるのです。
 
つまり、「あなたと私のあいだにおける平和」は「私自身の平和」そのものであると。つまり、私が平和になるのであれば、私自身の平和だけでは駄目なのだと。他者と私との関係性が平和であるならば、私自身も、あなた自身も平和となる。ごくごく当たり前のことなのでしょうが、このことを改めて思うことの大切さというものを実感させられるのです。
 
私だけが平和であれば良いという考えは、究極的に平和では無いのでしょう。自分さえ良ければ良いという感覚は、かならず人間社会にゆがみを生む原因となります。2025年もなおも続く戦争をはじめとする私たち一人ひとりの人間関係にいたるまで、どれだけ私たちは平和を愛し、またそれを構築しようとしてきたか。こういうことをじっくりと振り返りたいのです。
 
だからこそ、境界線を見つめようではないか。今日の詩編の聖句はそのことを私たちに示すものなのだと思うのです。境界線における平和は、結果的に私たち自身の平和につながるのだと。そしてその平和は神である主ご自身のものであるということを心から信じて、お互いが神の与えられる平和を愛し、それを希求し、そのことを実践していく。だからこそ、イエスは「平和を『造る』人々は、幸いである」と、「造る」という私たちの責任を明らかにし、しかも造るための源として、そのような人々が「神の子」と呼ばれると告げられることによって、神を源とする私たちの平和という言葉を強調されたのでしょう。それが、今日の新約聖書の言葉が言わんとしていることなのだと、私は心から受け入れつつ、2026年へとつなぐ一日としたいと思わされたのでした。
 
皆さんの大晦日もまた、来年へ希望をつなぐにふさわしく、平和に満たされた一日となることができますように。神である主にある平和を心からお祈りします。今年一年も大変お世話になりました。また来年もどうぞよろしくお願いいたします。

30/12/2025

2025.12.30(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章17節
主はモーセに言われた。「あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章19節
神の堅固な土台は揺るぎません。そこには、こう刻まれています。「主はご自分の者たちを知っておられる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今年も残すところあと2日となりました。年末への慌ただしいラストスパートの時を過ごしておられると思いますし、すでに大型連休のなかで長旅を楽しんでおられる方もおられるかと思います。私も今日と明日の2日間、妻の実家を訪ねて、ひと時の休暇を楽しみたいと思います。皆さんの今日の予定もまた、神が与えてくださる祝福のうちにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の堅固な土台」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
この言葉は、新約聖書・テモテへの手紙のなかに書かれた一節です。この手紙を書いたとされるパウロは、歳若い同労者であるテモテに対して「神の堅固な土台」が確かにあることを手紙にしたため、そして伝えました。では、その堅固な土台とはいったい何なのでしょうか。
 
私はこの土台を「神による人間への深い信頼」と受け止めました。この信頼が土台にあるからこそ、人間が有史以来いくたびも神を裏切り続けても、それでもなお神が私たち人間を深く愛し、命の救い主までお与えくださったのだというのが、聖書全体を通して語られる最も大切なメッセージなのだと私は受け止めたいのです。
 
信頼は「知る(理解する)」ということによって、さらに明らかにされます。私たちのことをその細かい部分まで理解してくださる方がおられる。これこそ私たちの神であるというのです。知られている、理解されているというのは、私たちに安心感を生みます。「私のことを分かってくださっている」ということは、親が子のことを想うように、深い信頼の土台の上にあって、私たち一人ひとりを生かす絶対不可欠なものとなります。私たちはこうして支えられているのです。
 
私たちは、神による私たちへの信頼がなければ、神を信じることはできません。神が信頼してくださっているからこそ、その神の信頼に心から応えたいという、きわめて自発的な思いを生むのです。何かに強制されるわけでもなく、あくまで自分自身の感謝の応答として、神とともに歩むという道を選び取っていく。ここにこそ幸いが存在するのです。
 
今日の旧約聖書は、神である主がモーセに語られたシーンです。まさに「神のモーセ、またモーセが率いるご自分の民への信頼」そのものです。しかし、この言葉が神によって語られた時、イスラエルの民にとっては長い長い、40年にわたる流浪の旅が待ち受けていました。そんななかでこの旅をやがて終えることができたのは、どんなことがあっても揺るがない「神による人間への信頼」だったのです。
 
2025年を振り返り、2026年へと歩む私たちが、信頼について今一度振り返り、考えることができますように。

28/12/2025

2025.12.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編133編1,3節
都に上る歌。ダビデの詩。
兄弟が共に住むことは
何という幸せ、何という麗しさ。
主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章14節
「いと高き所には栄光、神にあれ
地には平和、御心に適う人にあれ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は2025年最後の日曜日。世界中で行われる主の日の礼拝が、クリスマスの余韻のなかで祝福に満ちあふれたものでありますようお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「平和な世界」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、クリスマスを代表する聖句と言ってよいものです。あの闇夜に羊飼いたちに対して天使が告げたあの言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というものですが、神が私たちにどのような平和を望んでおられるのかということが明確に告げられています。
 
まず、神は「平和」をご自分のものとされ、その平和を愛しておられること。そして、ご自分が造られたこの世界に対して、ご自分の平和が満ちあふれるのを望んでおられること。そして、その平和は「御心に適う」、つまり、神である主の思いや願いを積極的に受け入れ、自分自身の生き方にしようとする人こそ「御心に適う人」であるのだ。そういう人たちにこそ、ご自身の平和が豊かに臨むことを、天使は救い主イエスの誕生とともに告げたのでした。
 
