31/08/2025

2025.8.31(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編2編12節
幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日で8月も最終日となりました。そして8月最後の主日です。
このひと月を振り返りながら、新しい一週間の始まりを迎える者として、今日の一日が良いスタートとなりますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンですが、実は先週日曜日(24日)に、今日のローズンゲンに示された聖句の黙想を掲載してしまいました。完全に私のミスだったのですが、今日はその時の黙想を再掲したいと思います。すでにお読みになられた方も多くおられるかと思いますが、お詫びとともにお付き合いくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
 
(以下、再掲文です)
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に進み出る」ということでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
 
私たちが神の御前に進み出る大前提に、神が私たちのために生きて働いてくださっているという事実があります。それは、私たちが神の御前に近づこうが近づかまいが、神は私たちのためにご自分の言葉と行いをもって、私たち人間を養い続けてくださっていることが聖書全体を通して私たちに伝えられていることです。
 
しかし、どんなに聖書に神のお働きが記されていたとしても、私たちがそのことを心からの実感としないかぎり、私たちは神に近づこうという発想は起きてこないのかもしれません。私たちにとって「神に近づく」とは何でしょうか。礼拝に出席することでしょうか。もちろんそれもあると思います。ただ、私たちが真剣に考えたいことは「礼拝する『心』がどこにあるのか」ということであると私は自戒を込めつつ思わされます。
 
礼拝というのは、神である主と出会うことが明らかにされる機会であり、それは賛美や祈りを通して、また神の言葉をいただきつつ、それをいかに自分自身の生きるために無くてはならない糧とすることができるかというところにこそ、礼拝の魅力や醍醐味というものが存在するのだと思います。神に近づくとは、単に物理的に教会へ足を運ぶことだけではなく、その中身がいかに私にとって必要なものなのかということが、常に問われているような気がするのです。
 
世界中の多くの教会では、日曜日に礼拝が行われることがあります。しかし、この日本においては、日曜日にさまざまな予定がひしめき合っているなかにあって、礼拝に出席し続けることが難しい場合もしばしばあることでしょう。だからこそ、私たちは考えたいのです。私たちの心がどこにあるのかということをです。
 
昔は教会も強気でした。主日礼拝厳守。礼拝に出られないのであれば、それを妨げる要素はすべて排除せよと。牧師が「主日礼拝に出られないような仕事をしているのであれば、そんな仕事など辞めてしまいなさい」などということもよく耳にしたことでした。しかし、今はそんな時代ではありません。そんなことを口にしたら、すぐにハラスメント問題、宗教虐待問題と騒がれてしまいます。
 
しかし、だからと言って「礼拝を大切にする」ということがないがしろにされるべきでもありません。それは強要されることでは決してなく、あくまで礼拝者本人の「判断と決断」の問題であるということなのです。その判断と決断のためには、私たちが常に「神の価値観」というものを身に付けつつ、私自身が神に近づく心というものを養い続けていくことが大切なのだ。今日のふたつの聖句はまさに、そのようなことを黙想させる御言葉だったのではないかと思えてならないのです。
 
今日の礼拝もまた、神が備えてくださいました。その備えに私たちがどのように応答することができるのだろうか。たとえ物理的に礼拝に出席することが叶わなかったとしても、私たちの心を問われる神に近づくことは可能なのです。その思いを大切にすることができますように。皆さんの新しい一週間に、神の守りと平安がともに豊かにありますことを、心からお祈りします。

30/08/2025

2025.8.30(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書38章16節
主よ、
私を健やかにし
どうか私を生かしてくださるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録28章8節
時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日はゆっくりと休んだこともあり、とても快活な朝を迎えることができました。暑い毎日が続きますので、どうか皆さんも健康が守られて、今日の一日を過ごすことができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちを健やかにしてくださる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちにとって健康とは何でしょうか。身体的な健康もさることながら、社会的な健康や精神的な健康、あと霊的な健康というものも含まれるのでしょう。どの健康も関連性があり連動性もあるわけです。精神的に健やかでないと感じる時には体調もおだやかでなくなることがしばしばあります。「病は気から」とはよく言ったものです。経済的な不安が気を病ませ、身体をも病ませることもあるでしょう。
 
そのようななかで、私たちは自分自身の健康というものをどのように守り、また保たせることができるのでしょうか。聖書が私たちに伝えていることは、いにしえからの信仰者が大切にしていたのは「私たちの神こそが健やかに命の日々を与えてくださる」というものでした。そのような思いが、今日の聖句の言葉にある通りに抱かせたのでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、ローマに送られることになった使徒パウロが、難破の末マルタ島にたどり着いたのち、この島で起きた神による奇跡について記された物語です。その出来事は確かに、命の危険に遭遇したパウロを神がしっかりと守り、その神がパウロを通して出会った人々の不安をも癒されていくものでした。この出来事にマルタ島に住む人たちも感嘆し、パウロがあがめる神、そして救い主イエス・キリストをほめたたえるにいたったのです。
 
私たちもさまざまな不安が日々訪れることでしょう。この世界で生きている限り、それらから100%解放されることは難しいのです。しかし、そのような難しさのなかにあっても、私たちの神は、必ずや私たちの命を守ってくださる。そんな希望にあふれたメッセージが聖書の言葉を通して私たちに与えられていくのです。この希望を与えてくださる神に、私たち一人ひとりもまた深い信頼を寄せる者でありたい。今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったことでした。
 
今日で一週間の歩みを終えようとしています。そして、明日からまた新しい一週間がやってきます。その備えの時として、今日の一日もまた、私たちを健やかにしてくださる神がともにおられることを心の柱として、歩んで行くことができますように。心からお祈りします。

29/08/2025

2025.8.29(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書37章16節
万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章3節
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日は朝から体調が思わしくありませんでしたので、ベッドで横になっておりました。休んだおかげで回復してまいりましたので、もう夕方近くになりましたが、今日の務めを始めたいと思います。暑い日々が続きますので、皆さんもお身体の調子が守られますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神がご自分の言葉を行動にされる方」というものです。別な言い方をすれば「有言実行である神」であるかもしれません。そのことをつづりたいと思います。
 
神が天地を創造されたときに「光あれ」という言葉から始まりました。この言葉によって、光が投じられて、秩序のもとに実にクリエイティブな神の行動が次々と起こされます。こうして、世界が調和を保ちながら祝福に満ちあふれた環境が完成していきます。ここに、神の創造の業における土台が建てられていきました。
 
この調和こそ、神が全世界を治められるにあたっての基本理念ですから、この調和にのっとって生きるならば、私たち人間社会も良い意味で創造的な、命が活かされ合えるような環境が生み出されるはずなのです。しかし、今の世界はあまりにも、そのような創造的な環境というものを阻害する要素が多すぎるのです。
 
その理由こそ、神の思いや願いが込められた言葉と私たちの行動が不一致しているからであると私は自戒を込めつつ思わされるのです。いわゆる「言行不一致」の環境こそ、私たちの環境にゆがみを与える元凶であることを、私たちは真摯に受け止めなければならないのだと反省させられるのではないでしょうか。
 
私たちは自分が生きるときに、何を柱にしていけばよいのでしょうか。今日の新約聖書の言葉には、天と地を造られた「言(ことば)」の存在について知らせています。これは、神御自身の行動の源である言葉そのものを表す言葉でもありますが、この福音書を書き記したヨハネは、この言こそ私たちのために命の救い主として遣わされた神の御子であることを示しています。神の御子とはまさに、イエス・キリストその御方に他なりません。
 
