くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書30章18節
主は公正の神であられる。
なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む者は。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章5節
あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
土曜日、日曜日と黙想をお休みしました。土曜日は私の眼の調子が思わしくなく、パソコンになかなか向かうことができませんでした。静かにしていたこともあり、日曜日の務めも無事に果たすことができ、右眼の視力もかなり回復してきました。左眼の調子は相変わらずですが、必ず回復することを信じて、今週も歩んでまいりたいと思います。心配をし、祈ってくださった皆さまに心から感謝します。ありがとうございました。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が黙想したいと思ったのは「公正」についてです。神の公正とはいったい何かについて黙想したいと思います。
国語辞典を見ると、公正とは「①公平で邪曲のないこと。②明白で正しいこと。」(広辞苑第七版)とあります。公平とは、誰にでも等分して与えることではなく、皆が同じ水準に立つことができるために、ある者には手厚く、ある者には足りる分だけを与えることであると私は理解しています。つまり、そこに神の公正さというものがあふれているのだと、日本語からも私は理解したいと思うのです。
では、今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書30章の御言葉にある「公正」とは何でしょうか。旧約聖書の原語では「ミシュパート(מִשְׁפָט)」という言葉が用いられています。旧訳聖書では、神のご性質を表す代表的な言葉としてしばしば用いられているものです。実にさまざまな意味で用いられているわけですが、それらの意味に共通するのは、神御自身がご自分の発された言葉と行い、それに裏打ちされた律法や預言の言葉に何の矛盾もなく、私たち人間の命をご自分の正しさによって取り扱われることによって、私たちもまた神とともに生きる幸いへと導かれる。そのために神はご自分の公正(ミシュパート)を執行されるということです。
つまり、神は自分自身の思想だけにとどまらず、ご自分が思われたことは私たち人間が誰も漏れることなく、少なくされることも多くされることもなく、必要なものを必要なときに、必要な分だけ、私たちの欲求にかかわらず神がこれで良しと思われたように私たちに行いをもって及ぼされるということなのです。
そこには私たちの望むところと別な神の応答というものがあるかもしれません。しかし、そこにこそ、神の深い知恵によって生み出される導きというものが存在するのだということを私は受け止めたいと思いました。その神の知恵というものを、私たちは自分自身の知恵を超えて働くものなのだということを、じっくりと考えつつ受け入れる者でありたい。今日の聖書の言葉はそんなことを私自身に思い起こさせるものでした。
今日の新約聖書の言葉は、ヤコブの手紙の一節でした。神はご自分の知恵を惜しみなく求める者に与えてくださるのだと手紙には記されています。私たちが求めるのは私たちの欲求そのものではなく、その欲求に対して神はどのような思いをもって私たちに働きかけてくださるのかという知恵を理解し、それを受け入れようとする心なのでしょう。神の深いご計画に対する信頼の思いこそ、私たちを幸いな者として導いてくださる。そのことに私たちひとりひとりが心を寄せて生きる一日でありたい。そのように受け止めたいと思わされたのでした。
今日も神の知恵が私たちの限りある知恵を超えて働き、私たちとともに歩んでくださる神に感謝の思いを抱くことができますように。主にある守りと平安を心よりお祈りします。
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