つまり、私たちが本当に平和を心から願い、それを望むのであれば、救い主イエスの生き方に示された平和への姿勢というものを、いかに自分自身の生き方とすることができるのかということにかかっているのだ思わされます。家庭だろうと、地域社会だろうと、教会であろうと、私たちは人と人が集まる共同体のなかで、そのことを誠実に希求し、実践する者でありたいのです。
 
神がどんなにそのことを望んだとしても、私たちがその願いに応えることがなければ、どんなに平和、平和と叫んでも平和が訪れてくることはないのです。そのことを私たちは自分自身の生活のなかでどのように自分自身への課題とすることができるか。クリスマスの晩に語られた言葉は、私たちへの深い示唆というものを与えるものだったのです。
 
私たちが他者と出会うとき、そこにそこはなとない平和を感じ取ることができるのであれば、そこには神が私たちの真ん中に立ち、私たち一人ひとりをご自身の御心をもって導いておられることを、私たちが受け入れているからなのでしょう。そんな思いを抱きつつ、2025年を締めくくりたいと願わされた次第です。
 
私たちの誰にも、神である主の平和が豊かに満ちあふれることを信じ、実践する者でありますように。心よりお祈りします。

27/12/2025

2025.12.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編71編16節
わが主よ、私はあなたの力によって進みます。
主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章24節
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
2025年も残すところあと5日となりました。そして、明日は今年最後の日曜です。礼拝への良き備えができるよう、今日の一日を大切に過ごしてまいりたいと心から願います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「神の力」です。この言葉について黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書であるコリントの信徒への手紙一1章24節に記されている「神の力」ですが、 
原語であるギリシア語には「デュナミス」という言葉が用いられています。日本語で力と訳すことのできるものですが、この言葉には「潜在力」のような、目には見えないけれど秘められたものとしての力という意味も含まれているのはとても興味深いところです。
 
デュナミスは「ダイナマイト」の語源となった言葉でもあります。見た目には小さなダイナマイトでも、そこから爆発する力は想像を絶するものがあることを私たちはよく知っています。私は神の力というものは、時としてそういう姿を私たちに見せているのではないかと思うのです。神の助けとか力というものが、今の私には何の役に立たない脆弱なものに見えることが私たちにはないでしょうか。とても頼りないのです。神ならばもっと大きな力を見せてほしい。そんなことを私たちはたびたび思うのではないでしょうか。
 
しかし、たとえ目には見えなくても、実際にものすごい腕力を見せることが無かったとしても、私たちはしっかりと支えられているという安心感へと導かれることだってあるのです。コリントへの手紙を書いた使徒パウロは、この神の力こそキリストに現れたのだということを手紙につづっているのです。
 
私たちはクリスマスの時に、赤子のかたちでお生まれになったキリストを見ています。赤子には何の力もないかもしれません。しかし、新しい命の芽生えに私たちは癒され、慰められ、勇気づけられることだってあるのです。そしてこの赤子はやがて、私たちのために力となってくださいました。しかしその姿は、十字架という「弱さの象徴」のなかで見せつけられた神の力に他なりません。しかし、見た目の弱さこそ揺るぎない救いという力となったことは、言うまでもない事実となって私たちに継承されたのでした。
 
そこにこそ、神の力の用い方の正しさ(正義)があり、この正義に導かれて私たちもまた、神の力をいただいて、神とともに歩むことができるのです。今日の旧約聖書である詩編のことばが言わんとしていることです。
 
この神の力によって、今日の一日を過ごすことができますように。主が皆さんを平和へと導き祝してくださいますように。お祈りします。

25/12/2025

2025.12.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌5章21節
主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。
私たちは立ち帰りたいのです。
私たちの日々を新たにし
昔のようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章11節
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、救い主イエス・キリストの御降誕を喜ぶクリスマスを迎えることができました。クリスマスおめでとうございます! 皆さんの一切に、クリスマスの喜びがともにあり、神が与えてくださる平安と祝福が豊かにありますように!
 
日本はこれから「正月」に向けて世の中があわただしく動きますが、私がドイツに住んでいた頃は、クリスマスイヴが大晦日の夜のような雰囲気であり、イヴ礼拝が初詣のようであり(いつも教会に行かない方々もこの礼拝には多くいらっしゃいます)、その後の2日間は世の中が休日モードになって、それはまさに「三が日」のような雰囲気でした。それだけクリスマスというのが大切な節目のときであり、「新たに更新される機会」なのだと思わされたのを思い出します。
 
そんなことを想いつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れますと、救い主イエスがお生まれになるというのは、この世界に対する神がなされた転換の機会であり、すべてのものを新しくする更新の時だったのだと思わされるのです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は「哀歌」の一節でした。その文字のとおり「哀しみの歌」なのです。なにゆえの哀しみだったのでしょうか。神との隔絶を味わったがゆえの孤独が、神の民を哀しみへと追いやったのでした。神は私たちとともにいてくださる。神がどんなときでも私たちを守ってくださる。間違いないことです。しかし、神の民たちはその安心感ゆえに、神とともに歩み、生きるという肝心なことを忘れてしまったのです。
 
ですから、彼らの安心感は彼らの気づかない間に「慢心」へと変化してしまいました。その慢心はやがて、自覚のないままに神から離れてしまう経験へと彼らを動かしました。神と隔絶する道を彼らは選び取ってしまいます。まさか自分たちがそうであろうと気づくことのないままにです。そして、そんな彼らに災いが臨みました。神はその時に守ってくださることはありませんでした。彼らの孤独はまさに自業自得の結果でした。
 