そのイエスが神の行いの基となる「言」となられているということは、私たちはイエス・キリストの生涯における言葉と行いを通して、神の調和に満ちあふれた環境を見ることができるのだということが大きな理解の助けになるということなのです。ですから、私たちはイエス・キリストこそ私たちの生きる柱なのだということを、何よりも大切にしたいと心から願いつつ、今日の聖句を受け止めてまいりたいと思ったのです。
 
イエスの言動に聴き、それを自分自身の生き方とする幸いが私たちのあいだに共有されることを、神は大いに助けてくださる。そんな思いをもって、今日の残りの時間と明日への備えの時となりますように。お祈りします。

28/08/2025

2025.8.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書62章3節
あなたは主の手の中で誉れある冠となり
神の手のひらの上で王冠となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章10節
招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨晩、無事に仙台へ戻ってまいりました。せっかくの関西でしたので、もう少しゆっくり過ごしたいという気持ちはあったのですが、少しでも身体を休ませる時期だとも思いましたので、おとなしく帰仙することにしました。今朝もゆっくりと目覚めて、新しい一日を迎えることができて感謝でした。今日から数日間、教会から休暇のときをいただきましたので、休みのひと時を楽しみたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「自分で良く見せなくても神は分かっていてくださる」ということについてでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られたたとえ話の一節です。宴会に招かれたら、最初から上座に座るのではなく、下座に座ることを選びなさいというものでした。日本人にとってこの勧めの言葉は、違和感なくスッと入る言葉であるかもしれません。しかし、私はこうも思います。どんなに謙遜なさまを行動で示したとて、私たちの「心」がそこにともなっているのだろうか、ということをです。
 
イエスはこのたとえ話を通して、「高ぶらなくても良いのだ」ということを教えていると私は受け止めました。どうして人は高ぶるのでしょうか。それは他者からそのように思われたいからかもしれません。人と比較して自分はこんなにすごいんだということを目に見えてアピールするために、私たちは目立つ行動をするのかもしれません。
 
しかし、イエスはそのような人間の行動に対して「そんなことをあえてしなくても、あなたの存在を理解してくださる方がいれば、それでいいのではないですか」ということを問われたかったのではないかと、私はこのたとえ話から聴き取りたいと思ったのです。この場合の理解者とは、私たちの神に他なりません。
 
見た目やこの世の中一般では決して目立つことなく、大した評価も得られないかもしれません。しかし、私たちを守られる神がおられるということによって私たちが安心を得るならば、何も人前で目立たなくても、そういうことをあえてしなかったとしても、その安心感というものを周囲は良いものとして見てくださるのではないかと私は思うのです。
 
人前での評価を気にする前に、主の御前にあって誠実に生きること。これは、今日の旧約聖書の言葉への私たちの応答なのかもしれません。そんな思いを抱きつつ、今日も与えられた一日を神である主とともに歩むことが出来ますように。皆さんの一切が神によって守られ、理解されるなかで、大きな喜びを味わうことができますように。お祈りします。

27/08/2025

2025.8.27(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章12節
子をいとおしむ父のように
主は愛する者を懲らしめる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章32節
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
月曜から行われていた牧師の研修会もいよいよ最終日となりました。昨日も書きましたが、この研修会に参加される牧師の皆さまから、講師の先生方から、一緒にこの研修会を準備してきた委員会の牧師たちから、大きな刺激を受けています。あらためて牧師としての原点に立たされた思いでいます。とても素敵な三日間を過ごすことができています。今日も家路に着く時までの一切が、神によって守られることをただただ祈るばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「懲らしめ」という言葉についてです。「主は愛する者を懲らしめる」という箴言の言葉を、私たちはどのように受け止め、この言葉に聴くことができるだろうか。そんなことを想いました。
 
懲らしめるという言葉を国語辞典で調べますと「制裁を加えて懲りるようにさせる」(広辞苑)とあります。このようなイメージをこの語に持つ者として、では私たちの神は、果たして私たちに制裁をあえて加えることによって、私たちに懲り懲りとした思いを与えるのだろうかと思ったのです。
 
そのことを考える助けとなるのが、今日の新約聖書の言葉であるルカ15章にある「放蕩息子のたとえ話」と呼ばれるイエスによる話です。親から財産の生前贈与を受けてその財産をすべて遊興のために使い果たしてしまった息子がいました。経済的にも身体的にも心情的にも、彼はとてもみじめな状況に立たされました。この状況を見て、私たちはこの息子に何を思うでしょうか。「自業自得だ」と思うのではないでしょうか。少なくとも私はそのように思うのです。
 
この自己責任を決して神に押し付けることはできないのです。いわゆる「他責思考」ではこの息子にとっては何の解決にもなりませんでした。みじめな状況に立たされることこそ、自分自身の情けなさに向き合わなければならない。これこそ懲らしめに相当する出来事だったのだと私は思います。決して神がいたずらに懲らしめられたわけではありません。自分自身の無力さに立たされた時点で、それは彼にとって十分な懲らしめを想うひと時となったのです。
 
大切なのは、神は自ら制裁を与えるのではなく、人間自身が懲らしめという言葉を自分自身のものとして深く感じることができるようにその人当人を見守ってくださる神がおられるということなのだと私は受け止めたいのです。人が自分自身の無力さに気付かされたときにこそ、神の愛があふれんばかりにその人に注がれるのです。今日の箴言の言葉にしろ、放蕩息子のたとえ話にしろ、その結末はその人を大切に守ってくださる方が、ご自分の愛をもって迫ってくださるということでした。
 
ですから、聖書で物語る懲らしめとは、懲らしめの先にある神の愛を見ることのできるものなのだということなのです。懲役のような上から降りかかってくるものではなく、自分自身の神と向き合う歩みのなかで、自分自身の心に気付かされるものである。そのことを心に刻みつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
皆さんの新しい一日も、神の愛が指し示す豊かさを感じ取る幸いに包まれますように。お祈りします。

26/08/2025

2025.8.26(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編121編5~6節
主はあなたを守る方。
主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。
昼、太陽があなたを打つことはなく
夜、月があなたを打つこともない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィレモンへの手紙3節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日から、私の所属する日本基督教団で開催されている「教師継続研修夏期研修会」に参加しています。私は主催者側としての参加ですが、それでも多くの学びの機会に恵まれています。この研修会に参加している方も、私と同様に教会の現場で牧師として働いておられる先生方です。それら先生との交流もとても楽しく、充実した時を過ごしています。
 
この研修会では、朝と夜にそれぞれ礼拝の時を持っています。今朝の礼拝は私が担当しました。そこで取り次いだ聖書の言葉が、今日のローズンゲンに示された詩編121編でした。そのことについて、以下つづりたいと思います。
 
詩編121編。それは「都へ上る歌」と呼ばれる、一連の詩編群の一部であり、おそらく都上りの歌のなかでもっとも有名な箇所なのだと思います。都上りとは、イスラエルの民たちがエルサレム神殿を目指して行われた巡礼の旅のことでした。それは単に、神殿詣でのことだけを意味しているのではありません。私たちの人生そのものが神と出会う巡礼の旅と言えるでしょう。
 
