くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書62章3節
あなたは主の手の中で誉れある冠となり
神の手のひらの上で王冠となる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章10節
招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さんおはようございます。
昨晩、無事に仙台へ戻ってまいりました。せっかくの関西でしたので、もう少しゆっくり過ごしたいという気持ちはあったのですが、少しでも身体を休ませる時期だとも思いましたので、おとなしく帰仙することにしました。今朝もゆっくりと目覚めて、新しい一日を迎えることができて感謝でした。今日から数日間、教会から休暇のときをいただきましたので、休みのひと時を楽しみたいと思います。
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「自分で良く見せなくても神は分かっていてくださる」ということについてでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られたたとえ話の一節です。宴会に招かれたら、最初から上座に座るのではなく、下座に座ることを選びなさいというものでした。日本人にとってこの勧めの言葉は、違和感なくスッと入る言葉であるかもしれません。しかし、私はこうも思います。どんなに謙遜なさまを行動で示したとて、私たちの「心」がそこにともなっているのだろうか、ということをです。
イエスはこのたとえ話を通して、「高ぶらなくても良いのだ」ということを教えていると私は受け止めました。どうして人は高ぶるのでしょうか。それは他者からそのように思われたいからかもしれません。人と比較して自分はこんなにすごいんだということを目に見えてアピールするために、私たちは目立つ行動をするのかもしれません。
しかし、イエスはそのような人間の行動に対して「そんなことをあえてしなくても、あなたの存在を理解してくださる方がいれば、それでいいのではないですか」ということを問われたかったのではないかと、私はこのたとえ話から聴き取りたいと思ったのです。この場合の理解者とは、私たちの神に他なりません。
見た目やこの世の中一般では決して目立つことなく、大した評価も得られないかもしれません。しかし、私たちを守られる神がおられるということによって私たちが安心を得るならば、何も人前で目立たなくても、そういうことをあえてしなかったとしても、その安心感というものを周囲は良いものとして見てくださるのではないかと私は思うのです。
人前での評価を気にする前に、主の御前にあって誠実に生きること。これは、今日の旧約聖書の言葉への私たちの応答なのかもしれません。そんな思いを抱きつつ、今日も与えられた一日を神である主とともに歩むことが出来ますように。皆さんの一切が神によって守られ、理解されるなかで、大きな喜びを味わうことができますように。お祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