04/12/2025

2025.12.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記31章13節
まだ知らない子どもたちが律法の言葉を聞いて学び、あなたがたの神、主を畏れるようになるためである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章4節
父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
一昨日に無事に帰国してまいりましたが、風邪の具合が思わしくなく、二日間床に臥せておりました。しかし、しっかりと休んだおかげで、体調もかなり回復してきました。朝の目覚めも良くなりましたので、黙想を再開したいと思います。ここのところ休み勝ちで申し訳ありません。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「子は親の背中を見て育つ」ということでした。それについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトからの脱出ののちに40年もの長い間にわたって約束の地に向かってさまよい歩いたイスラエルの民たちを指導したモーセによる遺言の一節です。これから時代を担うこどもたちのために、おとなである一人ひとりがしなければならないことについてモーセは告げました。それは「律法の朗読」でした。
 
律法の朗読。それは「神の言葉が語られること、そして聴かれること」でした。神の言葉が人々の心のなかにしみわたるように、その言葉が明らかにされることは人々が生きるためには無くてならないものであることを、モーセは神の御心として語ったのでした。
 
ここで重要なのは、神の言葉が語られるときに、それは「聴く」ためのものである、ということです。「聞こえる」のではなく「聴く」のです。心を込めて神の御声に耳と心を傾けながら、自分自身に語られた言葉として、じっくりと心のうちにしみわたらせるのです。なぜでしょうか。その言葉が私たちの日々を豊かにさせるために無くてはならないものだからです。少なくともモーセはそのような思いで、この勧めを民たちに語ったのでした。
 
そして、もうひとつ理由があります。それは「こどもたちに自分自身の『背中』を見せるため」でした。つまり、律法の言葉によって生かされる姿、それは人の模範として生きるというよりは、神が一緒にいてくださるから自分自身がどんな時にあっても生きていくことができるのだという安心感に満ちあふれた姿が背中ににじみ出るときに、それはこどもたちの人間形成にも大きく影響するのだ、ということなのだと私は受け止めました。
 
どんなに口で律法の言葉を子供に伝えたとて、その言葉がその人の生きる姿から醸し出されていないのであれば、その言葉ほど空しいものはないでしょう。今日の新約聖書の言葉にもある通り、こどもをいらだたせるのは、そのような親の態度に起因することだってあるのです。だからこそ、キリストの言動に倣う者でありなさいと手紙に勧められているのです。
 
繰り返しますが、それは「完璧でありなさい」という意味では決してありません。神によって生かされているということへの実感が私たちの内からあふれ出るときに、それが他者にも多分に影響されるということなのです。そんな思いを胸にして、今日も神の言葉に聴く者でありたい。そんなことを受け止めたいと思いました。
 
皆さんの今日の一日が、そのような実感を喜べる時でありますように。お祈りします。

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