そのなかで、歌い手は「私の助けはどこから来るのか」と自問しています。この後の部分からも分かるように、私たちにとって巡礼の旅路である人生は、必ずしも順風満帆というわけにいきません。焼き付く太陽の光が容赦なく打ち付け、不気味な月光が私たちを不安へと陥れる。まさに私たちの人生には、災いやそれに対する不安がつねにつきまとっているのです。
 
だからこそ、私を見守り、助け、ともにいてくださる御方が明らかにおられることが、私自身の慰めなのだと。その方こそ、神である主その御方なのだということが、巡礼の旅路の途上にある人々によって歌われたのでした。それは神が生きて働いておられ、私たちのために今日も共にいてくださることに対する深い信頼ゆえに口からほとばしり出た詩だったのです。
 
詩編121編の中心にあるメッセージは「主の守り」です。主の守りとは、ドイツ語でHerrnhut(ヘルンフート)と言います。まさに、ローズンゲン発祥の信仰共同体が集った場こそ、主の守りに包まれ、歩んできたヘルンフート兄弟団でした。彼らの信仰生活も決して順風満帆なものではありませんでした。信仰的な迫害、信仰者同士の不和など、彼らを襲う災いの要素などいくらでもありました。
 
しかし、ある日彼らは気付かされました。自分たちをひとつにするのは、聖霊によって導かれた神の御言葉しかないのだ。これ以来、彼らはその日を生きる「合言葉」として、神の御心を求めるべく、祈ってくじを引き、その日を生きる聖書の言葉とした。これがローズンゲンの起源でした。この営みこそ、彼らを守る神があらゆる災いから遠ざけ、私たちを幸いな者としてくださるのである、と。
 
そんなことを今日のローズンゲンに示された御言葉をもって、その取り次ぎを行いました。今日も私たちの行く道を守られる神が、ともに豊かにおられますように。お祈りします。

25/08/2025

2025.8.25(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記28章2~3節
あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙4章3節
あなたが求めても得られないのは、自分の欲望のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日はそれぞれの場所で主の日を楽しまれたかと思います。私も朝と夕の2回の礼拝をいただくことができました。先週のこともありましたので、メッセージの準備は万全ではありませんでしたが、それでも礼拝をともにしてくださる教会の皆さんに励まされながら、とても素敵な一週間のスタートを切ることができました。感謝です。
 
そして、今日から水曜までの3日間、私の所属する教団のお仕事で京都に滞在します。久しぶりの京都はやはり暑いです。今、喫茶店からこの黙想をつづっているところですが、まわりには海外からの観光客の方々が多くおられます。是非旅行を満喫してほしいと心から願うばかりです。私は必ずしも体調が万全というわけではありませんが、この3日間ミニマムなところで、しかし心を込めてお務めに当たりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に示されたメッセージは、まさに対極をなすものであると言えるでしょう。私たちがどのような歩みを営むのか。私たちにそれぞれ与えられた自由意思のなかで、自分自身の判断と決断によって選び取っていくわけです。
 
私たちにとって自由とは「~する自由」と「~しない自由」というものがあります。何事もそうです。ですから、私たちが神を知り、神のなされていることを信じる自由もあれば、信じない自由もあるわけです。それは決して誰かから強要されることでは決してありません。
 
しかし、私たちはこうも考えたいのです。私たちはそれぞれに与えられた自由のなかで何かを選び取っていくわけですが、その「結果」がどのようなものとなるのか。その結果が私自身にとって何を意味するのか、私だけではなく他者にとって何をもたらし、どのような影響があるのだろうかということを、私たちは真剣かつ真摯に考えながら、自分自身の自由というものを謳歌していきたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、非常に痛烈な言葉であると言えるでしょう。求めても得られないのは、それを我がことのためだけに用いようとするよこしまな思いがあるからだと、この手紙の筆者は書きつづっています。これを「自由」という言葉に置き換えて考えてみることができます。私たちが傍若無人に振る舞い、他者の自由まで奪い取ってしまうような自由を行使しようとするならば、見かけには自由を手にしたように見えても、その先にある者は大変不自由な結果を招くのかもしれません。その自由はとても脆弱で不安定で、ちょっとしたことで崩れ落ちてしまうような自由なのです。それは、これまで自由を勝ち取ろうとした歴史が招く結末が如実に物語っているのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神の言葉に従うならば、どのような状況にあっても祝福されるのだということが記されています。こういう文章を読みますと「結局神に従わなければならないのならば、やはりそれは自由ではないのではないか」と思えることもあるでしょう。しかし、神はそうなることを聖書を通してご自分の言葉で知らせていたとしても、それを信じるか信じないかは、私たち人間の判断と決断にかかっているということなのです。
 
私たち人間の歴史、特に神と向き合う人間の歴史は、進路を選択する自由をめぐっての歴史であり、その結果を見る歴史であると言えるでしょう。そのような歴史のなかで、私たちもまた自分自身に与えられた命の日々のなかで、どのような選択をすることができるのでしょうか。そんなことに心を寄せつつ、新しく与えられた一日を歩むことが出来ますように。皆さんの主にある祝福をお祈りします。

24/08/2025

2025.8.24(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編2編12節
幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間が始まりました。猛暑が続くなかですが、どうか皆さんの健康が神である主によって守られますように。そして、世界中で行われる主の日の祝祭を通して、神の栄光が物語られて私たちの生きる糧となりますように。心よりお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に進み出る」ということでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
 
私たちが神の御前に進み出る大前提に、神が私たちのために生きて働いてくださっているという事実があります。それは、私たちが神の御前に近づこうが近づかまいが、神は私たちのためにご自分の言葉と行いをもって、私たち人間を養い続けてくださっていることが聖書全体を通して私たちに伝えられていることです。
 
しかし、どんなに聖書に神のお働きが記されていたとしても、私たちがそのことを心からの実感としないかぎり、私たちは神に近づこうという発想は起きてこないのかもしれません。私たちにとって「神に近づく」とは何でしょうか。礼拝に出席することでしょうか。もちろんそれもあると思います。ただ、私たちが真剣に考えたいことは「礼拝する『心』がどこにあるのか」ということであると私は自戒を込めつつ思わされます。
 
礼拝というのは、神である主と出会うことが明らかにされる機会であり、それは賛美や祈りを通して、また神の言葉をいただきつつ、それをいかに自分自身の生きるために無くてはならない糧とすることができるかというところにこそ、礼拝の魅力や醍醐味というものが存在するのだと思います。神に近づくとは、単に物理的に教会へ足を運ぶことだけではなく、その中身がいかに私にとって必要なものなのかということが、常に問われているような気がするのです。
 
世界中の多くの教会では、日曜日に礼拝が行われることがあります。しかし、この日本においては、日曜日にさまざまな予定がひしめき合っているなかにあって、礼拝に出席し続けることが難しい場合もしばしばあることでしょう。だからこそ、私たちは考えたいのです。私たちの心がどこにあるのかということをです。
 
昔は教会も強気でした。主日礼拝厳守。礼拝に出られないのであれば、それを妨げる要素はすべて排除せよと。牧師が「主日礼拝に出られないような仕事をしているのであれば、そんな仕事など辞めてしまいなさい」などということもよく耳にしたことでした。しかし、今はそんな時代ではありません。そんなことを口にしたら、すぐにハラスメント問題、宗教虐待問題と騒がれてしまいます。
 
