くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章12節
子をいとおしむ父のように
主は愛する者を懲らしめる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章32節
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
月曜から行われていた牧師の研修会もいよいよ最終日となりました。昨日も書きましたが、この研修会に参加される牧師の皆さまから、講師の先生方から、一緒にこの研修会を準備してきた委員会の牧師たちから、大きな刺激を受けています。あらためて牧師としての原点に立たされた思いでいます。とても素敵な三日間を過ごすことができています。今日も家路に着く時までの一切が、神によって守られることをただただ祈るばかりです。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「懲らしめ」という言葉についてです。「主は愛する者を懲らしめる」という箴言の言葉を、私たちはどのように受け止め、この言葉に聴くことができるだろうか。そんなことを想いました。
懲らしめるという言葉を国語辞典で調べますと「制裁を加えて懲りるようにさせる」(広辞苑)とあります。このようなイメージをこの語に持つ者として、では私たちの神は、果たして私たちに制裁をあえて加えることによって、私たちに懲り懲りとした思いを与えるのだろうかと思ったのです。
そのことを考える助けとなるのが、今日の新約聖書の言葉であるルカ15章にある「放蕩息子のたとえ話」と呼ばれるイエスによる話です。親から財産の生前贈与を受けてその財産をすべて遊興のために使い果たしてしまった息子がいました。経済的にも身体的にも心情的にも、彼はとてもみじめな状況に立たされました。この状況を見て、私たちはこの息子に何を思うでしょうか。「自業自得だ」と思うのではないでしょうか。少なくとも私はそのように思うのです。
この自己責任を決して神に押し付けることはできないのです。いわゆる「他責思考」ではこの息子にとっては何の解決にもなりませんでした。みじめな状況に立たされることこそ、自分自身の情けなさに向き合わなければならない。これこそ懲らしめに相当する出来事だったのだと私は思います。決して神がいたずらに懲らしめられたわけではありません。自分自身の無力さに立たされた時点で、それは彼にとって十分な懲らしめを想うひと時となったのです。
大切なのは、神は自ら制裁を与えるのではなく、人間自身が懲らしめという言葉を自分自身のものとして深く感じることができるようにその人当人を見守ってくださる神がおられるということなのだと私は受け止めたいのです。人が自分自身の無力さに気付かされたときにこそ、神の愛があふれんばかりにその人に注がれるのです。今日の箴言の言葉にしろ、放蕩息子のたとえ話にしろ、その結末はその人を大切に守ってくださる方が、ご自分の愛をもって迫ってくださるということでした。
ですから、聖書で物語る懲らしめとは、懲らしめの先にある神の愛を見ることのできるものなのだということなのです。懲役のような上から降りかかってくるものではなく、自分自身の神と向き合う歩みのなかで、自分自身の心に気付かされるものである。そのことを心に刻みつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。
皆さんの新しい一日も、神の愛が指し示す豊かさを感じ取る幸いに包まれますように。お祈りします。
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