07/08/2025

2025.8.7(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハガイ書1章9節
あなたがたは多くの収穫を期待したが
それは僅かであった。
あなたがたが家へ持ち帰ると
私はそれを吹き飛ばした。
それはなぜなのか――万軍の主の仰せ。
それは、私の神殿が廃虚のままであるのに
あなたがたが、それぞれ自分の家のために
走り回っているからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章42節
あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もなおざりにはできないが。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
ここのところ、雨が降ったり止んだりが続いています。猛暑が続き日照りがかえって農作物に悪影響を与えていることもありますので、この雨が少しでも恵みの雨になることを祈るばかりです。どうか、この雨が少しでも私たちの安心となりますように。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちは何のために神に献げるか」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書も新約聖書の言葉も、ひとつの「警告」を私たちのうちに思い起こさせるものです。ひと言でいえば、私たちは自分の名誉やプライド、世の中の承認欲求を得るために献げるという行為をしているわけではない、ということです。
 
私たちの目に見える行為というものは、他者にさまざまな印象や影響を与えます。何か一生懸命すれば、誰かの賞賛を得ることができるでしょう。多くを献げれば、あの人はすごいという風になるわけです。しかし、それは本来、神の御心を受け止め、その応答となされた時の結果論としてそうなるならばまだしても、賞賛を得ることを目的としてしまったのでは、それこそ本末転倒である。今日の聖句はそのことを如実に物語っているのです。
 
神殿が廃墟であるのに、それでもあなたがたは自分の家に走り回る。預言者ハガイが神から預かった言葉です。つまり、神殿を廃墟にしてしまうくらいに、神の思いに眼を向けることなく、自分の利益のために走り回るとすれば、それは見せかけのパフォーマンスに過ぎないということを痛烈に伝えているのです。まるで張り子の虎のように、何の意味ももたらさないのです。
 
神が私たちをご自分の公正さをもって愛してくださっているというその本質を、私たちはどれほど受け止めているのだろうか。真摯に自分の生き方としてその愛と公正を受け取っているだろうか。そして自分自身の生きる柱としているだろうか。とても厳しく、しかしそこに私たちの命をご自分の道へと導きたいと心から願っている神の真意があることを、私は決して忘れてはいけないのだ。そのように思わされたのです。
 
同様のことがイエスによっても語られています。ファリサイ派の人たちの行為は外目には立派かもしれないけれど、そこに中身が伴わなければ何の意味も無いのだと。それならば、パフォーマンスを目的とする行為など必要ないと言わんばかりの思いをもって、ファリサイ派の行いというものを痛烈に批判しているのです。必要なのは神の公正と愛に裏打ちされた、内面からにじみ出てくる生き方そのものなのだと。
 
だからと言って、アウトローで良いということをイエスは言っているわけではありません。神が期待されていることを、その心で受け止めた結果行われる私たちの生き方こそ、大切なのだということを言いたかったのです。イエスにとってそれは、神がモーセを通して与えられた律法の言葉を大切にすることでした。大切にするとは文字面を超えた本質を理解して、それを自分自身の礎とすることだったのです。
 
私たちは聖書の言葉を文字通り受け止めることができるかもしれません。それを受け入れることも大切でしょう。しかし、内面の伴わない状態で言葉がひとり歩きしてしまうような用い方をしてしまうならば、それは本当に空しいものになるということを、私自身、今日のふたつの聖句を通して肝に銘じたいと思わされたのです。本質を理解したところにこそ、神の豊かさというものを自分自身の喜びとすることができるのだと。
 
今日も神の公正と愛が私たちのすべてに、ご自分の言葉と聖霊の導きによって注がれます。その注ぎを、私たちは自分自身をよく確かめながら、受け取ることができますように。皆さんの一切に、主の守りと平安がともに、豊かにありますように。お祈りします。

06/08/2025

2025.8.6(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章1節
主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一14章15節
私は霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
仙台は曇り空の朝を迎えました。仙台の街は昨日から夏祭りが始まりました。昨晩の花火大会、そして今日からは仙台七夕が始まります。そのなかで、ちょうど50年前から七夕の一角に「平和七夕」の吹き流しが設けられています。広島と長崎の原爆倒壊をいつまでも記憶するために、祈りを込めて吹き流しの房の部分をすべて折り鶴でこしらえます。
 