しかし、だからと言って「礼拝を大切にする」ということがないがしろにされるべきでもありません。それは強要されることでは決してなく、あくまで礼拝者本人の「判断と決断」の問題であるということなのです。その判断と決断のためには、私たちが常に「神の価値観」というものを身に付けつつ、私自身が神に近づく心というものを養い続けていくことが大切なのだ。今日のふたつの聖句はまさに、そのようなことを黙想させる御言葉だったのではないかと思えてならないのです。
 
今日の礼拝もまた、神が備えてくださいました。その備えに私たちがどのように応答することができるのだろうか。たとえ物理的に礼拝に出席することが叶わなかったとしても、私たちの心を問われる神に近づくことは可能なのです。その思いを大切にすることができますように。皆さんの新しい一週間に、神の守りと平安がともに豊かにありますことを、心からお祈りします。

23/08/2025

2025.8.23(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ43章24~25節
あなたは私のために
あなたの罪で私に労苦させ
あなたの過ちで私を疲れさせた。
私、この私は、私自身のために
あなたの背きの罪を消し去り
あなたの罪を思い起こすことはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章17節
イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。
まず、皆さんにお祈りくださっていた入院と手術のことですが、無事に手術を終え、木曜日に退院してまいりました。皆さんのお祈りに、心から感謝申し上げます。さっそく張り切って昨日(金曜日)は仕事をしましたが、やはり術後の身体は万全ではなかったようで、今日は先ほどまでベッドで横になっておりました。午後も半ばを過ぎて、明日の準備に取り掛かられなければと思いましたので、遅ればせながらローズンゲンの黙想を最初に行おうと思いました。無理のない限り、黙想をお届けすることが出来る日は、お届けしたいと思っております。引き続きのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことがありました。それは「神はご自分のために、生きて働いておられるのだ」ということでした。そのことについてつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者イザヤを通して語られた神の言葉です。神がお選びになられたイスラエルの民たちは、ことあるごとに神とともに歩む道をないがしろにしてきたことが聖書に記されています。民たちはもしかしたら、神とともに歩むことをないがしろにしてきたという意識などなかったのかもしれません。しかし、その無自覚さが結果として神との関係が乖離するという結果を生み出してしまったのでした。
 
私も「神を信じています」とか「私はクリスチャンです」という自覚を抱きながらも、本当にその自覚は、神が期待しておられるその思いに沿ったものなのだろうかと、振り返させられることこそが大切な営みなのだとたびたび反省とともに思わされることがあります。前述のイスラエルの民のように、気づいた時にはとんでもなく神から離れている自分自身に気付かされるということも実際にあるからです。
 
私たちは神と直接会話をしたり、その息づかいというものを人と接するように感じ取ることが難しいかもしれません。だからこそ、神の言葉である聖書の言葉に丁寧に向き合い、そこに神の御心がどのようにあるかということに、心を寄せつつ、聖霊の助けをいただきながら、決して独り善がりになることなく、神の御声を聴き続けようとする真摯さというものが求められているのだとつくづく思わされるのです。
 
今日のイザヤ書にある神の声は、私たちのそのような無自覚さのせいで、神御自身が疲れてしまったことが伝えられます。私たちは神を疲れさせているなどということに対して、本当に無自覚な自分自身なのです。しかし、そんな私たちをお選びになった神は、ご自分の責任において私たち人間に、神と向き合う自覚に気付かせ、その自覚を養い育てるために、生きて働いてくださっておられるのです。
 
今日のイザヤ書のなかで、神は「あなたのために」、つまり私たちの罪を赦そうと神は言っておられないことに注目できます。神は「私のために」、つまり神御自身の責任が責任として果たされるために、私たちの罪を赦そうと告げてくださっているのです。この神の誠実さにこそ、私たちが生かされているのだということに、私は深く心を寄せて生きていきたい。そのように思わされた今日の聖句でした。
 
イエスが言われました。父なる神が働いておられるから私も働くのだと。この神の誠実に生かされてこそ、与えられた務めを神の御心とともに、神の助けによって果たしてまいりたいと心から願います。明日から新しい一週間が始まります。どうかその備えの時が、私自身の自覚を高めるひと時となりますように。神のお働きに心から感謝しつつ、皆さんの今日の残りの時にも、大きな守りt祝福がありますように。心からお祈りいたします。

18/08/2025

お知らせ


いつも「ローズンゲン黙想」をお読みくださり、ありがとうございます。

私事ですが、明日(19日)より入院をし、翌20日に心臓のカテーテル術を行います。21日に退院の予定で、短期間の入院ですのでさほど心配はしておりませんが、この間、いつもと違う生活が待ち受けておりますので、とりあえず明日より3日間、黙想をお休みいたします。
 
また元気になって帰ってまいりますので、ひきつづきのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。皆さんの一切にも、神の守りと平安がありますように。お祈りします。

齋藤 篤

2025.8.18(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ12章4節
もろもろの民にその業を知らせ
その名が崇められていることを告げよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章19~20節
あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日はそれぞれの教会や集会で、主の日の礼拝を楽しまれたことと思います。私も朝と夜の礼拝、そして午後には代務牧師を務めている教会での礼拝がありました。3回の礼拝はこの酷暑のなかでもありますからなかなかハードなのですが、聖書の言葉から神の語る幸いを告げることのできる喜びはやはり格別なのです。昨日は仙台にあるキリスト教主義学校の生徒さんたちも何名かいらしてくださいました。夏休みの宿題のための来会ですが、年に一回でも一緒に礼拝できることは本当にありがたく、嬉しいものです。去年の夏休みにも来てくださった方が(近所だからでしょうか)今年も来てくださいました。どうぞ素敵な夏休みの終わりを迎えてほしいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、いずれも「神のみわざを告げることへの幸い」を語っている言葉であると私は受け止めました。どうして聖書の言葉を伝えるのか、礼拝で聖書の言葉が語られるのだろうか。もちろん、そこには聖書の学びも含まれていることは間違いありません。しかし、学びは私たちの幸いのためにあるということを、少なくとも語る側が第一に据えていない限り、学びは単なる教養を得るということだけに終わってしまうでしょう。
 
教養を通して、私たちは神がどのような方であるかを知ることができますし、その神が私たちにとって何が幸せへの道なのかということのために、働いていてくださっている。この「みわざ」をひとりでも多くの方々に知ってもらいたいとの願いで礼拝が行われ、聖書の学びや祈りの集会が行われる。これこそ教会の大切な務めなのだと思わされます。
 
私自身、この基本に立ち返って、今週も神のみわざを喜びを携えながら伝えていきたい。そんなことを想わされました。大切な人に神を伝える喜びが、主とともに、皆さんとともにありますように。お祈りします。

17/08/2025

2025.8.17(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編90編10節
私たちのよわいは七十年
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙3章10節
私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間がやってきました。今日、世界中で祝われる主の日の一切に、そして各地でおこなわれる礼拝や集会のすべてに、神の守りと祝福が豊かにありますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「限りあるからこそ」というものでした。そのことを黙想としてつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデ王によって歌われた詩の一節です。人生の日々は豊かなものであっても、苦しみに満ちあふれていたとしても、その寿命は七十年か八十年。限りあるなかでその人生は過ぎ行くことを、彼自身の人生から感じ取ることのできる現実を歌ったものです。この世界は限りあるもの。無限などというものは存在しないのだと、私たち人間世界の限界というものを知る聖書の言葉として、言い継がれてきました。
 