彼らの孤独が神のせいではなく、自分たちのこれまでの行いゆえであることを知った民たちは、隔絶された神との関係を回復したいと心から願うようになった。そんな民たちの思いが、今日の哀歌の一節によく表れています。神のもとに立ち帰り、新たな日々を歩みたい。彼らが臨んだのはまさに「自分自身が更新されること」でした。
 
あの闇夜に光輝く天使の大軍があり、そこから聞こえる歌声と宣告。羊飼いたちが見聞きしたその光景はまさに、哀歌に込められた切なる人間の願いに対する神が出された答えでした。あなたがたがそう望むのであれば、私はあなたがたを孤独には決してさせない。あなたがたの日々を更新されるように、世界の救い主をあなたがたに与える。私たちが「神とつながりたい」という思いに、神は間違いなく応えてくださっていることに私たちは改めて気づかされる。クリスマスとはそういう更新の機会なのだということを、私は今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのです。
 
どうか今日の一日が、年末の忙しいなかにあっても良き更新のひとときとなりますように。心からお祈りします。

24/12/2025

2025.12.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編15節
正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 いよいよ今晩からクリスマスが始まります。最近、クリスマスが「非聖書的だ」という方々のご意見がSNSで散見されることがあります。確かに非聖書的と言えば、そのように言える節も無いわけではありません。しかし、世界の救い主の御誕生を心から待ち望んでいた人たちによって、主イエスの誕生を祝い、クリスマスという「文化」が形成されたことは、たとえ非聖書的と言われようとも、極めて「福音的である」と言えるのだと私は思います。そんな思いをもって、クリスマスに臨みたいと思います。今晩7時より、私の働く仙台宮城野教会でもクリスマスイヴ礼拝をおこないます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに救い主イエスの誕生が私たちに何をもたらしたのかということについて、実にストレートに表現されていると私は受け止めることができました。では、その「何」とはなんでしょうか。それは、今日の旧約聖書の言葉にもありますように「正義」と「公正」、「慈しみ」と「まこと」に他なりません。
 
神が私たちにもたらした正義は、私たち人間を愛するがゆえに、最愛の我が子を私たちのために贈り、その贈り物を私たちのために犠牲にしてしまうほどの、きわめて独り善がりなものであったことは間違いありません。しかし、その独り善がりな態度で誰もが不幸になることはないのです!ここに神の正義というものが、私たちの考える正義というものとはまったく当てはまらないところで働くものであることが理解できるのです。
 
その正義は、誰か特別な者のためにあるのではありません。何の条件もなく、ご自身が造られた人間のすべてに当てはまることを、神は主イエスを通して、その後の歴史において明らかにされました。限定された民族宗教ではないのです!そのことを勘違いしてしまうと、極端な選民意識というものをゆがんだ形で私たち人間が受容し、神のもたらした「公正」とは程遠いかたちで、神の正義という御旗のもとに、私たちは傍若無人に振舞ってしまうのです。そうであってはならないのです。あくまで神は「公正」に私たち人間を取り扱われる方なのです。
 
そして、正義と公正はただ機械的に行われるのではありません。あくまで神が私たちに与えてくださる「慈愛」に基づいて行われます。それは甘えに満ちあふれたものでもなく、相手の幸福を考えない愛でもありません。あくまで私たちが与えられた命をもって健全に歩むことができるように与えてくださる慈しみをともなった愛であるということを、神はイエス・キリストの生涯を通して明らかにしてくださいました。
 
最後に「まこと(真実)」です。それが何のまやかしもごまかしもなく、神のストレートな表現としてイエスをこの世界に降してくださったのです。この真実にこそ、神がクリスマスを通して私たちひとりひとりを「生きる喜び」へと導いてくださる、紛れもない根拠であることを私たちはクリスマスメッセージとして受け取っていきたいのです。今日の新約聖書のことばは、「言(ことば)」である救い主イエスが、肉体のかたちをとって私たちのあいだに宿られたことが記されています。神がご自分の言葉を聖書の言葉にしたためて、私たち一人ひとりがそれを読み、聴くことができるように与えてくださった。まさに、神の言葉こそ救い主イエスなのだという実感へと私たちは導かれるのです。
 
どうか今晩、世界の各地でおこなわれるクリスマスイヴ礼拝、またイヴの祝いのすべてに、そして迎え来るクリスマスの喜びに、私たちひとりひとりの心が和やかなものとなりますように。心からお祈りいたします。

23/12/2025

2025.12.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハガイ書2章4節
この地のすべての民よ、強くあれ――主の仰せ。
働け、私はあなたがたと共にいる――万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章6節
惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
暑くなったりと寒くなったりと乱高下を繰り返す最近の天気ですが、そういうときにこそ体調を崩しやすくなるかと思います。どうぞ健康が守られますように。そして、良きクリスマスを迎えることができますようにお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「惜しむことのない生き方」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが注意深く生きるのはとても大切である。誰もが知っていることです。世の中には、人の好意というものを利用して大切なものまで奪い取ってしまう存在があるからこそ、そういう人たちの犠牲にならないように注意深く生きなさいと教えられてきたのではないでしょうか。まさに昨日の黙想に相通じる話題です。
 
そんなことを考えると、今日の聖句にある「惜しみなく生きる」ということと「注意深く生きる」ことが、一見すると真逆のことを言っているようにも聞こえます。惜しみなく生きる態度が結果として、悪意ある存在に利用されて、その餌食にされてしまうのではないだろうか。私はそんな風にも考えるのです。
 
しかし、私はこのふたつのベクトルは決して矛盾しないものであると考えたいのです。私たちは注意深くありながらも、神の守りのもとで惜しみない生き方というものを営むことができるのだと考えるのです。神に与えられた健康、時間、労力、財産というものを、この世界のために、愛する家族のために、そして自分自身のために、それらを与えてくださった神の栄光のために、私たちは惜しみなく用いることができるのです。
 
