くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
民数記14章20節
主は言われた。「あなたの言葉のとおり、私は赦そう。」
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書11章25節
また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
ここ一週間、ローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。黙想する時間を十分に取ることができなかったのが一番の理由ですが、毎日行っていることが出来ないでいると、再開しようとするタイミングを逃してしまう私自身の弱さの問題もありました。眼が見えにくいことも(右眼はまったく問題なく見えています。左眼も少しずつではありますが、また回復し始めています。)、ここ数日で起きたパソコンやインターネット環境の不具合も相まって、負のスパイラルにはまり込んでしまった自分自身がありました。
この間、いつも黙想を楽しみにしてくださっている方々から心配や安否を問うメッセージをいただいたりもしました。本当に申し訳ない限りです。そして感謝の気持ちでいっぱいです。今朝起きたとき、神に祈るなかで気持ちを黙想をお届けするのを再開しますということを神にお伝えすることができました。神がこの弱い私を助けてくださる。そんなことを胸に抱きながら、黙想を再開したいと思います。どうぞお付き合いのほど、よろしくお願いします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神に赦されている者の生き方」ということについてでした。
神に赦されているというのは、神と向かい合うことができない(こういう状態のことを、聖書では「罪」と表現しています)自分自身に気付かされた時に、神と向かい合いたいと心から願う私たちのことを、神は両手を広げて私たちを招き、守り、養ってくださるということ全体を意味するのだと私は理解しています。
ごめんなさい。とてもいい言葉だと思います。この言葉は、謝罪するための言葉として用いられることも当然ですが、それ以上に、切れかかった関係性を回復することを願う言葉なのだと私はあらためて思わされました。
私は本当に相手に対して悪いことをしたと思うときに、ごめんなさいという言葉を口にします。しかし、それはこれまで築いてきた関係性が続くのを願ってのことでもあります。それは自分の利益だけのためではありません。この関係性を築かせてくださったのは私たちの神であることを心から信じているからです。
ただ、ごめんなさいという言葉を口にしても、許されないことも結構多いのです。いつまでも恨みのなかにあって許されない経験というものが、いつまでも自分自身のなかで苦味をほとばしらせながら残っている私自身があることを自覚しますし、その逆もしかりなのです。人間関係というものは本当に難しいものだと痛感させられるのです。
しかし、私たちは神に真摯に向き合い、その関係性のなかで健やかに生きたいと願う時に、今日の聖句のように神は破れかかった関係性を繕い、回復させ、つながってくださるのです!この神の寛大さを目の前にして、何と自分自身はちっぽけな存在なのだろうかと思わずにはいられないのです。
私たちは神のような寛大さを示せないかもしれません。しかし、神に対するあこがれはイエスが示してくださった生き方を自分自身のあこがれでもあり、イエスが私たちのための回復・復活の主となられたことに私たちが心を寄せつつ、少しでも赦しということを真剣にとらえていきたい。そのように思わされたのでした。
神に赦されていることが一体どういうことなのかを、今一度考えるための素晴らしい一日となりますように。敗れた関係性に光を当て、それを修復してくださる神とともに歩む一日が、祝福に満たされたものでありますように。心からお祈りします。
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