私たちは「どうせ一度きりの人生だから」という言葉をしばしば用いることがあります。それは人生とは限りのあるものだという環境のなかで、それを当たり前のものとして受容していますから、そのような言葉が口から出るわけですし、そのことに疑いを挟む者など誰もいないのです。おそらくダビデもそのような現実のなかでこの詩を歌ったのでしょう。
 
しかし、ダビデは知っていました。私たちには限りはあるけれど、神は無限のなかで私たち人間とともに生きておられる御方なのだということをです。それは単に、人生八十年という物理的な人生の期間のことだけを述べているのではありません。私たちの感情や思考、行動によって出会うさまざまな出来事のなかで限界を感じることがあっても、私たちの神は無限と永遠のなかで生きておられる方なのだということへの、彼の信仰告白の言葉でもあったのです。
 
失われたものはそう簡単に帰って来ることはありません。しかし、神はご自分の無限のなかで、私たちにそのことを気づかせようとしてくださっている。このことが、後に御子イエス・キリストを通して「復活」という新しい概念を、私たち人間に知らせ、それをイエスの復活を通して実際に人々へ見せてくださったのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロによる手紙の一節です。彼は牢獄のなかにありました。ある意味で言えば夢も希望も失われておかしくない状況のなかで、パウロが手紙につづったのは、イエスの復活についてでした。イエスが私にとってのキリスト(救い主)であること、そのイエスが復活の主であることを「私は知りたい」と、パウロは切望しました。人間の限界ある思いを超えて働く神の永遠に、その神が与えてくださる祝福にあずかりたい。パウロの希望に満ちあふれる姿というものを、ここから読み取ることができるのだと私は思います。
 
私たちの限界があるからこそ、神が私たちのうちに光輝く。そんなことを胸にして、この新しい一週間を歩むことができますようにとお祈りします。私事ですが、今週は火曜から木曜まで心臓のカテーテル治療のため病院へ入院します。この入院と手術がその後を生きる希望となることを第一に置いて、その希望を与えてくださる神へ祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。もしできますならば、祈りの片隅に加えてくださいますと大変感謝です。どうぞよろしくお願いいたします。
 
皆さんの新しい一週間に、永遠なる神の守りと平安がともにありますように。お祈りします。

16/08/2025

2025.8.16(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記4章7節
もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求める。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章3~4節
イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今週も最終日を迎えました。明日への備えの一日として、皆さんが過ごされる一切に、神がともにおられることの幸いを振り返ることができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「罪」でした。罪という言葉は、聖書全体を貫く主要テーマのひとつであり、私たちは罪を知ってこそ、人間の姿、人間を造られ、守られる神の姿というものを見ることができるといっても、言い過ぎではないと私は思っています。
 
しかし、罪という言葉に対する私たちの理解がどのようなものか。このことを私たちはしっかりと見つめ続ける必要があるのだと思わされます。罪という言葉が非常に広い意味で用いられていることもありますし、私たちが暮らしている環境のなかで罪がどのように受容されているかによって、その環境に育まれている私たちの理解は千差万別と言っても良いかもしれません。だからこそ、聖書で語る罪について、私たちはそれを理解することは本当に大切であると言えるでしょう。
 
聖書で語る罪とは「神と歩調を合わせて歩むことのできない状態」であり、「神を必要としなくても生きていくことができる」という、私たちの意識その一点に尽きます。私たちの神は、人間が神の守りを必要とし、神の思いや願い(御心)に込められた価値観を人間自身の価値観とし、神とともに歩むことを望んでおられます。それが神が計画されている「幸いな道」だからです。
 
しかし、人間は神から与えられた「自由意思」をそのようには用いませんでした。神は人間に切なる願いを抱きながらも、それを強制執行されたわけではありませんでした。あくまで自由意思を与え、人間が各々の判断と決断によって生きることができるようにされたのでした。そして、人間は神に縛られたくないという「自由」を選択した結果、罪という状態をも同時に抱えることになったのです。何か悪いことをしたから罪なのではなく、そもそも聖書で言う罪という状態を抱えているからこそ、その罪が醸し出すゆがんだ言動が結果を生み出す。この結果こそが、一般的に言われている、目に見える犯罪などの罪であるというのです。
 
イエスを裏切ったイスカリオテのユダが、罪のない人(イエス)を売り渡したがゆえに罪を犯したということを告白しました。イエスが罪のない人であるという表現は、イエスが徹頭徹尾神の御心を自分の生き方として、一貫して歩んできたことを意味しています。そのイエスを、銀貨三十枚という私利のためにイエスを殺そうとする人たちに売り渡してしまったイスカリオテのユダは自分の利益だけを考えたのです。神がないがしろにされた結果だったのです。ですから、ユダ自身が罪を犯したと告白したのは、究極的にはイエスを裏切り、売り渡したというう行動自体のことではなく、神とともに歩むことよりも自分自身の利欲を優先しようとした意識そのものであったと言えるのです。裏切りはその意識の結果起きたものなのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、カインが弟アベルを殺してしまったなかで、神から告げられた言葉の一部です。カインがアベルを殺したから罪に定められたこともそうですが、それ以前にカインが神の御心を問うよりも、自分自身の心の内に起きたアベルへの嫉妬心というものが殺人という結果を生み出したのです。この嫉妬心こそ、カインが自分自身の思いを何よりも最優先した紛れもない証拠だったのです。
 
私たちがあえて罪の状態に自分自身を置くような選択をするのか、それともあくまで神とともに歩もうという選択をするのか。それは私たちに与えられた自由によって自分自身が判断と決断をすることにかかっています。そのなかで、神が聖書を通して私たちに願っておられることを知り、理解できるように助けてくださっている。そのことに私たちが心を寄せつつ、この週の最終日を過ごすことができるようにと祈ります。どうぞ皆さんにとって良き一日となりますように。

15/08/2025

2025.8.15(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編63編5節
命のあるかぎり、あなたをたたえ
その名によって、手を高く上げよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録3章9節
民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日はアジア・太平洋戦争が終結して80年を迎えました。この特別な節目の日に何を想うのか。そんなことを目覚めの時から思い巡らしていました。私は戦後30年余り経ってから生まれた人間ですし、戦争体験をしたことがありません。ただ幼い頃は戦争を実際に経験した方々が周りにまだたくさんおられました。あんな戦争はまっぴらごめんだとどの方もが口にされていたことを思い出しますし、人々の痛みと悲しみというものは、決して風化させてはならないのだということを強く感じさせられます。
 
今日の聖書の言葉に共通する話題は「神を賛美する」というものでした。私たちは賛美というものをどのようにとらえ、また自分自身のなかで無くてならないものとして受け止めているのだろうか。そんなことを想います。今日の新約聖書の言葉は、長い間足が不自由だったひとりの男が、使徒たちによって癒された後の行動について記されたものです。自分の不自由にともなう苦痛から解放されたときに、彼は神殿で神を賛美したと聖書はその時の様子をつづっています。神が決して自分のことを見捨ててなんかはいなかった。それを心から実感した彼は、その神をほめたたえたのでした。
 
