17/08/2025

2025.8.17(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編90編10節
私たちのよわいは七十年
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙3章10節
私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間がやってきました。今日、世界中で祝われる主の日の一切に、そして各地でおこなわれる礼拝や集会のすべてに、神の守りと祝福が豊かにありますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「限りあるからこそ」というものでした。そのことを黙想としてつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデ王によって歌われた詩の一節です。人生の日々は豊かなものであっても、苦しみに満ちあふれていたとしても、その寿命は七十年か八十年。限りあるなかでその人生は過ぎ行くことを、彼自身の人生から感じ取ることのできる現実を歌ったものです。この世界は限りあるもの。無限などというものは存在しないのだと、私たち人間世界の限界というものを知る聖書の言葉として、言い継がれてきました。
 
私たちは「どうせ一度きりの人生だから」という言葉をしばしば用いることがあります。それは人生とは限りのあるものだという環境のなかで、それを当たり前のものとして受容していますから、そのような言葉が口から出るわけですし、そのことに疑いを挟む者など誰もいないのです。おそらくダビデもそのような現実のなかでこの詩を歌ったのでしょう。
 
しかし、ダビデは知っていました。私たちには限りはあるけれど、神は無限のなかで私たち人間とともに生きておられる御方なのだということをです。それは単に、人生八十年という物理的な人生の期間のことだけを述べているのではありません。私たちの感情や思考、行動によって出会うさまざまな出来事のなかで限界を感じることがあっても、私たちの神は無限と永遠のなかで生きておられる方なのだということへの、彼の信仰告白の言葉でもあったのです。
 
失われたものはそう簡単に帰って来ることはありません。しかし、神はご自分の無限のなかで、私たちにそのことを気づかせようとしてくださっている。このことが、後に御子イエス・キリストを通して「復活」という新しい概念を、私たち人間に知らせ、それをイエスの復活を通して実際に人々へ見せてくださったのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロによる手紙の一節です。彼は牢獄のなかにありました。ある意味で言えば夢も希望も失われておかしくない状況のなかで、パウロが手紙につづったのは、イエスの復活についてでした。イエスが私にとってのキリスト(救い主)であること、そのイエスが復活の主であることを「私は知りたい」と、パウロは切望しました。人間の限界ある思いを超えて働く神の永遠に、その神が与えてくださる祝福にあずかりたい。パウロの希望に満ちあふれる姿というものを、ここから読み取ることができるのだと私は思います。
 
私たちの限界があるからこそ、神が私たちのうちに光輝く。そんなことを胸にして、この新しい一週間を歩むことができますようにとお祈りします。私事ですが、今週は火曜から木曜まで心臓のカテーテル治療のため病院へ入院します。この入院と手術がその後を生きる希望となることを第一に置いて、その希望を与えてくださる神へ祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。もしできますならば、祈りの片隅に加えてくださいますと大変感謝です。どうぞよろしくお願いいたします。
 
皆さんの新しい一週間に、永遠なる神の守りと平安がともにありますように。お祈りします。

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