おととい、私の働く仙台宮城野教会の礼拝堂で、平和七夕を長年続けて来られた油谷重雄さん(仙台北教会員)の指導のもと、市内の中高生、そしてこの時期に毎年ボランティアチームとして関わり続けて来られた明治学院大学東村山高校の佐藤飛文先生と生徒・卒業生の方々が、平和七夕で配る折り鶴のレイを製作されました。明学東村山チームは、随分前から仙台宮城野教会の礼拝堂に寝泊まりして、ボランティアに励んでおられます。私たちの教会にとっても、この時期の恒例行事となりました。このような行事が続くことを、私はただ宿泊場所を貸すだけの立場ではありますが、とても嬉しく、楽しいものであり、感謝の念にあふれるものとなっています。
 
今日は広島原爆投下80年を覚えて、朝からさまざまな報道がなされています。そして多くの祈りがささげられているのを目にしました。どんな信仰を抱いていても、祈る心というものを私たちは本能的に持ち合わせているということを、あらためて感じさせられました。そして、私たちも神に祈りをささげます。では、私たちの祈る祈りとはどのようなものなのかということを、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちに気付きを与える大きな助けになると私は受け止めました。
 
嬉しい時に、私たちはその喜びを神に向けることができます。感情が沸き起こった結果としての祈りは、その喜びを与えてくださった神をほめたたえるという行動を促します。今日の旧約聖書の言葉は、エジプト軍に追われていたイスラエルの民が、その恐怖から解放されたときにほとばしった喜びとともに語られたものです。私たちが喜べるのは神がそのように導いてくださったから。神の助けと力を実感した人々が、その感情をストレートに神に向けることができたのです。祈りとはそういう私たちの思いの大切な表現方法なのだと、あらためて思わされます。
 
と同時に、私たちは嬉しい時だけに祈る訳ではありません。苦しい時も、痛んだ時も、私たちは神に祈りを向けることができますし、神から見捨てられているのではないかと思う時、神に祈りたくないと思うときにも、私たちは自分自身の心のうちにあるものをじっくりと見つめつつ、どんな時にも私の命を支えられる神に、自分自身の理性をもって神に祈りをささげることができるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には、霊だけでなく理性をもって祈る時にこそ、神が神としておられることの実感を噛みしめることができるのだということを、私たちに示すものなのです。私たちは感情任せに神と向き合おうとすれば、そこには大きなムラが生じます。そのようなムラは誰にでもあることですが、それを放置しておくならば、私たちは都合の良い時だけに神へ向いてしまうのです。まさに私たちの感情が結果として神を利用してしまうことになるのでしょう。
 
しかし、そのような私たちの傾向のある無しにかかわらず、神は私たちとともに歩んでくださいます。そのことを理性をもって感じ取る時に、私たちは原爆投下のような惨事のなかにあっても、そういう時だからこそ祈る言葉というものが神によって与えられるのではないか。私はそういうことを是非期待したい、願いたいと今日の聖句を通して想わされました。
 
私たちの祈りをバランス良いものとしてくださる神とともに歩む幸いに、今日も私たちのひとりひとりが応じることができますように。祈りつつ、私たちのあいだに宿る平和を心から願いたいと思います。皆さんの今日の一日に、神が豊かに臨み、ともに歩んでくださいますように。お祈りします。

05/08/2025

2025.8.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記7章1~2節
主はモーセに言われた。「私が命じるすべてのことをあなたが告げなさい。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテの手紙二4章2節
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も暑い夏の一日を迎えています。今日は少し遅めに起きてゆっくりと過ごし、10時過ぎから仕事机に向かっています。今日も皆さんの御身体と心が神によって守られますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「預言」という言葉についてです。そのことを黙想したいと思います。
 
私たちが「よげん」という言葉を用いるときに、一般的に用いられている「予言」ではなく「預言」という言葉を用いているか。そこには神と私たちの関係性が物語っているからです。神の言葉を預かる。預言にはそのような意味を込めて用いられているということがあります。神の言葉を預かった私たちが、その預言をどのように受け止め、受け入れ、自分自身の心に置いて神の言葉と歩調を合わせながら自分自身の生き方とすることができるか。大切なものを預かったという意識こそ、私たちはその預かりものを大切にしていこう、守っていこうという気持ちが生まれるように、神の言葉もまた「預言」として大切にしていくという私たちの意識が生まれるのです。
 