私は、戦争の最中にあって神を崇拝するというのは、決してたやすいことではなかっただろうと思うのです。勇ましい戦況が景気よく叫ばれれば「神風が吹いた」と喜んでしまうのが私たち人間の偽らざる姿であるかもしれません。しかし、本当に苦しい時に「そこに神はおられるのか」という疑問が私たちを襲い、またつきまとうというのも私たちの心中にはよくあることなのだと思わされます。
 
しかし、そのような思いこそ、私たち人間の都合に合わせた神のシルエットなのかもしれません。実は神は私たち人間の世界が良くとも悪くとも、何ら変わることなくご自分の民を忍耐をもって見つめておられる。そして、どんな時にも私たちがあらゆる出来事に振り回されるかのように一喜一憂してしまう姿に、「本当の平安とは何か」ということを気づかせるために働いてくださっている。私たちの都合によらず、神はただご自分の良いものを私たちに与え続けているというのが、聖書全体を通して伝えようとしている神の御姿なのでしょう。
 
私たちは、いかなる時にも私たちの世界を、そして私たち個々人を見守ってくださっていることが分かった時に、賛美が本当の意味での私にとっての生きる力となることに気付かされていくのでしょう。賛美をするならば、そのような思いが根底にあっての賛美でありたいと心から願わされたのです。
 
無用な戦争が起きないために、起こさないために、賛美の歌を両手を挙げて神に向けて歌う一日でありますようにと祈ります。私たちの世界に今日も、神の平和が宿りますように。お祈りします。

14/08/2025

2025.8.14(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
民数記14章20節
主は言われた。「あなたの言葉のとおり、私は赦そう。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章25節
また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
ここ一週間、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。黙想する時間を十分に取ることができなかったのが一番の理由ですが、毎日行っていることが出来ないでいると、再開しようとするタイミングを逃してしまう私自身の弱さの問題もありました。眼が見えにくいことも(右眼はまったく問題なく見えています。左眼も少しずつではありますが、また回復し始めています。)、ここ数日で起きたパソコンやインターネット環境の不具合も相まって、負のスパイラルにはまり込んでしまった自分自身がありました。
 
この間、いつも黙想を楽しみにしてくださっている方々から心配や安否を問うメッセージをいただいたりもしました。本当に申し訳ない限りです。そして感謝の気持ちでいっぱいです。今朝起きたとき、神に祈るなかで気持ちを黙想をお届けするのを再開しますということを神にお伝えすることができました。神がこの弱い私を助けてくださる。そんなことを胸に抱きながら、黙想を再開したいと思います。どうぞお付き合いのほど、よろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神に赦されている者の生き方」ということについてでした。
 
神に赦されているというのは、神と向かい合うことができない(こういう状態のことを、聖書では「罪」と表現しています)自分自身に気付かされた時に、神と向かい合いたいと心から願う私たちのことを、神は両手を広げて私たちを招き、守り、養ってくださるということ全体を意味するのだと私は理解しています。
 
ごめんなさい。とてもいい言葉だと思います。この言葉は、謝罪するための言葉として用いられることも当然ですが、それ以上に、切れかかった関係性を回復することを願う言葉なのだと私はあらためて思わされました。
 
私は本当に相手に対して悪いことをしたと思うときに、ごめんなさいという言葉を口にします。しかし、それはこれまで築いてきた関係性が続くのを願ってのことでもあります。それは自分の利益だけのためではありません。この関係性を築かせてくださったのは私たちの神であることを心から信じているからです。
 
ただ、ごめんなさいという言葉を口にしても、許されないことも結構多いのです。いつまでも恨みのなかにあって許されない経験というものが、いつまでも自分自身のなかで苦味をほとばしらせながら残っている私自身があることを自覚しますし、その逆もしかりなのです。人間関係というものは本当に難しいものだと痛感させられるのです。
 
しかし、私たちは神に真摯に向き合い、その関係性のなかで健やかに生きたいと願う時に、今日の聖句のように神は破れかかった関係性を繕い、回復させ、つながってくださるのです!この神の寛大さを目の前にして、何と自分自身はちっぽけな存在なのだろうかと思わずにはいられないのです。
 
私たちは神のような寛大さを示せないかもしれません。しかし、神に対するあこがれはイエスが示してくださった生き方を自分自身のあこがれでもあり、イエスが私たちのための回復・復活の主となられたことに私たちが心を寄せつつ、少しでも赦しということを真剣にとらえていきたい。そのように思わされたのでした。
 
神に赦されていることが一体どういうことなのかを、今一度考えるための素晴らしい一日となりますように。敗れた関係性に光を当て、それを修復してくださる神とともに歩む一日が、祝福に満たされたものでありますように。心からお祈りします。

07/08/2025

2025.8.7(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハガイ書1章9節
あなたがたは多くの収穫を期待したが
それは僅かであった。
あなたがたが家へ持ち帰ると
私はそれを吹き飛ばした。
それはなぜなのか――万軍の主の仰せ。
それは、私の神殿が廃虚のままであるのに
あなたがたが、それぞれ自分の家のために
走り回っているからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章42節
あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もなおざりにはできないが。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
ここのところ、雨が降ったり止んだりが続いています。猛暑が続き日照りがかえって農作物に悪影響を与えていることもありますので、この雨が少しでも恵みの雨になることを祈るばかりです。どうか、この雨が少しでも私たちの安心となりますように。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちは何のために神に献げるか」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書も新約聖書の言葉も、ひとつの「警告」を私たちのうちに思い起こさせるものです。ひと言でいえば、私たちは自分の名誉やプライド、世の中の承認欲求を得るために献げるという行為をしているわけではない、ということです。
 
私たちの目に見える行為というものは、他者にさまざまな印象や影響を与えます。何か一生懸命すれば、誰かの賞賛を得ることができるでしょう。多くを献げれば、あの人はすごいという風になるわけです。しかし、それは本来、神の御心を受け止め、その応答となされた時の結果論としてそうなるならばまだしても、賞賛を得ることを目的としてしまったのでは、それこそ本末転倒である。今日の聖句はそのことを如実に物語っているのです。
 
神殿が廃墟であるのに、それでもあなたがたは自分の家に走り回る。預言者ハガイが神から預かった言葉です。つまり、神殿を廃墟にしてしまうくらいに、神の思いに眼を向けることなく、自分の利益のために走り回るとすれば、それは見せかけのパフォーマンスに過ぎないということを痛烈に伝えているのです。まるで張り子の虎のように、何の意味ももたらさないのです。
 
神が私たちをご自分の公正さをもって愛してくださっているというその本質を、私たちはどれほど受け止めているのだろうか。真摯に自分の生き方としてその愛と公正を受け取っているだろうか。そして自分自身の生きる柱としているだろうか。とても厳しく、しかしそこに私たちの命をご自分の道へと導きたいと心から願っている神の真意があることを、私は決して忘れてはいけないのだ。そのように思わされたのです。
 
同様のことがイエスによっても語られています。ファリサイ派の人たちの行為は外目には立派かもしれないけれど、そこに中身が伴わなければ何の意味も無いのだと。それならば、パフォーマンスを目的とする行為など必要ないと言わんばかりの思いをもって、ファリサイ派の行いというものを痛烈に批判しているのです。必要なのは神の公正と愛に裏打ちされた、内面からにじみ出てくる生き方そのものなのだと。
 