そのときに一番気を付けたいと思ったのが、自分自身の「注意深さ」が過ぎてしまうあまり、惜しみない生き方というものにも、過剰な制限をかけてしまおうとする私たちが抱く態度の可能性です。財産を失ってしまうことを恐れて土のなかに金銭を埋めてしまった人のように、そのときに大切にしなければならないのは何なのかということへの判断にくるいやゆがみが生じるときに、私たちは惜しみなく生きるということにストップをかけてしまうのです。
 
今日の聖句である旧約聖書・ハガイ書2章4節の言葉には「私はあなたがたと共にいる」という神なる主の仰せが記されています。つまり、私たちが注意深く生きようとも、惜しみなく生きようとも、その判断の基盤となるのは「神が私たちと共にいられる」ことへの安心感と、その神が、私たちにどのような生き方をすることを望んでおられるのかということへの、深い自覚と認識、その認識にもとづいた判断と決断に他ならないのではないか。私はそのように受け止めたいと思ったのです。
 
神が一緒にいてくださるがゆえに、私は惜しみなく生きることもできるし、注意深く生きることもできる。実にバランスの取れた生活というものを主とともに、主にあって大切にすることができるのだというのです。そのような一日の生活へと導かれますように。お祈りします。

22/12/2025

2025.12.22(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハバクク書2章6節
ああ、他人のものを増し加える者よ
いつまで続けるのか。
自分の上に重い負債を積み上げる者よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書16章10節
イエスは言われた。
ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日はクリスマス礼拝を行われた教会も多くあったことかと思います。私の働く仙台宮城野教会も、クリスマス記念礼拝をおこないました。2名のメンバーの方を教会の家族に迎え入れることのできる喜びもいただきました。朝礼拝も夕礼拝ともにクリスマスの喜びをいただくことができました。あとは24日夜のイヴ礼拝を待つのみです。楽しみです。
 
そして、今日は日本語版ローズンゲン(『日々の聖句』)編集の引継ぎのため、今東京へ向かっています。2015年から編集の一端にあずかっていましたが、このたび私は編集の任を終えることにしました。10年間、貴重な編集の仕事に携われたことに、心から感謝するばかりです。なお、この黙想は今後も続けてまいりたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「人を利用するな!」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ハバクク書の一節でした。少し意味が分かりにくいかもしれませんので、その説明をしたいと思いますが、「他人のものを増し加える」とは、一見すると良い響きのように聞こえるかもしれませんが、逆のことについて語られています。つまり、他者が大切にしているものを「利用」して、自分自身が得をしようとする態度のことを指した言葉です。つまり「人のふんどしで相撲をとる」という意味でも表現できる言葉なのです。
 
人のふんどしで相撲をとる態度は、他者の大切にしているものを奪い取る行為に等しいものがあります。それは先人の良き遺産を継承するといったことと明確に意味を異ならせます。自分が得をするために、他者の大切なものを踏みにじっても良いと考える態度そのものを、私たちは自覚しているでしょうか。人間ならば誰でも、そのような思いというものをいささかでも持ち合わせているのではないでしょうか。だからこそ、「自分自身には当てはまらない」ではなく、そういう自分自身のうちにある根を見つめ、その根から芽吹かせない自分自身の態度というものが必要なのだと。私はそのように受け止めたいのです。
 
そして、その態度はどのように形成されるのかということを、私たちがじっくりと考え、定めることはより大切なことと言えます。この態度は自分自身のオリジナリティで形成されるものではありません。神がご自分の言葉と行い、イエス・キリストを通して私たちに見せてくださった生涯を通して、私たちは神である主によって自分自身の態度が形成されるということを、決して忘れてはならないのだと。私はそのように思います。
 
小さなことに忠実なものは大きなことにも忠実。イエスによって語られたこの言葉の意味の深さというものを、今一度確かめ、噛みしめたいと思うのです。忠実とは神の思い願いが込められた「御心」を大切にすることによって成立するものです。それを決して我田引水のごとく、曲解して運用してはならないのです。そうすることで、他者を犠牲としてしまうのであれば、それはまさに、本末転倒と言っても言い過ぎではないでしょう。
 
私たちは、自分自身の損得のためにという思いを自覚しながらも、そのような自覚のなかで、神が私たちに教え諭してくださった忠実によって、少しでも歩むことができますようにと心から願い、また祈りたいと思います。皆さんの新しい一日が、そのような忠実によって祝されたものとなりますように。お祈りします。

19/12/2025

2025.12.19(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章2節
私たちの神のような岩はほかにありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章1節
主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
私の頭痛のことで気にかけ、祈ってくださり心から感謝します。今朝は頭痛のない状態で朝を迎えることができました。痛みから解放されるのは本当に嬉しいことです。皆さんのお祈りがとても心強く感じています。重ねてありがとうございます。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「主にあって」という、新約聖書・エフェソの信徒への手紙6章10節の言葉からでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日のローズンゲン(原著)では、日本語聖書の「主にあって」の部分が「主の絆によって(私訳)」と訳されていたのが大変印象的でした。「主にあって」より、より具体的かつ連結・連帯の強さというものが窺える言葉です。
 
新約聖書原文では、この部分は「エン・キュリオー」というギリシア語が用いられています。ここで言う「エン」とは、英語の「in」に相当する言葉と言って良いと思いますが、実にいろいろな意味合いのある言葉です。「~のうちに」「~とともに」「~と一致して」などと日本語に訳すことも可能なのが、ギリシア語の「エン」です。
 