もちろん、預言のなかには、将来的な方向性を指し示す「予言的な意味」も含まれていることも私たちはよく知っています。実際聖書をひもとくと、予言的な神の指し示しに私たちがどのように応答できるだろうかということを考えさせられる場合もしばしばあることも私たちはよく知っています。しかし、私たちは聖書の言葉を超えて、悪い言い方をすれば逸脱して、預言をとらえることもなければ、預言を語ることは決してできないのです。ましてや、予言をしてしまうことがあれば、その由来がどこにあるのかということすら、はなはだ怪しいものになってしまうのです。
 
先日、いのちのことば社のYouTubeチャンネルである「ぶんでんチャンネル」の企画で、預言という言葉についてお話しさせてもらう機会がありました。カルト宗教についての解説のなかで、健全な預言とはいったい何なのかということに因んで話したわけですが、こういう話をする際に、まず自分自身の語る言葉や行動というものが、本当に神の言葉の本質に由来しているだろうかということを、謙虚に捉えなければいけないということをあらためて痛感させられました。案外、自分自身の欲求であるとか感情を神の言葉を利用して、それを上乗せして、さも神の言葉のように語ってしまう場合が少なくないと、私は自戒を込めつつそういう危険性というものに常に気を付けなければならないと思わされるのです。
 
今日の聖書の言葉は、モーセも、パウロから勧めを受けているテモテもまた、神の言葉を伝える際には、必ずしも耳の聞こえの良いメッセージだけとは限らない場合があるのだということを前提にして、今日の聖書の言葉が語られているような気がしてなりません、実際にそうであったのです。神の言葉を預かった時に、その預かったものを自分なりにアレンジメントするのは良いにしても、その本質まで変容させて語ってしまうようなことがあれば、私たちは預言の誤用をしていることを、謙虚に受け止めなければならないのです。
 
聖霊の導きが預言を実質化させるのは間違いのないことです。しかし、その聖霊すら自分自身の感情によって曲解され、悪用されてしまうことのないように、あくまで神が与えてくださった良いものを、聖霊の良い導きを通して受け止めていきたい。そのように今日の聖書の言葉を通して感じさせられた次第です。
 
神の言葉を預かる時の幸いが、私たちの生き方につながっていきますように。そして世界が神の与えてくださる平和に包まれますように。お祈りします。

04/08/2025

2025.8.4(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章18節
主は公正の神であられる。
なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む者は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章5節
あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
土曜日、日曜日と黙想をお休みしました。土曜日は私の眼の調子が思わしくなく、パソコンになかなか向かうことができませんでした。静かにしていたこともあり、日曜日の務めも無事に果たすことができ、右眼の視力もかなり回復してきました。左眼の調子は相変わらずですが、必ず回復することを信じて、今週も歩んでまいりたいと思います。心配をし、祈ってくださった皆さまに心から感謝します。ありがとうございました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が黙想したいと思ったのは「公正」についてです。神の公正とはいったい何かについて黙想したいと思います。
 
国語辞典を見ると、公正とは「①公平で邪曲のないこと。②明白で正しいこと。」(広辞苑第七版)とあります。公平とは、誰にでも等分して与えることではなく、皆が同じ水準に立つことができるために、ある者には手厚く、ある者には足りる分だけを与えることであると私は理解しています。つまり、そこに神の公正さというものがあふれているのだと、日本語からも私は理解したいと思うのです。
 
では、今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書30章の御言葉にある「公正」とは何でしょうか。旧約聖書の原語では「ミシュパート(מִשְׁפָט)」という言葉が用いられています。旧訳聖書では、神のご性質を表す代表的な言葉としてしばしば用いられているものです。実にさまざまな意味で用いられているわけですが、それらの意味に共通するのは、神御自身がご自分の発された言葉と行い、それに裏打ちされた律法や預言の言葉に何の矛盾もなく、私たち人間の命をご自分の正しさによって取り扱われることによって、私たちもまた神とともに生きる幸いへと導かれる。そのために神はご自分の公正(ミシュパート)を執行されるということです。
 
つまり、神は自分自身の思想だけにとどまらず、ご自分が思われたことは私たち人間が誰も漏れることなく、少なくされることも多くされることもなく、必要なものを必要なときに、必要な分だけ、私たちの欲求にかかわらず神がこれで良しと思われたように私たちに行いをもって及ぼされるということなのです。
 
