くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハバクク書2章6節
ああ、他人のものを増し加える者よ
いつまで続けるのか。
自分の上に重い負債を積み上げる者よ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書16章10節
イエスは言われた。
ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
昨日はクリスマス礼拝を行われた教会も多くあったことかと思います。私の働く仙台宮城野教会も、クリスマス記念礼拝をおこないました。2名のメンバーの方を教会の家族に迎え入れることのできる喜びもいただきました。朝礼拝も夕礼拝ともにクリスマスの喜びをいただくことができました。あとは24日夜のイヴ礼拝を待つのみです。楽しみです。
そして、今日は日本語版ローズンゲン(『日々の聖句』)編集の引継ぎのため、今東京へ向かっています。2015年から編集の一端にあずかっていましたが、このたび私は編集の任を終えることにしました。10年間、貴重な編集の仕事に携われたことに、心から感謝するばかりです。なお、この黙想は今後も続けてまいりたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「人を利用するな!」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、ハバクク書の一節でした。少し意味が分かりにくいかもしれませんので、その説明をしたいと思いますが、「他人のものを増し加える」とは、一見すると良い響きのように聞こえるかもしれませんが、逆のことについて語られています。つまり、他者が大切にしているものを「利用」して、自分自身が得をしようとする態度のことを指した言葉です。つまり「人のふんどしで相撲をとる」という意味でも表現できる言葉なのです。
人のふんどしで相撲をとる態度は、他者の大切にしているものを奪い取る行為に等しいものがあります。それは先人の良き遺産を継承するといったことと明確に意味を異ならせます。自分が得をするために、他者の大切なものを踏みにじっても良いと考える態度そのものを、私たちは自覚しているでしょうか。人間ならば誰でも、そのような思いというものをいささかでも持ち合わせているのではないでしょうか。だからこそ、「自分自身には当てはまらない」ではなく、そういう自分自身のうちにある根を見つめ、その根から芽吹かせない自分自身の態度というものが必要なのだと。私はそのように受け止めたいのです。
そして、その態度はどのように形成されるのかということを、私たちがじっくりと考え、定めることはより大切なことと言えます。この態度は自分自身のオリジナリティで形成されるものではありません。神がご自分の言葉と行い、イエス・キリストを通して私たちに見せてくださった生涯を通して、私たちは神である主によって自分自身の態度が形成されるということを、決して忘れてはならないのだと。私はそのように思います。
小さなことに忠実なものは大きなことにも忠実。イエスによって語られたこの言葉の意味の深さというものを、今一度確かめ、噛みしめたいと思うのです。忠実とは神の思い願いが込められた「御心」を大切にすることによって成立するものです。それを決して我田引水のごとく、曲解して運用してはならないのです。そうすることで、他者を犠牲としてしまうのであれば、それはまさに、本末転倒と言っても言い過ぎではないでしょう。
私たちは、自分自身の損得のためにという思いを自覚しながらも、そのような自覚のなかで、神が私たちに教え諭してくださった忠実によって、少しでも歩むことができますようにと心から願い、また祈りたいと思います。皆さんの新しい一日が、そのような忠実によって祝されたものとなりますように。お祈りします。
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