くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記7章1~2節
主はモーセに言われた。「私が命じるすべてのことをあなたが告げなさい。」
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテの手紙二4章2節
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
今日も暑い夏の一日を迎えています。今日は少し遅めに起きてゆっくりと過ごし、10時過ぎから仕事机に向かっています。今日も皆さんの御身体と心が神によって守られますように。お祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「預言」という言葉についてです。そのことを黙想したいと思います。
私たちが「よげん」という言葉を用いるときに、一般的に用いられている「予言」ではなく「預言」という言葉を用いているか。そこには神と私たちの関係性が物語っているからです。神の言葉を預かる。預言にはそのような意味を込めて用いられているということがあります。神の言葉を預かった私たちが、その預言をどのように受け止め、受け入れ、自分自身の心に置いて神の言葉と歩調を合わせながら自分自身の生き方とすることができるか。大切なものを預かったという意識こそ、私たちはその預かりものを大切にしていこう、守っていこうという気持ちが生まれるように、神の言葉もまた「預言」として大切にしていくという私たちの意識が生まれるのです。
もちろん、預言のなかには、将来的な方向性を指し示す「予言的な意味」も含まれていることも私たちはよく知っています。実際聖書をひもとくと、予言的な神の指し示しに私たちがどのように応答できるだろうかということを考えさせられる場合もしばしばあることも私たちはよく知っています。しかし、私たちは聖書の言葉を超えて、悪い言い方をすれば逸脱して、預言をとらえることもなければ、預言を語ることは決してできないのです。ましてや、予言をしてしまうことがあれば、その由来がどこにあるのかということすら、はなはだ怪しいものになってしまうのです。
先日、いのちのことば社のYouTubeチャンネルである「ぶんでんチャンネル」の企画で、預言という言葉についてお話しさせてもらう機会がありました。カルト宗教についての解説のなかで、健全な預言とはいったい何なのかということに因んで話したわけですが、こういう話をする際に、まず自分自身の語る言葉や行動というものが、本当に神の言葉の本質に由来しているだろうかということを、謙虚に捉えなければいけないということをあらためて痛感させられました。案外、自分自身の欲求であるとか感情を神の言葉を利用して、それを上乗せして、さも神の言葉のように語ってしまう場合が少なくないと、私は自戒を込めつつそういう危険性というものに常に気を付けなければならないと思わされるのです。
今日の聖書の言葉は、モーセも、パウロから勧めを受けているテモテもまた、神の言葉を伝える際には、必ずしも耳の聞こえの良いメッセージだけとは限らない場合があるのだということを前提にして、今日の聖書の言葉が語られているような気がしてなりません、実際にそうであったのです。神の言葉を預かった時に、その預かったものを自分なりにアレンジメントするのは良いにしても、その本質まで変容させて語ってしまうようなことがあれば、私たちは預言の誤用をしていることを、謙虚に受け止めなければならないのです。
聖霊の導きが預言を実質化させるのは間違いのないことです。しかし、その聖霊すら自分自身の感情によって曲解され、悪用されてしまうことのないように、あくまで神が与えてくださった良いものを、聖霊の良い導きを通して受け止めていきたい。そのように今日の聖書の言葉を通して感じさせられた次第です。
神の言葉を預かる時の幸いが、私たちの生き方につながっていきますように。そして世界が神の与えてくださる平和に包まれますように。お祈りします。
牧師 斎藤 篤先生の健康が守られますように!
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