23/12/2025

2025.12.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハガイ書2章4節
この地のすべての民よ、強くあれ――主の仰せ。
働け、私はあなたがたと共にいる――万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章6節
惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
暑くなったりと寒くなったりと乱高下を繰り返す最近の天気ですが、そういうときにこそ体調を崩しやすくなるかと思います。どうぞ健康が守られますように。そして、良きクリスマスを迎えることができますようにお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「惜しむことのない生き方」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが注意深く生きるのはとても大切である。誰もが知っていることです。世の中には、人の好意というものを利用して大切なものまで奪い取ってしまう存在があるからこそ、そういう人たちの犠牲にならないように注意深く生きなさいと教えられてきたのではないでしょうか。まさに昨日の黙想に相通じる話題です。
 
そんなことを考えると、今日の聖句にある「惜しみなく生きる」ということと「注意深く生きる」ことが、一見すると真逆のことを言っているようにも聞こえます。惜しみなく生きる態度が結果として、悪意ある存在に利用されて、その餌食にされてしまうのではないだろうか。私はそんな風にも考えるのです。
 
しかし、私はこのふたつのベクトルは決して矛盾しないものであると考えたいのです。私たちは注意深くありながらも、神の守りのもとで惜しみない生き方というものを営むことができるのだと考えるのです。神に与えられた健康、時間、労力、財産というものを、この世界のために、愛する家族のために、そして自分自身のために、それらを与えてくださった神の栄光のために、私たちは惜しみなく用いることができるのです。
 
そのときに一番気を付けたいと思ったのが、自分自身の「注意深さ」が過ぎてしまうあまり、惜しみない生き方というものにも、過剰な制限をかけてしまおうとする私たちが抱く態度の可能性です。財産を失ってしまうことを恐れて土のなかに金銭を埋めてしまった人のように、そのときに大切にしなければならないのは何なのかということへの判断にくるいやゆがみが生じるときに、私たちは惜しみなく生きるということにストップをかけてしまうのです。
 
今日の聖句である旧約聖書・ハガイ書2章4節の言葉には「私はあなたがたと共にいる」という神なる主の仰せが記されています。つまり、私たちが注意深く生きようとも、惜しみなく生きようとも、その判断の基盤となるのは「神が私たちと共にいられる」ことへの安心感と、その神が、私たちにどのような生き方をすることを望んでおられるのかということへの、深い自覚と認識、その認識にもとづいた判断と決断に他ならないのではないか。私はそのように受け止めたいと思ったのです。
 
神が一緒にいてくださるがゆえに、私は惜しみなく生きることもできるし、注意深く生きることもできる。実にバランスの取れた生活というものを主とともに、主にあって大切にすることができるのだというのです。そのような一日の生活へと導かれますように。お祈りします。

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