そう考えますと、「主にあって」という言葉には、「主が私の心のうちにいてくださり」とか、「主が私とともにいてくださる」、「主が私とひとつになってくださって」などというニュアンスを、私たちに想像させてくれるものであると私は受け止めました。であるからして、私は神の力によって、この世界を地に足をしっかりとつけて歩み出すことができるのだ!こんな風に、エフェソのこの聖句を聴き取りたいと思ったのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの指導者サムエルの母となったハンナの祈りの一節でした。なかなか子が宿されないハンナが、必死に神に祈る姿に、私たちはハンナがいかに神を「みずからの岩」として、しっかりと私の心を守り、支えてくださる方とみなし、信頼のうちに祈っていたかを見ることができるのです。このハンナのような祈りを、私も神に向けたいと心から思わされました。
 
クリスマスが近づきゆくあるなかで、今日の一日もまた神とともに歩む幸いのうちに私たちのひとりひとりがありますように。お祈りします。

17/12/2025

2025.12.17(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書5章20節
災いあれ、悪を善と言い、善を悪と言う者に。
彼らは、闇を光とし、光を闇とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章21節
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「善悪」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書5章のことばは、当時の世界の状況を如実に示しているものと言えるでしょう。政治も、市民も、宗教者も誰もが、それが「悪」であると知っていながら「善なるもの」とすり替え、「善」であり続けるべきことに「悪のレッテル」を貼って、善なるものを握りつぶそうとする態度です。
 
なぜそのようなことが起きるのでしょうか。原因はたったひとつです。「私が善悪の基準となる」からです。私自身の価値判断が善悪の基準となるには、それ相当の高い倫理観というものが求められるでしょう。しかし、その倫理観をもってしても、私たちには「自我の欲求」というものがありますから、それをいとも簡単に善悪の基準における根拠としてしまうのです。それが本当に善悪の基準となり得るのだろうか。私たちは真剣にそのことを考えなければならないと私は思うのです。
 
神は預言者イザヤを通して、当時の世界に対して「善悪の基準はどこにあるのか」ということを問いかけ続けました。善悪の基準は「私たち」にあるのではない。私たちを造り、治め、祝福へと導かれる神にあるのだ。イザヤは人々の逆風を浴びながらも、そのことを愚直に伝え続けたのでした。我欲によるゆがんだ価値基準を、あたかも神の提示される価値基準のようにすり替えてもならない。こうしてイザヤは、あくまで神の御心に基づいた是々非々な倫理観というものを人々の生きる柱として人々の前に明らかにしたのでした。
 
私たちは神の言葉を「恵みの御言葉」としていただいています。その恵みには、私たち自身を神の御前に生きることのできる者として整えるだけの知恵と力、憐れみと慈しみというものがあふれんばかりに含まれているのです。だからこそ、神の言葉が私たちにとっての恵みに他ならないのです。つねに御言葉に触れて自分自身のあり方というものを確かめていく営みというものを大切にしつつ、今日の一日を歩んでいきたい。私が今日の聖句から聴きたいと思ったメッセージです。
 
どうか皆さんにとっての一日が、神とともにある幸いを味わうことのできるひと時でありますように。神なる主の平安に包まれたものとなりますようにお祈りします。

16/12/2025

2025.12.16(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編62編6節
私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。
私の希望は神から来る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章13節
私たちは、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望んでいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
クリスマスが近づきつつある今日の一日が、皆さんにとって素敵な時となりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「希望」でした。先行き見えぬ将来に必ず良いことが神によって与えられる。そのことを私たちは「希望」と呼んで、神のなさることを待望します。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちはどんなに希望を抱いていても、その希望は口にし、何らかの表現をしないと相手に伝わらないということがしばしばあります。日本では「以心伝心」という言葉があるように、それをいちいち言葉にしなくても通じ合うことの大切さ、空気を読むことの重要性が言われることがありますが、欧米世界では言葉を通して相手に意思を伝えることによってしか、伝達できないという文化がしっかりと根付いています。だからこそ希望は私たちの明確な意志として表現されるのだと思います。
 
しかし、今日の旧約聖書にある詩編の一片は、「沈黙せよ!」とうたわれています。あえて言葉にすることなく、ただ神の御前にあって黙しなさいと詩人は告げました。このことは私たちに大切なメッセージを与えています。あえて言葉にしなくても、私たちの心のうちをすべてご存知である神が私たちとともにおられる。その言葉のひとつひとつに秘められた私たちの本心をすべてご存知だからこそ、神は私たちの将来に光を与えてくださるというのです。どんなに美辞麗句を立て並べたとしても、神にはそんなものは関係ありません。ただただ神の御前に沈黙して、その顔を向き合わせたときに、神は私たちに最高の「希望」をお与えくださるのです。たとえそれが私たちの願いと異なったとしてもです。
 
ただ黙しつつ、救い主イエスが来られるのを静かに待つのです。クリスマスが近づきゆくというのは、日本では大変慌ただしい師走のなかにあっても、静かに心を鎮まらせながら、救い主イエスが一歩、一歩足音と立ててやって来られるのを、その音を確かめながらじっくりと待つひと時を、ぜひ私たちの生活のなかで一分、一秒でもいいからつくりたい。そんなイメージとともに、希望という言葉に対する私の想いを神につくっていただきたいと思ったのでした。
 
