くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書14章22節
私たちの神、主よ
それはあなたではありませんか。
私たちはあなたを待ち望みます。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章11節
神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
8月を迎えました。この一か月間、私たちは夏の日々を楽しむさまざまな予定が待ち受けていると思います。そして、この8月は第二次世界大戦が終結して80年を迎えます。この特別なひと月、私たちは神の言葉に聴きつつ、あらためて自分自身の立ち位置というものを、神と向かい合う自分自身というものを確認してまいりたいと思います。皆さんの8月に、神の守りと平安がともにありますようにお祈りします。
さて、今日のローズンゲン示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちの希望はどこにあるのか」というものでした。そのことをつづりたいと思います。
先ほど戦後80年と申しました。先の大戦を経験的に知り、また体験された方は本当に少なくなりました。私はもうすぐ50歳となりますが、まだ私が幼い頃はその当事者が今よりもたくさんいましたし、その時の経験というものをリアルに聞く機会がありました。私が思い出すに、その誰もが戦争で失われた命のいたましさ、戦争を通して味わった苦しみ、できるものならば、あんな辛い思いは二度としたくないという、偽らざる思いが伝えられたのだなと思うのです。
ですから、戦後の歩みというものは、まさに惨禍を繰り返してはならないという人々によって建てられ、つくりあげられていったことは間違いありません。人々の命を守るという点においては、方法論こそ違えど、どんな思想信条を持った人にとっても共通する願いなのだと思います。そのようななかで、戦後のキリスト教というものも歩みを今日まで続けてきたのだと思います。
私たちは何に希望を抱いて生きるのか。平和憲法か、政治システムか、経済か。そのどれもが大切なものであることに間違いありません。しかし、もっと根本的なところに私は希望を抱いていきたい。それがイエス・キリストその御方に他ならないのだと私はあらためて感じさせられています。イエスこそが、私たちの命を尊び、私たちに健全な命の道を与えてくださる御方であるということをです。
ただ、イエス・キリストを救い主と信じていても、私たちの具体的な表現方法は実に千差万別であることを思わされます。世界平和のために悪を駆逐することにこそ神の御心があると信じている人たちもいれば、誰もが好戦的にならない非暴力主義的な態度と姿勢こそ、神の御心なのだと思う人もいます。そして、それを解釈するのは私たち人間であるということに他なりません。まさに私たちの態度というものが問われているということなのです。
私の属する日本基督教団は第二次世界大戦中、戦争を推し進める国策に協力したという歴史を持っています。そのことへの評価はさまざまあれど、その事実が人々にどのような影響を与えたのかということを、私たちはキリストが与えてくださる平和とはいったい何なのだろうかというところに、誠実に心を寄せていく必要があるのだと思います。
それは単なる歴史評価にとどまりません。今生きる私の態度がどうなのかというところにこそ、キリストを希望とし、キリストによって生きることの意味と価値というものを見い出すために、無くてはならないものとなるのではないでしょうか。自分自身が生活のあらゆる場面において、つねに好戦的な態度を示して無用な傷を生ませようとするならば、私たちは本当に立ち止まって、キリストの平和というものを自分自身と照らし合わせて考えていく必要があるのでしょう。
このような時だからこそ、キリストがもたらす平和への希望というものを大切にしていきたいと思ったのです。そのことを胸にこの一か月間を、そして今日の一日を歩んでまいりたいと思いました。
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