だからと言って、アウトローで良いということをイエスは言っているわけではありません。神が期待されていることを、その心で受け止めた結果行われる私たちの生き方こそ、大切なのだということを言いたかったのです。イエスにとってそれは、神がモーセを通して与えられた律法の言葉を大切にすることでした。大切にするとは文字面を超えた本質を理解して、それを自分自身の礎とすることだったのです。
 
私たちは聖書の言葉を文字通り受け止めることができるかもしれません。それを受け入れることも大切でしょう。しかし、内面の伴わない状態で言葉がひとり歩きしてしまうような用い方をしてしまうならば、それは本当に空しいものになるということを、私自身、今日のふたつの聖句を通して肝に銘じたいと思わされたのです。本質を理解したところにこそ、神の豊かさというものを自分自身の喜びとすることができるのだと。
 
今日も神の公正と愛が私たちのすべてに、ご自分の言葉と聖霊の導きによって注がれます。その注ぎを、私たちは自分自身をよく確かめながら、受け取ることができますように。皆さんの一切に、主の守りと平安がともに、豊かにありますように。お祈りします。

06/08/2025

2025.8.6(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章1節
主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一14章15節
私は霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
仙台は曇り空の朝を迎えました。仙台の街は昨日から夏祭りが始まりました。昨晩の花火大会、そして今日からは仙台七夕が始まります。そのなかで、ちょうど50年前から七夕の一角に「平和七夕」の吹き流しが設けられています。広島と長崎の原爆倒壊をいつまでも記憶するために、祈りを込めて吹き流しの房の部分をすべて折り鶴でこしらえます。
 
おととい、私の働く仙台宮城野教会の礼拝堂で、平和七夕を長年続けて来られた油谷重雄さん(仙台北教会員)の指導のもと、市内の中高生、そしてこの時期に毎年ボランティアチームとして関わり続けて来られた明治学院大学東村山高校の佐藤飛文先生と生徒・卒業生の方々が、平和七夕で配る折り鶴のレイを製作されました。明学東村山チームは、随分前から仙台宮城野教会の礼拝堂に寝泊まりして、ボランティアに励んでおられます。私たちの教会にとっても、この時期の恒例行事となりました。このような行事が続くことを、私はただ宿泊場所を貸すだけの立場ではありますが、とても嬉しく、楽しいものであり、感謝の念にあふれるものとなっています。
 
今日は広島原爆投下80年を覚えて、朝からさまざまな報道がなされています。そして多くの祈りがささげられているのを目にしました。どんな信仰を抱いていても、祈る心というものを私たちは本能的に持ち合わせているということを、あらためて感じさせられました。そして、私たちも神に祈りをささげます。では、私たちの祈る祈りとはどのようなものなのかということを、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちに気付きを与える大きな助けになると私は受け止めました。
 
嬉しい時に、私たちはその喜びを神に向けることができます。感情が沸き起こった結果としての祈りは、その喜びを与えてくださった神をほめたたえるという行動を促します。今日の旧約聖書の言葉は、エジプト軍に追われていたイスラエルの民が、その恐怖から解放されたときにほとばしった喜びとともに語られたものです。私たちが喜べるのは神がそのように導いてくださったから。神の助けと力を実感した人々が、その感情をストレートに神に向けることができたのです。祈りとはそういう私たちの思いの大切な表現方法なのだと、あらためて思わされます。
 
と同時に、私たちは嬉しい時だけに祈る訳ではありません。苦しい時も、痛んだ時も、私たちは神に祈りを向けることができますし、神から見捨てられているのではないかと思う時、神に祈りたくないと思うときにも、私たちは自分自身の心のうちにあるものをじっくりと見つめつつ、どんな時にも私の命を支えられる神に、自分自身の理性をもって神に祈りをささげることができるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には、霊だけでなく理性をもって祈る時にこそ、神が神としておられることの実感を噛みしめることができるのだということを、私たちに示すものなのです。私たちは感情任せに神と向き合おうとすれば、そこには大きなムラが生じます。そのようなムラは誰にでもあることですが、それを放置しておくならば、私たちは都合の良い時だけに神へ向いてしまうのです。まさに私たちの感情が結果として神を利用してしまうことになるのでしょう。
 
しかし、そのような私たちの傾向のある無しにかかわらず、神は私たちとともに歩んでくださいます。そのことを理性をもって感じ取る時に、私たちは原爆投下のような惨事のなかにあっても、そういう時だからこそ祈る言葉というものが神によって与えられるのではないか。私はそういうことを是非期待したい、願いたいと今日の聖句を通して想わされました。
 
私たちの祈りをバランス良いものとしてくださる神とともに歩む幸いに、今日も私たちのひとりひとりが応じることができますように。祈りつつ、私たちのあいだに宿る平和を心から願いたいと思います。皆さんの今日の一日に、神が豊かに臨み、ともに歩んでくださいますように。お祈りします。

05/08/2025

2025.8.5(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記7章1~2節
主はモーセに言われた。「私が命じるすべてのことをあなたが告げなさい。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテの手紙二4章2節
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日も暑い夏の一日を迎えています。今日は少し遅めに起きてゆっくりと過ごし、10時過ぎから仕事机に向かっています。今日も皆さんの御身体と心が神によって守られますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「預言」という言葉についてです。そのことを黙想したいと思います。
 
私たちが「よげん」という言葉を用いるときに、一般的に用いられている「予言」ではなく「預言」という言葉を用いているか。そこには神と私たちの関係性が物語っているからです。神の言葉を預かる。預言にはそのような意味を込めて用いられているということがあります。神の言葉を預かった私たちが、その預言をどのように受け止め、受け入れ、自分自身の心に置いて神の言葉と歩調を合わせながら自分自身の生き方とすることができるか。大切なものを預かったという意識こそ、私たちはその預かりものを大切にしていこう、守っていこうという気持ちが生まれるように、神の言葉もまた「預言」として大切にしていくという私たちの意識が生まれるのです。
 
もちろん、預言のなかには、将来的な方向性を指し示す「予言的な意味」も含まれていることも私たちはよく知っています。実際聖書をひもとくと、予言的な神の指し示しに私たちがどのように応答できるだろうかということを考えさせられる場合もしばしばあることも私たちはよく知っています。しかし、私たちは聖書の言葉を超えて、悪い言い方をすれば逸脱して、預言をとらえることもなければ、預言を語ることは決してできないのです。ましてや、予言をしてしまうことがあれば、その由来がどこにあるのかということすら、はなはだ怪しいものになってしまうのです。
 
先日、いのちのことば社のYouTubeチャンネルである「ぶんでんチャンネル」の企画で、預言という言葉についてお話しさせてもらう機会がありました。カルト宗教についての解説のなかで、健全な預言とはいったい何なのかということに因んで話したわけですが、こういう話をする際に、まず自分自身の語る言葉や行動というものが、本当に神の言葉の本質に由来しているだろうかということを、謙虚に捉えなければいけないということをあらためて痛感させられました。案外、自分自身の欲求であるとか感情を神の言葉を利用して、それを上乗せして、さも神の言葉のように語ってしまう場合が少なくないと、私は自戒を込めつつそういう危険性というものに常に気を付けなければならないと思わされるのです。
 
