くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書5章20節
災いあれ、悪を善と言い、善を悪と言う者に。
彼らは、闇を光とし、光を闇とする。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章21節
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「善悪」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書5章のことばは、当時の世界の状況を如実に示しているものと言えるでしょう。政治も、市民も、宗教者も誰もが、それが「悪」であると知っていながら「善なるもの」とすり替え、「善」であり続けるべきことに「悪のレッテル」を貼って、善なるものを握りつぶそうとする態度です。
なぜそのようなことが起きるのでしょうか。原因はたったひとつです。「私が善悪の基準となる」からです。私自身の価値判断が善悪の基準となるには、それ相当の高い倫理観というものが求められるでしょう。しかし、その倫理観をもってしても、私たちには「自我の欲求」というものがありますから、それをいとも簡単に善悪の基準における根拠としてしまうのです。それが本当に善悪の基準となり得るのだろうか。私たちは真剣にそのことを考えなければならないと私は思うのです。
神は預言者イザヤを通して、当時の世界に対して「善悪の基準はどこにあるのか」ということを問いかけ続けました。善悪の基準は「私たち」にあるのではない。私たちを造り、治め、祝福へと導かれる神にあるのだ。イザヤは人々の逆風を浴びながらも、そのことを愚直に伝え続けたのでした。我欲によるゆがんだ価値基準を、あたかも神の提示される価値基準のようにすり替えてもならない。こうしてイザヤは、あくまで神の御心に基づいた是々非々な倫理観というものを人々の生きる柱として人々の前に明らかにしたのでした。
私たちは神の言葉を「恵みの御言葉」としていただいています。その恵みには、私たち自身を神の御前に生きることのできる者として整えるだけの知恵と力、憐れみと慈しみというものがあふれんばかりに含まれているのです。だからこそ、神の言葉が私たちにとっての恵みに他ならないのです。つねに御言葉に触れて自分自身のあり方というものを確かめていく営みというものを大切にしつつ、今日の一日を歩んでいきたい。私が今日の聖句から聴きたいと思ったメッセージです。
どうか皆さんにとっての一日が、神とともにある幸いを味わうことのできるひと時でありますように。神なる主の平安に包まれたものとなりますようにお祈りします。
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