神の御前に黙しつつ、希望に生きる幸い。今日の一日もまたそのようなところに喜べる時となりますように。

15/12/2025

2025.12.15(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章5節
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ
私たちの過ちのために打ち砕かれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章32節
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
最近、朝の目覚めがあまり良くない日々を送っています。朝起きると頭痛があります。少しでもゆっくりと休もうと思って、早起きすることを少し控えています。頭痛がおさまるまで、黙想のお届けが不定期になるかもしれません。どうぞお許しください。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「クリスマスプレゼントの重さ」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちに与えられたクリスマスプレゼントとは何でしょうか。赤子のかたちをもってお生まれになられたイエスの命そのものです。神はその命をもって、私たち全人類を救う手立てとされました。赤子の存在は人に癒しを与えます。この赤子がやがてこの世で成長をするなかで、人々と関わり、寝食を共にし語らうなかでも、その癒やしの業は人々に救いを与え続けてきたのです。
 
しかし、その癒やしは究極的な救いそのものではありません。救いに至る一里塚のようなものでした。その道程をたどって最終的になされたのは、イエスの身体が刃で刺し貫かれることによってできた傷、流れる血潮と裂かれた肉体によってでした。それこそが私たちに与えられたクリスマスプレゼントであり、それは決して華やかで軽々しいものではありませんでした。非常に重く苦しいクリスマスプレゼントだったのだと私は受け止めました。
 
クリスマスを迎えるというのは、そのような私たち一人ひとりの心にあるあらゆる重荷を確かめるとともに、その重荷を自分自身の重荷として十字架に引っさげてくださったイエスを想う時なのでしょう。クリスマスの華やかさのなかに、とても大切なメッセージがあることを、アドヴェントの残りの時を大切にしながら、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの新しい一日にも、そのような神様の恵みがともに豊かにありますように。お祈りします。

12/12/2025

2025.12.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章19節
ああ、あなたが天を裂いて降りて来てくださったならば良いのに!

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章31~32節
天使はマリアに告げた。
あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
ここのところ、毎日黙想をお届けすることができず、心苦しい思いでいます。楽しみにしてくださっている方へは、大変申し訳ないばかりです。
 
朝から仙台の街は雪が降っています。随分寒い朝を迎えました。冬らしい天気は決して悪いものではないのですが、こういう時に体調を崩されないようにとただ願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神は重い天蓋を開けられる時が来る」というものでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
余談になりますが、今日12月12日は、メキシコでは「グアダルーペの聖母マリア祭」という祭りが行われます。メキシコにとっては、自分たちの国を守ってくださるのが、グアダルーペという町に500年ほど前に聖母マリアが出現したことが、自分たちの国を守ってくださる守護者であると言われていて、そのことを記念するお祭りが今日行われるとのことです。それだけ、カトリック文化圏では、救い主イエスをこの世界に降すその大きな役割を担ったマリアが根強く崇敬されていることが分かります。
 
今日の聖書の言葉を聴いて、天使がマリアに救い主の誕生がマリアの身体を通して起こることが告げられます。しかし、聖書が伝えるところによるそのような「受胎告知」は、決してハッピーストーリーとは言い難い現実があったことは、聖書の文脈をたどれば一目瞭然であることは間違いありません。少女マリアが「未婚の母」として、周囲の非難と好奇という視線にさらされながら生きなければならないのは明らかでした。幸福どころか、彼女はつらい目に遭わなければならなかったのです。それはまさに彼女の心を塞ぐ、重い蓋のようなものであったと思えてならないのです。
 
しかし、そのようなマリアに降りかかった災難にも似た出来事、そのような状況のなかで助けを叫ばんとするマリアに対して、神の言葉は何のためらいもなく降りかかります。神はこの状況のなかで、マリアだけに辛い思いをさせて苦しませる意図はどこにもありません。天蓋をしっかりと開けて、直接的にマリアを守られる神がおられることを、マリアはこの後実際に経験することになります。そして、イエスの誕生へと導かれるのでした。
 
私たちはこのクリスマス物語の一片に触れるときに、クリスマスとは何なのだろうかということをあらためて考えさせられるのだと思うのです。明るい、楽しい、わくわくする。クリスマスにはそのような思いを私たちを与えることに間違いありませんが、その背景にはあらゆる困難を過ぎ去らせてくださる神の守りがあるからこそ、私たちはそのような守りに支えられながら生きていくことが可能なのだと。そんなことを黙想しながら、今日の一日を過ごしていきたいと思わされたのでした。
 
皆さんの一日にも、私たちを守り、必要な思いを与えてくださる神がともにおられることで、幸いに包まれたものとなりますように。お祈りします。

09/12/2025

2025.12.9(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書46章4節
あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一5章3節
本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨晩遅く、東北・北海道を中心に大きな地震がありました。津波警報などもあり、安心できない夜を過ごされた方も多くあったと思いますし、安否を尋ねてくださった方々もおられました。私の住む宮城野区は震度3でしたし、津波注意報が発令されましたがすべて解除されました。心を配ってくださり、心から感謝いたします。まだ不安のなかにおられるだろう皆さんの一切のために、引き続き祈りたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書のことばを通して、まさに昨日の地震のことを思い出していました。私たちが不安に感じるのはどういった時だろうか。そんなことを感じたのです。そして、それはまさに「孤独」なのではないかと思わされました。
 
今日の聖句に共通するのは、老齢ゆえの孤独、愛する者を失ったがゆえの孤独。そのような孤独が神によって、また神の御心を我が身に負った者が、その務めとして孤独に向き合うことの大切さと幸いについて語られたものでした。私たちの孤独を孤独のままにしておかれない神が確かにおられ、しかし、その神の守りというものは、それを心から信じる者たちによっても形成されるということなのだと、私たち一人に思い起こさせるのです。
 