今日の聖書の言葉は、モーセも、パウロから勧めを受けているテモテもまた、神の言葉を伝える際には、必ずしも耳の聞こえの良いメッセージだけとは限らない場合があるのだということを前提にして、今日の聖書の言葉が語られているような気がしてなりません、実際にそうであったのです。神の言葉を預かった時に、その預かったものを自分なりにアレンジメントするのは良いにしても、その本質まで変容させて語ってしまうようなことがあれば、私たちは預言の誤用をしていることを、謙虚に受け止めなければならないのです。
 
聖霊の導きが預言を実質化させるのは間違いのないことです。しかし、その聖霊すら自分自身の感情によって曲解され、悪用されてしまうことのないように、あくまで神が与えてくださった良いものを、聖霊の良い導きを通して受け止めていきたい。そのように今日の聖書の言葉を通して感じさせられた次第です。
 
神の言葉を預かる時の幸いが、私たちの生き方につながっていきますように。そして世界が神の与えてくださる平和に包まれますように。お祈りします。

04/08/2025

2025.8.4(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章18節
主は公正の神であられる。
なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む者は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章5節
あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
土曜日、日曜日と黙想をお休みしました。土曜日は私の眼の調子が思わしくなく、パソコンになかなか向かうことができませんでした。静かにしていたこともあり、日曜日の務めも無事に果たすことができ、右眼の視力もかなり回復してきました。左眼の調子は相変わらずですが、必ず回復することを信じて、今週も歩んでまいりたいと思います。心配をし、祈ってくださった皆さまに心から感謝します。ありがとうございました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が黙想したいと思ったのは「公正」についてです。神の公正とはいったい何かについて黙想したいと思います。
 
国語辞典を見ると、公正とは「①公平で邪曲のないこと。②明白で正しいこと。」(広辞苑第七版)とあります。公平とは、誰にでも等分して与えることではなく、皆が同じ水準に立つことができるために、ある者には手厚く、ある者には足りる分だけを与えることであると私は理解しています。つまり、そこに神の公正さというものがあふれているのだと、日本語からも私は理解したいと思うのです。
 
では、今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書30章の御言葉にある「公正」とは何でしょうか。旧約聖書の原語では「ミシュパート(מִשְׁפָט)」という言葉が用いられています。旧訳聖書では、神のご性質を表す代表的な言葉としてしばしば用いられているものです。実にさまざまな意味で用いられているわけですが、それらの意味に共通するのは、神御自身がご自分の発された言葉と行い、それに裏打ちされた律法や預言の言葉に何の矛盾もなく、私たち人間の命をご自分の正しさによって取り扱われることによって、私たちもまた神とともに生きる幸いへと導かれる。そのために神はご自分の公正(ミシュパート)を執行されるということです。
 
つまり、神は自分自身の思想だけにとどまらず、ご自分が思われたことは私たち人間が誰も漏れることなく、少なくされることも多くされることもなく、必要なものを必要なときに、必要な分だけ、私たちの欲求にかかわらず神がこれで良しと思われたように私たちに行いをもって及ぼされるということなのです。
 
そこには私たちの望むところと別な神の応答というものがあるかもしれません。しかし、そこにこそ、神の深い知恵によって生み出される導きというものが存在するのだということを私は受け止めたいと思いました。その神の知恵というものを、私たちは自分自身の知恵を超えて働くものなのだということを、じっくりと考えつつ受け入れる者でありたい。今日の聖書の言葉はそんなことを私自身に思い起こさせるものでした。
 
今日の新約聖書の言葉は、ヤコブの手紙の一節でした。神はご自分の知恵を惜しみなく求める者に与えてくださるのだと手紙には記されています。私たちが求めるのは私たちの欲求そのものではなく、その欲求に対して神はどのような思いをもって私たちに働きかけてくださるのかという知恵を理解し、それを受け入れようとする心なのでしょう。神の深いご計画に対する信頼の思いこそ、私たちを幸いな者として導いてくださる。そのことに私たちひとりひとりが心を寄せて生きる一日でありたい。そのように受け止めたいと思わされたのでした。
 
今日も神の知恵が私たちの限りある知恵を超えて働き、私たちとともに歩んでくださる神に感謝の思いを抱くことができますように。主にある守りと平安を心よりお祈りします。

01/08/2025

2025.8.1(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書14章22節
私たちの神、主よ
それはあなたではありませんか。
私たちはあなたを待ち望みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章11節
神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
8月を迎えました。この一か月間、私たちは夏の日々を楽しむさまざまな予定が待ち受けていると思います。そして、この8月は第二次世界大戦が終結して80年を迎えます。この特別なひと月、私たちは神の言葉に聴きつつ、あらためて自分自身の立ち位置というものを、神と向かい合う自分自身というものを確認してまいりたいと思います。皆さんの8月に、神の守りと平安がともにありますようにお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲン示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちの希望はどこにあるのか」というものでした。そのことをつづりたいと思います。
 
先ほど戦後80年と申しました。先の大戦を経験的に知り、また体験された方は本当に少なくなりました。私はもうすぐ50歳となりますが、まだ私が幼い頃はその当事者が今よりもたくさんいましたし、その時の経験というものをリアルに聞く機会がありました。私が思い出すに、その誰もが戦争で失われた命のいたましさ、戦争を通して味わった苦しみ、できるものならば、あんな辛い思いは二度としたくないという、偽らざる思いが伝えられたのだなと思うのです。
 
ですから、戦後の歩みというものは、まさに惨禍を繰り返してはならないという人々によって建てられ、つくりあげられていったことは間違いありません。人々の命を守るという点においては、方法論こそ違えど、どんな思想信条を持った人にとっても共通する願いなのだと思います。そのようななかで、戦後のキリスト教というものも歩みを今日まで続けてきたのだと思います。
 
私たちは何に希望を抱いて生きるのか。平和憲法か、政治システムか、経済か。そのどれもが大切なものであることに間違いありません。しかし、もっと根本的なところに私は希望を抱いていきたい。それがイエス・キリストその御方に他ならないのだと私はあらためて感じさせられています。イエスこそが、私たちの命を尊び、私たちに健全な命の道を与えてくださる御方であるということをです。
 
ただ、イエス・キリストを救い主と信じていても、私たちの具体的な表現方法は実に千差万別であることを思わされます。世界平和のために悪を駆逐することにこそ神の御心があると信じている人たちもいれば、誰もが好戦的にならない非暴力主義的な態度と姿勢こそ、神の御心なのだと思う人もいます。そして、それを解釈するのは私たち人間であるということに他なりません。まさに私たちの態度というものが問われているということなのです。
 
私の属する日本基督教団は第二次世界大戦中、戦争を推し進める国策に協力したという歴史を持っています。そのことへの評価はさまざまあれど、その事実が人々にどのような影響を与えたのかということを、私たちはキリストが与えてくださる平和とはいったい何なのだろうかというところに、誠実に心を寄せていく必要があるのだと思います。
 
それは単なる歴史評価にとどまりません。今生きる私の態度がどうなのかというところにこそ、キリストを希望とし、キリストによって生きることの意味と価値というものを見い出すために、無くてはならないものとなるのではないでしょうか。自分自身が生活のあらゆる場面において、つねに好戦的な態度を示して無用な傷を生ませようとするならば、私たちは本当に立ち止まって、キリストの平和というものを自分自身と照らし合わせて考えていく必要があるのでしょう。
 
このような時だからこそ、キリストがもたらす平和への希望というものを大切にしていきたいと思ったのです。そのことを胸にこの一か月間を、そして今日の一日を歩んでまいりたいと思いました。