24/12/2025

2025.12.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編15節
正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 いよいよ今晩からクリスマスが始まります。最近、クリスマスが「非聖書的だ」という方々のご意見がSNSで散見されることがあります。確かに非聖書的と言えば、そのように言える節も無いわけではありません。しかし、世界の救い主の御誕生を心から待ち望んでいた人たちによって、主イエスの誕生を祝い、クリスマスという「文化」が形成されたことは、たとえ非聖書的と言われようとも、極めて「福音的である」と言えるのだと私は思います。そんな思いをもって、クリスマスに臨みたいと思います。今晩7時より、私の働く仙台宮城野教会でもクリスマスイヴ礼拝をおこないます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに救い主イエスの誕生が私たちに何をもたらしたのかということについて、実にストレートに表現されていると私は受け止めることができました。では、その「何」とはなんでしょうか。それは、今日の旧約聖書の言葉にもありますように「正義」と「公正」、「慈しみ」と「まこと」に他なりません。
 
神が私たちにもたらした正義は、私たち人間を愛するがゆえに、最愛の我が子を私たちのために贈り、その贈り物を私たちのために犠牲にしてしまうほどの、きわめて独り善がりなものであったことは間違いありません。しかし、その独り善がりな態度で誰もが不幸になることはないのです!ここに神の正義というものが、私たちの考える正義というものとはまったく当てはまらないところで働くものであることが理解できるのです。
 
その正義は、誰か特別な者のためにあるのではありません。何の条件もなく、ご自身が造られた人間のすべてに当てはまることを、神は主イエスを通して、その後の歴史において明らかにされました。限定された民族宗教ではないのです!そのことを勘違いしてしまうと、極端な選民意識というものをゆがんだ形で私たち人間が受容し、神のもたらした「公正」とは程遠いかたちで、神の正義という御旗のもとに、私たちは傍若無人に振舞ってしまうのです。そうであってはならないのです。あくまで神は「公正」に私たち人間を取り扱われる方なのです。
 
そして、正義と公正はただ機械的に行われるのではありません。あくまで神が私たちに与えてくださる「慈愛」に基づいて行われます。それは甘えに満ちあふれたものでもなく、相手の幸福を考えない愛でもありません。あくまで私たちが与えられた命をもって健全に歩むことができるように与えてくださる慈しみをともなった愛であるということを、神はイエス・キリストの生涯を通して明らかにしてくださいました。
 
最後に「まこと(真実)」です。それが何のまやかしもごまかしもなく、神のストレートな表現としてイエスをこの世界に降してくださったのです。この真実にこそ、神がクリスマスを通して私たちひとりひとりを「生きる喜び」へと導いてくださる、紛れもない根拠であることを私たちはクリスマスメッセージとして受け取っていきたいのです。今日の新約聖書のことばは、「言(ことば)」である救い主イエスが、肉体のかたちをとって私たちのあいだに宿られたことが記されています。神がご自分の言葉を聖書の言葉にしたためて、私たち一人ひとりがそれを読み、聴くことができるように与えてくださった。まさに、神の言葉こそ救い主イエスなのだという実感へと私たちは導かれるのです。
 
どうか今晩、世界の各地でおこなわれるクリスマスイヴ礼拝、またイヴの祝いのすべてに、そして迎え来るクリスマスの喜びに、私たちひとりひとりの心が和やかなものとなりますように。心からお祈りいたします。

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