私が働く教会にも、一人暮らしの方がおられます。あるメンバーの方が先日お怪我をされるということがありました。身体を強くぶつけられたということがあり、痛みと思うように動けないその不自由さに、随分不便と不安を感じておられたようでした。教会で、その方の一切に神の守りが働きますようにと祈り続けました。そして、祈るだけではありませんでした。教会メンバーの方がご自宅を差し障らない程度でお訪ねし、教会からの通信や食事を届けるということがありました。その方の代わりに、教会の掃除を何人かによって行われました。
 
この前の日曜に、その方が久しぶりに礼拝に来られました。神様が、そして教会の皆さんの祈りと具体的な助けがどれだけ私にとっての力になったか。その方から感謝の意が述べられた時に、私はあらためて感じさせられたのです。神が守ってくださっているという実感は、神の守りを信じる者たちで共有されることが本当に大切なのだと。そのために信仰者の群れがあり、教会の存在意義というものがあるのだと。そんなことを想わされたのでした。
 
今日も、神の守りを実感する私たち一人ひとりがこの喜びを共有しつつ、一日を過ごすことができますように。お祈りします。

07/12/2025

2025.12.7(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編146編8節
主はうずくまる人を立ち上がらせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章20節
よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。そして、主の御降誕を待ち望むアドヴェントも2回目の日曜を迎えました。世界中でおこなわれる主の日の礼拝や集会のすべてが、救い主を待ち望む喜びで満たされますように。主にある一日の平安を心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「悲しみが悲しみのままで終わることがない」というメッセージでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、詩編の一節です。詩編146編はその全体が「神である主ヤハウェを賛美する」というテーマのもとに、一貫してその思いが詩人によって歌われています。しかし、その賛美とは、私たちの苦しみや悲しみというものが背景にあって、そのような苦痛から逃れることのできない私たちの現実に目が向けられたうえで、神が与えてくださることに私たちの希望を寄せて生きることの幸いが賛美となるということについて歌われていることが分かります。
 
今日の聖句では「うずくまる人を」とあります。その場から歩き出すことのできない状態です。どう歩んでよいか分からないがゆえに、ただただうずくまるしかなくなってしまうのです。私は思いました。うずくまってしまう経験をです。ごくごく小さい出来事ではありますが、10数年ぶりに東京・渋谷駅の構内を歩くということが昔ありました。学生時代はよく使用していただけに、駅を迷わず歩くことに自信がありました。しかし、十数年のあいだに駅が整備されて出口や入口、通路自体が変わってしまっていたのです。前の知識はまったく役に立ちません。道案内をたどっても分からない。ついついその場にうずくまってしまいました。
 
自分の経験が邪魔したのでしょう。「こんなはずはない」という思いが強すぎて、かえって前を歩くことを難しくさせました。そんなときに、私たちは自分自身のなかでつくりあげられた限界を打ち破る必要があったのです。まずは自分自身の固定観念を捨てて、地図通りに、人に尋ねながら歩きだそうとした結果、無事に行きたいところへたどり着くことができました。
 
私は思ったのです。自分以外の何かに頼ることの大切さをです。これこそ、私を立ち上がらせてくださる神が、今日も私の命を保ち、歩ませてくださるのだと。たとえ苦しみにさいなむことがあろうとも、すべてをご存知である神がおられるがゆえの安心感が、悲しみから喜びへと変えてくださるのだ。その思いを胸にして、今日の一日を歩みたいと思わされたのです。
 
こうして私たちはアドベントの一日を過ごすことができるのです。皆さんにとってもこの一日が祝福に満たされた者でありますように!

05/12/2025

2025.12.5(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編85編8節
主よ、慈しみを私たちに示し
救いを与えてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章22節
救いはユダヤ人から来る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日も自宅でゆっくりと休んでいたため(午前中は教会の祈祷会に参加して、参加者の方々に祈っていただきました!)、昨日よりもなお体調が戻ってきた実感があります。ちなみに昨晩、現在お怪我をされておられる教会メンバーの方とお話をしていましたが、「今日の祈祷会でも祈りましたよ」とお話しましたら、その方から「祈りの力を感じます!」とのお返事をいただきました。とても心強い思いが、自分自身を内側から元気にされていくのを感じているとのことでした。神に見守られていることの幸いを噛みしめながら、今日も御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の聖書のことば、特に新約聖書の言葉は、決して「ユダヤ至上主義」を謳ったものではないということを、最初に申し上げたいと思います。言葉というものは時に恐ろしい力を発揮することがあります。あるフレーズを「切り取る」ことによって、その文脈を無視した言葉の意味というものを利用することができるからです。今日の新約聖書の言葉などは、私たち人間の救いというものがユダヤ(イスラエル)から来る、などと聞けば、現在世界の話題となっているイスラエルによる武力行使を正当化するような言葉にも聞こえてくると思うのは、私だけでしょうか。
 
イエスがこの言葉を語られたのは、いわゆる「サマリア人の女」に対してでした。サマリア人はユダヤ人にとって忌避されていた存在でした。そのような存在であった人物に対して、イエスは「救いはユダヤ人から来る」と仰せられました。しかし、その意図は、決してユダヤ人をサマリア人に勝ったものとして言いたいのではありませんでした。むしろ逆であり、サマリア人に神の救いが豊かに臨むことを示すイエスの意図が大いに含まれていたことを示すひと言だったのです。
 