そこには私たちの望むところと別な神の応答というものがあるかもしれません。しかし、そこにこそ、神の深い知恵によって生み出される導きというものが存在するのだということを私は受け止めたいと思いました。その神の知恵というものを、私たちは自分自身の知恵を超えて働くものなのだということを、じっくりと考えつつ受け入れる者でありたい。今日の聖書の言葉はそんなことを私自身に思い起こさせるものでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、ヤコブの手紙の一節でした。神はご自分の知恵を惜しみなく求める者に与えてくださるのだと手紙には記されています。私たちが求めるのは私たちの欲求そのものではなく、その欲求に対して神はどのような思いをもって私たちに働きかけてくださるのかという知恵を理解し、それを受け入れようとする心なのでしょう。神の深いご計画に対する信頼の思いこそ、私たちを幸いな者として導いてくださる。そのことに私たちひとりひとりが心を寄せて生きる一日でありたい。そのように受け止めたいと思わされたのでした。
 
今日も神の知恵が私たちの限りある知恵を超えて働き、私たちとともに歩んでくださる神に感謝の思いを抱くことができますように。主にある守りと平安を心よりお祈りします。

01/08/2025

2025.8.1(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書14章22節
私たちの神、主よ
それはあなたではありませんか。
私たちはあなたを待ち望みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章11節
神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
8月を迎えました。この一か月間、私たちは夏の日々を楽しむさまざまな予定が待ち受けていると思います。そして、この8月は第二次世界大戦が終結して80年を迎えます。この特別なひと月、私たちは神の言葉に聴きつつ、あらためて自分自身の立ち位置というものを、神と向かい合う自分自身というものを確認してまいりたいと思います。皆さんの8月に、神の守りと平安がともにありますようにお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲン示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちの希望はどこにあるのか」というものでした。そのことをつづりたいと思います。
 
先ほど戦後80年と申しました。先の大戦を経験的に知り、また体験された方は本当に少なくなりました。私はもうすぐ50歳となりますが、まだ私が幼い頃はその当事者が今よりもたくさんいましたし、その時の経験というものをリアルに聞く機会がありました。私が思い出すに、その誰もが戦争で失われた命のいたましさ、戦争を通して味わった苦しみ、できるものならば、あんな辛い思いは二度としたくないという、偽らざる思いが伝えられたのだなと思うのです。
 
ですから、戦後の歩みというものは、まさに惨禍を繰り返してはならないという人々によって建てられ、つくりあげられていったことは間違いありません。人々の命を守るという点においては、方法論こそ違えど、どんな思想信条を持った人にとっても共通する願いなのだと思います。そのようななかで、戦後のキリスト教というものも歩みを今日まで続けてきたのだと思います。
 
私たちは何に希望を抱いて生きるのか。平和憲法か、政治システムか、経済か。そのどれもが大切なものであることに間違いありません。しかし、もっと根本的なところに私は希望を抱いていきたい。それがイエス・キリストその御方に他ならないのだと私はあらためて感じさせられています。イエスこそが、私たちの命を尊び、私たちに健全な命の道を与えてくださる御方であるということをです。
 
ただ、イエス・キリストを救い主と信じていても、私たちの具体的な表現方法は実に千差万別であることを思わされます。世界平和のために悪を駆逐することにこそ神の御心があると信じている人たちもいれば、誰もが好戦的にならない非暴力主義的な態度と姿勢こそ、神の御心なのだと思う人もいます。そして、それを解釈するのは私たち人間であるということに他なりません。まさに私たちの態度というものが問われているということなのです。
 
私の属する日本基督教団は第二次世界大戦中、戦争を推し進める国策に協力したという歴史を持っています。そのことへの評価はさまざまあれど、その事実が人々にどのような影響を与えたのかということを、私たちはキリストが与えてくださる平和とはいったい何なのだろうかというところに、誠実に心を寄せていく必要があるのだと思います。
 
それは単なる歴史評価にとどまりません。今生きる私の態度がどうなのかというところにこそ、キリストを希望とし、キリストによって生きることの意味と価値というものを見い出すために、無くてはならないものとなるのではないでしょうか。自分自身が生活のあらゆる場面において、つねに好戦的な態度を示して無用な傷を生ませようとするならば、私たちは本当に立ち止まって、キリストの平和というものを自分自身と照らし合わせて考えていく必要があるのでしょう。
 
このような時だからこそ、キリストがもたらす平和への希望というものを大切にしていきたいと思ったのです。そのことを胸にこの一か月間を、そして今日の一日を歩んでまいりたいと思いました。