サマリア人の女は、この会話に続いて、霊と真理をもって父なる神を礼拝する時が来たことを実感します。そして、目の前におられるイエスこそ、私にとっての救い主であることを確信するにいたりました。そこにはユダヤ人であるイエスに対する、民族的優劣のようなものは何も見い出せません。ただ、神の御子であるイエスを何の妨げもなく受け入れる一瞬があったことを私たちに思い起こさせるのです。
 
私たちは見えるところで、人と人とを分け隔てます。優劣を定めて格差を決め、他者に対してゆがんだ見方をしてしまう存在なのです。しかし、神の目から見たら、そんなことは甚だくだらないことで、私たちはそういう些細なところで一喜一憂してははしゃいでみたり落ち込んでみたりするような哀れな存在なのだと思うのです。
 
しかし、そんな私たちに神は憐れみを示してくださいました。イエスという救い主を与えてくださることによってです。私たちの哀れな姿から少しでも逃れることができるように、そして、ゆがんだ見方から私たちを解放させるために、イエスは私たちのもとに来てくださいました。そのイエスが今日も、私たちとともに生き、そして働いてくださる。本当に感謝なのです。このイエスとともに歩みたい。そんな思いに導かれたことは言うまでもありません。
 
今日の皆さんの大切な一日が、そのような神の憐れみにしっかり守られながら歩むときでありますように。お祈りします。

04/12/2025

2025.12.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記31章13節
まだ知らない子どもたちが律法の言葉を聞いて学び、あなたがたの神、主を畏れるようになるためである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章4節
父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
一昨日に無事に帰国してまいりましたが、風邪の具合が思わしくなく、二日間床に臥せておりました。しかし、しっかりと休んだおかげで、体調もかなり回復してきました。朝の目覚めも良くなりましたので、黙想を再開したいと思います。ここのところ休み勝ちで申し訳ありません。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「子は親の背中を見て育つ」ということでした。それについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトからの脱出ののちに40年もの長い間にわたって約束の地に向かってさまよい歩いたイスラエルの民たちを指導したモーセによる遺言の一節です。これから時代を担うこどもたちのために、おとなである一人ひとりがしなければならないことについてモーセは告げました。それは「律法の朗読」でした。
 
律法の朗読。それは「神の言葉が語られること、そして聴かれること」でした。神の言葉が人々の心のなかにしみわたるように、その言葉が明らかにされることは人々が生きるためには無くてならないものであることを、モーセは神の御心として語ったのでした。
 
ここで重要なのは、神の言葉が語られるときに、それは「聴く」ためのものである、ということです。「聞こえる」のではなく「聴く」のです。心を込めて神の御声に耳と心を傾けながら、自分自身に語られた言葉として、じっくりと心のうちにしみわたらせるのです。なぜでしょうか。その言葉が私たちの日々を豊かにさせるために無くてはならないものだからです。少なくともモーセはそのような思いで、この勧めを民たちに語ったのでした。
 
そして、もうひとつ理由があります。それは「こどもたちに自分自身の『背中』を見せるため」でした。つまり、律法の言葉によって生かされる姿、それは人の模範として生きるというよりは、神が一緒にいてくださるから自分自身がどんな時にあっても生きていくことができるのだという安心感に満ちあふれた姿が背中ににじみ出るときに、それはこどもたちの人間形成にも大きく影響するのだ、ということなのだと私は受け止めました。
 
どんなに口で律法の言葉を子供に伝えたとて、その言葉がその人の生きる姿から醸し出されていないのであれば、その言葉ほど空しいものはないでしょう。今日の新約聖書の言葉にもある通り、こどもをいらだたせるのは、そのような親の態度に起因することだってあるのです。だからこそ、キリストの言動に倣う者でありなさいと手紙に勧められているのです。
 
繰り返しますが、それは「完璧でありなさい」という意味では決してありません。神によって生かされているということへの実感が私たちの内からあふれ出るときに、それが他者にも多分に影響されるということなのです。そんな思いを胸にして、今日も神の言葉に聴く者でありたい。そんなことを受け止めたいと思いました。
 
皆さんの今日の一日が、そのような実感を喜べる時でありますように。お祈りします。

01/12/2025

2025.12.1(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編43編3節
あなたの光とまことを遣わしてください。
それらは私を導き
聖なる山、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章29~32節
シメオンは言った。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 私はこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民の前に備えられた救いで
 異邦人を照らす啓示の光
 あなたの民イスラエルの栄光です。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けできまでした。申し訳ありませんでした。一週間にわたる台湾出張も今日が最終日です。お昼前にホテルに出て空港に向かいます。昨日より風邪をひいてしまったようですが、最後まで健康が守られて感謝でした。お祈りくださった皆さまへ、心から感謝します。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の御業を待つことの幸い」というものでした。救い主イエス・キリストの御降誕を祝う待降節(アドヴェント)らしい聖句が選ばれたと思いました。そして、今日は新約聖書・ルカ福音書2章に収められている老人シメオンの言葉から、神の御声に耳と心を高向けたいと思いました。
 
救い主イエスの先駆者として与えられた、のちに洗礼者ヨハネとなる赤ちゃんの誕生は、このことを神によって約束されていたシメオンにとって大きな喜びであったに違いありません。。
 
神に決して見捨てられているわけではありませんでした。神にはその人たちにとって明らかな「ベストタイミング」というものをお持ちだったのです。そのことを私たち人間は知りません。だから疑います。迷います。惑うのです。神は必ず私たちが神によって祝福されているその瞬間を、きちんと準備してくださっているのです。シメオンの賛美の祈りは、そのことを明らかにするものなのです。
 
私たちにとってのアドヴェントが、まさにそのようなことに思い巡らせるような時となりますように。今日一日の主にある平安と祝福を心からお祈りします。